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第2章 愛憎 ~女帝に制裁を~ ⑥


 心を貫いた鮮烈な感情は、まごうことなき「憎しみ」だった。

すべてを奪われたという怒りと、哀しみ。実咲は、いつの間にか正常な判断力を失ってしまい、歩んではいけない道を歩み始めていた。


 だから実咲は気付くよしもなかったのだ。姉がひどい仕打ちを受けた高校に、なぜ、司も入学しているのかということに。


◇ ◇ ◇


 期末テストがあったため、夏期講習中の教室の座席は、出席番号順に並び替えられている。だから、司と前後だった席も今は離ればなれになっていた。

 でも、それでよかった、と実咲は心底安堵している。司とどう接していいのか分からない。ずっと続いていたLINEも相手の既読無視で終わっていて、実咲は、罪の意識と司への愛情との間で揺れていた。


「ねぇ、実咲! こないだ、テレビで実咲のとこの病院見たよ!」


 今は、女友達と話すことさえ億劫だ。よりにもよって家の話をしてきたチエに適当な相槌を返しながら、実咲は視界の隅で司を見ていた。


「日本一の外科医さんなんだってね! 実咲のとこじゃないとできない手術がいっぱいあるんでしょ? ほんとスゴイ!」


 司は、男友達とくだらない談笑で笑っている。あの笑顔の裏にあんな過去を隠しているのだと思うと、実咲は、「速水 司」という人間がどんどん分からなくなっていくような気がした。


 同じ教室にいるのに。今は、司が遠い。彼と仲良くなる前より、「速水くん」と呼んでいたあの頃より、はるかに遠い場所に来てしまった。


 何度願ったか、わからない。実咲はただ渇望していた。彼のそばで笑っていた、あの頃に戻ることを。


 だけど許されるはずがないのだ。司の大切な人を傷つけたのは、他でもない……


「実咲、前に言ってたよね。お姉さんが跡取りだって。すごい重圧だね……」


 ――姉。そうだ、姉。

 あいつが、全てをぶち壊した。


 燻っていた憎しみを、はっきりと思い出す。


(覚悟は、まだ鈍ってない)


