第3章 対極 ~冥王と英雄~ ⑤
司にイジメを告白して以来、泉美は学校へ一度も行っていない。もちろん司はそれでいいと思っていた。
彼はただ、最愛の人が疲れた心を休め、もう一度笑ってくれることだけを望んでいた。
部屋にこもりがちだった泉美は、徐々に司の前に姿を見せるようになった。一緒にご飯を食べ、一緒に食器を片付けて。少しずつ、ほんの少しずつ泉美の表情が和らいでいくことが、司を心から安心させた。
司の受験も無事に終了し、あとは残された中学生活を淡々と送るだけ。司は、泉美の心に寄り添うことと、その類稀な頭脳で完璧な「計画」を練ることに専念していた。
そんな寒い冬のある日のこと。
来客などほとんど訪れないはずの家の、ベルが鳴った。夕食を終えて泉美と共に寛いでいた司は、ふとして立ち上がる。
(誰だろう)
歩いていき玄関の扉を開けると、そこに居たのは、春日井の制服を着た男子生徒だった。
(誰だ……!?)
司は思わず身構える。
どうやら知らないあいだに雪が降っていたらしく、男子生徒は髪やまつげに雪を降られながら身を縮こまらせていた。
吐き出した息が白く消えていく。頬を撫でる外気は痛いほど冷たい。
男の正体を見破ろうと、司は鋭い視線で彼を見ていた。
「どなた……ですか」
「こんばんは、夜分遅くにすみません。泉美さんとお付き合いをしている、更科というものです」
「えっ……!?」
男の言葉に、司は衝撃を受ける。にわかに信じられなかった。
――泉美に、「彼氏」?
そんなこと一言も聞いていない。
だけど自分だって、決して泉美にそういうことを言おうとはしなかった。
だったら泉美もそうなのかもしれない。司が今まで考えもしなかっただけで、泉美だって年相応の恋愛をしていないわけがないだろう。
……でも…………泉美は……――
司が混乱を深めているのが分かったのだろう。更科と名乗った男は、僅かにまなじりを下げて優しい表情になった。
「泉美さんのことで、少しお話があって」
どうなってるんだ。
司は困り果てながらも、男を寒いところに立たせっぱなしなのは失礼だと思い、それに男と泉美を会わせればすべてはっきりすると思い、部屋に上げた。
「秀明くん!?」
リビングに入ってきた秀明を見るやいなや、泉美は驚いて目を丸くする。その瞬間、彼と泉美が知り合いであることは確定していた。
「秀明くん……なんで!?」
「泉美……。よかった、思ってたより元気そうだね。弟くんのお陰かな」
駆け寄ってきた泉美にそう言いながら、秀明がゆっくりと彼女の頬を撫でる。すると泉美はくすぐったそうに目を閉じた。
それは、司が初めて見た泉美の表情だった。十数年一緒に過ごしてきた「姉」の顔はどこにもなくて、それが司をどうしようもない気分にさせた。
(……ほんとに、付き合ってるんだ)
当たり前ながら、司はそんなことを思った。
(なんだろう、この気持ち)
例えるならば、好きな芸能人のゴシップを知ってしまったときに似ているだろうか。
自分だけの、清純な天使だと思っていた。いつか手に入れるはずの人だと思っていたから……。
司は完璧な頭脳でありながら、泉美が他の男に取られたときの想像をしたことがなかったのだ。初めて経験したとも言えるであろう新しい種類の感情に、司は愕然としてしばらく立ち尽くしていた。
「それで、秀明くん、どうして……」
おずおずと問いかけた泉美の声で、ようやく司は我に返った。泉美が彼の名を親しげに呼ぶことすら、司の気持ちをふつふつと煮えたぎらせる。
「……実は、弟くんに話があって。泉美、ごめん。少し、外してもらえない?」
「……え? あ、うん……」
泉美は戸惑いながらも素直に秀明に従い、自室へ行った。
2人きりになり、秀明がしっかりとした視線で自分を見てきて、司は無表情で見返した。
「……驚かせたかな。姉に恋人がいるなんて初耳、って顔してる」
「そう、ですね……。今ちょっと色々、処理しきれていないというか」
テーブルの傍にある椅子に座りながら、司は自嘲気味につぶやいた。
「司くん、だったよね。泉美がいつも君のことを自慢してたよ。姉想いでいい子だって」
「そんな……ことは」
「ただ少し心配してたんだ。司くんにとって俺、邪魔者に見えたりするんじゃないかって」
司は、どきりとした。
「そんなこと思いませんよ」
そう言ってのけた自分の顔が、引き攣りそうだった。
外面を繕うことなんて、司にとってはいつも赤子の手を捻るくらい簡単なことだ。偽りの自分、仮面をつけた自分で過ごすことなんて彼にとって、なんの造作もなかった……はずなのに。
(なんで。なんでこの人の前だと、俺……)
司は、怖くなってきた。
「ところで……話とは」
だからできるだけ真剣な顔をして、話題を変えることに専念した。
問われて、思い出したようにはっとした秀明は、ふと真面目な声音になる。
「……少し長い話になりますが。泉美もあなたも、決して孤独じゃないということを分かってほしい。そのために俺は今日、ここに来ました」
◇ ◇ ◇
――泉美はもともと、クラス内でも目立つ2人、「桃井彩女」そして「小椋怜奈」と仲良くしていました。とても楽しそうに毎日を過ごしているなぁと、俺は同じクラスながら遠い場所から泉美を見ていました。
