第1章 序幕 ~お嬢様は魔王がお好き~ ①
――速水くんの、黙々と授業を受ける背中が好きだ。
席が前後になったのは奇跡だと思う。
180cmは超えてるだろう長身、広くて大きい背中、プリントを後ろに回してくれる指先、話したときの声――すべてが実咲の好みなのだ。
実咲が速水 司に惚れ込んでいるのはそこだけじゃない。少し長めの黒い髪、黒い瞳。すっと通った鼻筋、はっきりした顔立ち。誰もが「かっこいい」と認める端整な容姿は、すれ違う女子生徒たちの視線を集めまくっている。
面食いって言われるかもしれないけど……好きなものは好きなのだ!
「――じゃあ、少し難しい応用問題を……そうだな、速水ならできるだろう」
速水 司は、教師たちからも一目置かれている。
それまで聞こえてなんていなかった数学教師の声が、「速水」という単語を伴っただけで、突然実咲の聴覚へ入り込んでくる。黒板を見遣ると、確かに実咲には解けそうにもない高水準の問題が板書されていた。
クラス全員が司に注目する。彼は立ち上がって黒板の前まで歩いていき、迷うことなく問題を解き始めた。
しんとした教室。
チョークを握る指先も、カッターシャツの広い背中も。司という存在すべてが、実咲の心を捕らえて離さない。司を好きだと自覚したのは、いったいどれほど前だっただろう。
ほどなくして、司がチョークを置いた。
「正解、完璧だ。さすが学年1位」
先生が、赤のチョークで大きく丸をつけた。おおっ、とクラス中にどよめきが起こる。司ははにかんだように笑いながら、席に戻った。その笑顔もまた、女子生徒たちのハートを射抜きまくる。
(あぁっ、もう、なんでこんなにカンペキなの!?)
スタイルが良くてかっこいいのに、ずば抜けて頭がいい。運動神経もいいし、死角がひとつもない。なんでも出来るからお高くとまっているのかと思えば、親しみやすくてフランクな性格をしている。
もし今、神様がひとつだけ願いを叶えてくれるとしたら、実咲は確実にお願いするだろう。「速水くんの彼女になりたい」と。
◇ ◇ ◇
1年生のとき、実咲は、司のことを好きになった。同じクラスで、誰もが認めるカリスマ性を持つ彼にやられてしまったのだ。それ以来、遠巻きに彼を見つめる日々を過ごしていた。
けれど、彼と直接的な接点を持つことはできなかった。司は女の子に大人気。学年の美人な子たちと何度も噂になっていて、特別可愛いというわけでもない実咲は、自分に自信が無かったのだ。ろくに彼と話すこともできないまま進級し、実咲は恋を諦めようとしていた。
けれど次の年、実咲は神様に感謝した。
(速水くんと、今年も同じクラス……!)
2年生になってはじめて足を踏み入れた教室に、速水 司がいたのだ。相変わらず女の子たちの視線を奪いながら、爽やかな笑顔を浮かべて友人と談笑している。
実咲は決意した。
(彼女になりたいとか、そんなんじゃない。……ただ、今年こそ近づいてみたい。速水くんに)
――そして、今。もうすぐ夏休みになろうとしている季節。
実咲は、大きな進歩を遂げていた。
1ヶ月ほど前に行われた席替えで、司の後ろの席になり、思いきって彼に話しかけたのだ。
その時の会話は緊張していて、実咲自身よく覚えていない。だがそれ以来司は、後ろの席の実咲に頻繁に話しかけてくるようになったのだ。
当初は緊張して目も見れないほどだった。けれど慣れてきた今では、話がかなり盛り上がることもある。司は、話し上手だった。
たわいもない話ばかりだけれど、実咲は、どんどん司について詳しくなっていった。
色んな女の子と噂になってるけど、実はその誰とも付き合っていないこと。今は彼女がいないこと。勉強は予習と復習だけ、塾には行ってないこと。実はちょっぴり人見知りだっていうこと。
司も実咲の話を楽しそうに聞く。話すうちにお互い打ち解けあって、今ではスマホでやりとりするほどになった。
実咲は、ちょっぴり自慢に思っていることがあった。
(私、かなり速水くんに心を開いてもらってるかも)
ついつい笑みがこぼれてしまう。もし今の自分を1年生のときの自分が見たら、卒倒するかもしれない。
そして実咲は、ついつい期待せざるを得なくなっていた。
――司の、自分に対する好意を。