 むしろ、増している。


 実咲は、薄く笑う。あまりにも空虚なその笑みに、チエは気づかなかった。


◇ ◇ ◇


 夏期講習は午前で終わりのため、一人で帰宅する。部屋に荷物を置いてから、リビングで必要なことを準備し始めた。


 あの雨の日の出来事は、実咲から感情と呼べるものを全て奪い去っていった。

 これからやろうとしていること。とても大きなことのはずなのに、心は全く波立たない。むしろ、司への愛だけでここまで出来るのだと、妙に自分に感心していた。


 以前、彩女が家に来ていたとき。うとうとしながらも、彼女が「いずみ」という名を発していたのを覚えている。実咲の予想が正しいのなら、おそらく……。


 コトリ、と。テーブルの上にとある金属物を置いた。それとほぼ同時に、玄関のドアの開いた音がした。


「ただいま」


 怜奈が帰ってきた。両親は今日は帰ってこない。


「お姉ちゃん」


 そこには、妹としての思慕はもはや存在していない。怜奈という人間を呼ぶためのただの代名詞だった。


 実咲が家を出ていったあの日。結局、実咲は夜遅くに帰ってきたのだけれど、びしょ濡れの実咲に怜奈は何も言わなかった。それから、ろくに会話のない日々が続いていた。


「なに」

「私、彼氏と別れたの」

「……ふぅん?」


 怜奈の唇の端が震えたのを、実咲は見逃さない。おそらく笑いをこらえたのだろう。実咲はもはや、なんの感情も抱かない。


 心の中に広がるのは、枯渇した砂漠だった。喜びも哀しみも無い世界。何も感じない。ただ、その世界に存在するたった一人……司だけを、認識している。


 実咲の瞳は、色が無かった。


「お姉ちゃんって昔、同じクラスの人を不登校にさせたんでしょ?」


 ……あまりにも唐突な実咲の言葉に、怜奈は目を丸くした。


「はぁ?」

「知ってるんだよ。泉美さん、でしょ? 退学にまで追い込んだんだよね」

「ちょっと黙って……」


 表情を変えず、機械のように話す実咲を、怜奈は頭を掻きながら制する。余裕な目をしながらも、怜奈の顔には隠しきれない動揺が滲み出ている。

 姉妹は、静かに睨み合っていた。空気が重い。


 一呼吸の後、実咲は顔を歪めて笑った。


「全部、知ってるから」

「黙って」

「彩女さんと一緒になっていじめたんでしょ? そして、彩女さんの家の力で、その事実をねじ曲げた」

「黙れよ!」


 叫びあげて、床に置いた鞄を蹴る怜奈。実咲を睨みつけるその視線は鋭く、まるで妹を見る目ではない。敵意に満ちている。


「何も知らないくせに! いつだってそうだ、何も知らないやつはいつもあの女の味方をする! おかしいでしょ!? ちょっと顔が良いからって!」


 血走った目で、怜奈は実咲の肩根を掴み、ものすごい勢いで揺さぶった。


「なんであいつなの!? なんでみんな、あいつがいいの!?」


 うわ言のように繰り返す怜奈のどこにも、普段の威厳なんて存在しない。泉美への嫉妬に狂った、「ただの」女だった。


 身体を揺さぶられながら、実咲は口角を吊り上げて笑う。いまだかつて見たことのない、怜奈のひどい有様は醜くて滑稽で……、愉快だった。

 追い討ちのように、実咲は続ける。


「付き合ってた彼氏、泉美さんの弟だったの……」


 怜奈は、一切の動きを止めた。


「私が『小椋怜奈』の妹だって分かって、別れたいって言われた!」


 実咲の肩を掴んでいた怜奈の指が、力を増す。俯いていた顔を上げ、吐き捨てるように言った。


「あんたが何を知ってるって言うの!? 泉美が全部悪いのよ!」

「だからって不登校にして退学にまで追いつめて、挙句の果てにその家族の笑顔まで奪って、そんなこと許されない!」


 両者は一歩も譲らない。ただ、その挙動の静けさから言うならば、実咲が圧勝だった。息の荒い怜奈に対して、落ち着き払った実咲。怜奈は、彼女のその落ち着きようがますます気にくわないのだろうか、歯ぎしりせんばかりに表情を歪めた。


 ――あと、もう一手。


 冷静な声音のまま、実咲は最後の手段に出た。


「……ねえ、全部バラしていい?」


 空気が冷たくなって、怜奈の表情が一変した。


「……本気で言ってる?」


 脅しでもかけるような低い声。

 負けじと返す。


「報いを受けるべき」


 真っ直ぐな実咲の視線に、怜奈は呆れたような困った笑みを浮かべた。


「バラせば、あんたはスッキリするかもね? ……でも、いいの? 小椋総合病院の不名誉は、あんたの不名誉。あんたに、その度胸がある?」

「……あいにく、家族になんの愛着もないの。だからその家族を訴えるのよ」


 強気な笑みを浮かべたまま、怜奈は一瞬硬直し、そして次の瞬間、もの凄い勢いで実咲の胸ぐらを掴んだ。


「死ねって! バラしたら殺す!」


 憎悪と狂気に満ちた目。

 小椋怜奈。「女帝」の本性が、剥き出しになっていた。


「殺したいなら殺せば!? それでお前が世間に知れ渡るのも、償いになるかもね!?」

「あぁっ!?」


 もの凄い力で、怜奈は実咲を壁に叩きつけた。


「痛っッッ!」


 頭と背中を強打して、あまりの痛みに顔をしかめる。しかし容赦のない怜奈は、うずくまる実咲の胸ぐらをもう一度掴んだ。


「離してッ!」

「バラさないって誓え!」

「ぜんぶお前がやってきたことでしょ!?」


 ありったけの力で怜奈を突き飛ばす。今度は怜奈が壁に打ちつけられた。

 しばらく怜奈はそこから動こうとせず、実咲は彼女の動向を観察する。やがて怜奈は数秒高らかに笑ったかと思うと、ふと真顔に戻り、唸るような低い声を発した。


「……殺す」


 豊かな髪が乱れている。その隙間から覗く怜奈の目を見た瞬間、実咲は咄嗟にテーブルの上に手を伸ばした。


「お前のせいで! お前のせいで司がぁっ!」


 咆哮しながら、ハサミを振り下ろす。怜奈のお腹に突き立てられたそれは、彼女の皮膚を突き破ることはなかったけれど、悲鳴をあげるだけの痛みは伴ったらしい。


 実咲は、気持ちがいい、と思った。


 崩れ落ちるようにして座り込んだ怜奈は、精気が抜けきった様子だった。


「バラしてやる」


 憔悴しきった怜奈にそう言ってみても、もはや彼女からは何の反応も伺えない。ちょっぴりつまらない気がしながらも、実咲の心は、かつてない優越感と快楽で溢れていた。


(待ってて、司)


 色のない瞳で怜奈をひとしきり見てから、実咲は、部屋を後にした。


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