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第3章 対極 ~冥王と英雄~ ④

 泉美を渇望してやまない心は、まるで大きな欠陥を抱えているかのようだ。それをどうにか克服したくて、中学生の頃の司は、女の子から告白されたら大抵付き合うようにしていた。


 だけど司はどうしても、女の子たちの向こう側に泉美の姿を見ていた。それに気づいた司は虚しくなって、貪欲に泉美を欲する本性に抗うことをやめた。


◇ ◇ ◇


 あれほど楽しそうに高校に通っていたのに、突然学校を休み始めた泉美。司が理由を聞いても「体調がすぐれない」としか言わない。打つ手が無い司は、久しぶりに透子が帰ってきた日、自分の受験の相談もそっちのけで泉美のことを話した。


「泉美、どうしたのかしら……」

「部屋に篭ってばっかりで、体調は悪そうといえば悪そうなんだけど、それだけじゃないというか」

「司には何か心当たりはないの?」

「ないから困ってるんだよなぁ〜……」

「不安ね。トラブルでも起きてないといいんだけど」

「トラブル?」


 ピンと来なくて、司は小首を傾げる。すると透子は、遠いところを見るような目をした。


「……泉美って、綺麗な子じゃない。だから、女の子たちに妬まれてないといいんだけど」

「なんか女の世界……」

「でもそういうもんよ、女は」


 その時の司は、透子の話を冗談半分で聞いていた。透子は勘ぐりすぎだと思ったし、確かに泉美は群を抜いて美人で嫉妬されてもおかしくないが、彼女はそれに勝るほどの愛嬌も持ち合わせている、と司は思っていた。

 しかしそれは、司の「男」としての主観でしかなかったようだ。


 透子と話をしてから数日経った日のこと。彼女はまた忙しい日常へと身を投じ、しばらく帰ってこない。司は、いつものように一人で夜ご飯を食べていた。


(そろそろ……泉美のこと、はっきりさせなきゃ)


 泉美が学校へ行かなくなって1週間が過ぎようとしている。

 腹を割って泉美と話さなければならない。彼女に何が起こっているのか知る義務がある。

 司は食器類を片付けてから、ついに泉美の部屋へ向かおうとした……が。


 ふと振り返って、絶句した。


「…………泉美?」


 少し離れたところに、いつの間にか泉美が立っていたのだ。なぜかその手に1冊の大学ノートが握られている。全く気配がしなかったのと、目の前の泉美の変わり果てた容貌に、司は驚かずにはいられなかった。


「……泉美、どうして……」


 これまで頑なに面と向かって司と会うことを拒否していた泉美。久々に間近で見たその姿はやせ細り、もともと白かった肌がさらに青白くなっていた。美しいはずの顔立ちは、虚弱ではかない線の細い少女のように見える。

 そして、あの大きくて魅力的な瞳が、まるで精気を失っていたこと。それが何よりも司の心を貫いた。


「…………話があるの」


 嗄れた声に、司はびくりとして肩を震わせる。それが泉美の声だと気づくのに数秒を要した。


 ふらふらとした足取りで、泉美はなんとかリビングのソファに座る。自分も座らなければ。司はそう思うのだが、金縛りにあったように動けなかった。


(これは……なんだ)


 ようやく泉美の隣に座って見下ろした彼女は、やはりとうてい泉美とは思えない姿をしていた。何が彼女をこうさせたのか。司の胸が騒ぎ出す。


 それから長い沈黙が降りた。泉美の乾いた唇が開いては閉じるのを繰り返している。時計の秒針がやたら耳についた。空気が重い。


(…………泉美)


 なぜだかわからないけれど、司は胸騒ぎがして落ち着かなかった。

 泉美はただの体調不良なんかじゃない。それは手に取るようにはっきりと分かっている事実だ。だからこそ今から、泉美のほんとうの苦しみを知ってしっかりと寄り添わなくてはならない。そんな覚悟はとうにしたはずなのに。


 それなのに司は、嫌な予感を止められない。


 ……やがて、意を決したように泉美が口を開く。か細い声だった。


「司。…………私、いじめられてるの」


 言われた意味がよく分からなくて、司はしばし硬直した。


「…………は? 泉美が? なんで?」

「多分もう二度と、学校には行けない。足が、動かないの……」

「ちょっと。ちょっと、待って、泉美」


 混乱していた。

 「いじめられている」?

 それがどういうことを指すのかが理解できない。あまりに訳がわからなくて笑みさえ浮かんできそうだ。


 冗談だろ、と。司はそう返そうとした。だけど俯いていた泉美が顔を上げた瞬間、司は息を呑んだ。


(……うそだ)


 精気のないはずの瞳に、涙が浮かんでいるのだ。まるで、捨てられた人形が泣いているかのよう。

 あまりにも悲痛なその表情に、司は咄嗟にすべてを悟った。


(……ああ、泉美。どうして……)


 どうして。

 どうして泉美が、こんな抜け殻にされてしまったのだろう。


 何も言えなくて、でも泉美という現実を直視することもできなくて、司は視線を右往左往させる。その眼前に、泉美は手にしていたノートを突きつけてきた。


「なに、これ……」


 こわごわと、司はそれを受け取る。泉美は何も言わないが、開けろということだろうか。恐る恐る開いてみると、司に衝撃が走った。


「死ね」

「裏切り者」

「顔だけ女」


 口にするのもおぞましい、酷い言葉たちが書きなぐられていたのだ。


 もうやめてくれ。


 司はそう叫びたかった。泉美がいじめられているという事実がいよいよ現実味を帯びてくるのが、耐えられなかった。


「もう、限界なの。できる限りのことはした。だけど駄目だった。……ごめんなさい司。許して……」


 人形の頬に、涙が伝う。司は指を伸ばし、その涙の一筋を掬いとった。そして、今にも壊れそうな人形をそっと抱きしめた。


「…………つか、さ……。……ごめ……な……さ……」

「よく、頑張ったね。気づいてあげられなくて、本当にごめん……」


 司は、泉美の髪を撫でる。

 抱きしめられ、泉美は声を上げて泣いた。


 震える泉美を優しく抱きしめながら、けれど司は激情を抑えきれない。


(許せない)


(許せない、許せない、許せない!)


(誰のものだと思ってるんだ!? 誰のものに手を出したか分かってるのか!?)


 ――そうだ。


 排除してやる。


 泉美を傷つける者は誰であろうと許さない。


 どんな手を使ってでも……、復讐してやる。


 真っ黒な決意を腕の中の泉美に知られないよう、そっと心の奥に仕舞った。


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