ただ、いかにも大人しそうな泉美がどうしてその2人と一緒にいるのか、傍から見ていて少し不思議に思っていました。桃井彩女は、言わずと知れたあの「桃井富太郎」の娘なのです。学園内でもその権力を誇っていました。
泉美と、桃井と、小椋。3人のバランスが崩れだしたのは、二学期に入ってからでした。クラス内の「恋愛」のいざこざに巻き込まれた泉美は、気づいたときには2人から無視をされるような形になっており、クラスの大半がその異変に気づいていました。
泉美はどんどん窮地に立たされていきます。桃井たちの扇動により「泉美は悪者」というイメージを植え付けられたA組の生徒は、こぞって泉美を無視するようになりました。面白がって率先してやる者もいれば、桃井に怯え、罪悪感を感じながらもしぶしぶ従った者もいます。しかしどちらにせよ泉美は深く傷つきました。
泉美に対する行為をエスカレートさせていったのは、男子のリーダー格である「芦屋雄大」です。こちらも官僚の息子という破格の家柄ですが、人間性に欠けていました。
面白ければそれでいい、そんな発想だったのでしょう。クラス中を、「無視」から「イジメ」の方向へと持っていきました。
俺は、訴えました。まずは担任教師。泉美の長期に渡る欠席を体調不良だと信じて疑わない、無知な中年の男です。俺の訴えに担任は正義感を燃やし、イジメの主犯を俺に問いただしました。
俺は、答えました。
「桃井彩女と、小椋怜奈。そして、芦屋雄大」
と。
俺の言葉に担任の表情は一変しました。そして信じられないことに、彼は眉間に皺を寄せながらこう言い放ったのです。
「もう金輪際、おれにその話をするな」
俺は自分の耳を疑いました。生徒を守るのが務めである教師が何を言ってるんだと。腹が立って、俺は泉美がされたことすべてをそいつにぶちまけました。しかしそれは逆効果だったようです。彼はますます表情を曇らせ、「志野にも何か非があるんだろう」と言ったきり、俺を無視し始めました。
そのときの俺は、怒りとか悲しみとか、そういうのを振り切ったものを抱いていたと思います。担任が血の通った人間だと思えませんでした。
このままでは埒があかないと思った俺は、次に、理事長クラスの重鎮たちに訴えました。泉美になされた数々の所業を余すことなく伝えました。
けれど、彼らも重い腰を上げようとはしませんでした。それどころか、俺を諭そうとしてきたのです。
「更科くん。恋人のために躍起になる気持ちもわかる。だが、少し感情的になりすぎていないかね? 話に脚色が入っていないかね? 立場が偏りすぎていないかね? 少し休憩して、省みてみたまえ」
ふざけるなと叫びました。胃の奥から熱いのが湧き上がってくるような感じで、汗をかいていたと思います。あまりにも理不尽で不服で、ついに俺は思っていたことすべてをぶつけました。
「お前たち全員、桃井の影に怯えてるんだろう!? この学園はなんだ、桃井の奴隷を育ててるのか!? お前たちはそんなことのために教師として働くことを屈辱とは思わないのか!?」
俺は肩で息をしていました。すごい気迫と剣幕だったに違いない。自分の勝ちを確信していました。……だけど、甘かった。
俺が全身全霊で訴えたのに、彼らが顔色ひとつ変えず冷めた目をしているのを見て、はじめて「怖い」と思ってしまったんです。大人たちは、そんな俺の一瞬の恐怖を目ざとく見つけて、これ幸いとばかりにつけ込んできました。
「よく分かってるじゃないか、更科くん。そこまで賢いのなら、これ以上の反発は君の身のために止めておいたほうがいい、ということも分かるだろう」
脅されたんです。
異常だ、と思いました。教師が生徒を脅す学校。俺はとんでもないところに来たということをやっと理解したんです。
たしかに世の中、「綺麗事」だけじゃやっていけない。だけど春日井はそれを遥かに超えている。俺は突然、この先も春日井で過ごさなければならないことがとても怖くなりました。
◇ ◇ ◇
「――俺は、学校に屈してしまった。だからこんなことを言える立場じゃないのかもしれない。だけどやはり、泉美を癒してあげたい。泉美の未来を明るいところへ導きたい。限られたことでもいいから、俺にできることがあるなら何でもします。だから、どうか俺を頼ってください」
正面に座る秀明が、すっと頭を下げた。
「好きなんです。泉美が、すごく。幸せにしたいんです。――いや、します。必ず俺が、救います」
彼の言葉は司の胸に、相反した2つの感情を呼び起こした。
こんな誠実な人が泉美の恋人であることへの喜びと、それとは逆の真っ黒な独占欲。決して交わることのない2つの感情がぐるぐる渦巻いて、司の身体中を埋め尽くす。
静かな混乱の中、司は何も言えずに俯いた。まっすぐで眩しい秀明を直視することができなかった。
(――俺が『普通』だったら、この人の存在を素直に喜べた?)
やっぱり、「欠陥品」じゃないか。
司は、乾いた唇で薄く笑う。
どうしようもなく、「姉」であるはずの人を渇望してしまう。こんな欲望は彼女を苦しめるだけでしかないのに。
(幸せになってほしい。この人に守ってもらって、この人と一緒に歩んでいってほしい。……だけど、渡せない)
(……俺も好きなんだ。俺だって、欲しいんだ。どうしようもなく……)
泣きたくなるほどの葛藤に、司はその夜、眠ることができなかった。