第2章 愛憎 ~女帝に制裁を~ ⑤
実咲は心底戸惑っていた。苦い表情を浮かべる泉美に。
恐怖? 憎悪? 困惑?
泉美の表情から、様々な単語が思い浮かぶ。どれが正解なのか分からないけれど……ただ一つはっきり言えることは、実咲が泉美にまったく歓迎されていない、ということだった。
(私、なにか粗相をしちゃったのかな……?)
混乱して、実咲の頭は真っ白になっていく。一方の司も、泉美の態度が解せないようで、実咲に助け船を出してくれた。
「泉美? どうかした?」
問いかけられて、はっとしたように目を見開く泉美。その口元が一瞬、悲しげに歪められるのを見た。
そして、泉美は衝撃的な一言を発する。
「……ごめんなさい、帰ってもらってもいい?」
(え……!?)
告げられた言葉の意味を、咄嗟に理解することができなかった。それくらい衝撃的で、不可解で。哀しいほどに綺麗な泉美の瞳が、ただ怖くて……痛かった。
「泉美、どうして――」
「司。おねがい、帰ってもらって」
眉根を寄せて語気を強める司に、なおも実咲を邪険にする泉美。こんな状況に置かれて呆然としながらも、実咲は、なぜ司はお姉さんのことを名前で呼んでるのだろう、と、どうでもいいことに気付けるくらいの余裕はあった。
泉美は、司と目を合わせようとしない。苦い表情で唇を噛み続けている。
――どうやら実咲は、彼氏の姉にも受け入れてもらえなかったようだ。そう思った瞬間、目に映るすべてが色あせていくように感じられた。不思議と何の感情もわいてこない。
「司。私、帰るよ」
「何言って……泉美! 一体どうしたんだよ!?」
「ごめんなさい、司……ごめん、なさ……っ」
「泉美っ!?」
泉美は、気を失った。
◇ ◇ ◇
アパートの近くにある公園を教えてもらって、実咲はそこのベンチに座って司を待っていた。
いろいろなことを考えた。
泉美という人物。容姿だけでなく、それ以上の……司に似た「オーラ」のようなものが、彼女にはある。人を惹きつけて虜にして、離さない力だ。そして彼女もまた、隠しきれない「陰」を持ちあわせていた。
(司は『半分』って言ってたけど。『姉弟』だ、ちゃんと)
そんなことを思っているあいだに、司が到着した。遅くなってごめん、と詫びを入れながら、実咲の隣に腰かける。
「……えっと、色々と、ごめん」
「泉美さんは……?」
「だいぶ落ち着いたよ」
司の話によると、あのあと数分後には、泉美は目を覚ましたらしい。今はベッドで安静にしているそうだ。大事にならなくてよかった、と実咲は思った。
しばらく沈黙が降りた。それはとても重くて、居心地の悪いものだった。
(雨……降ってきそう)
いつの間にか太陽が姿を消していた。蝉の声も少しずつ減ってきている。
「心の病気なんだ、泉美」
司は、やはり唐突に話し始めた。
「え……?」
「すごく長い話になるけど、聞いてくれる?」
◇ ◇ ◇
泉美は、本来なら春日井の3年生なんだけど、退学したんだ。今は絵の予備校に通って、そっちの道を目指してる。
退学した理由は、単刀直入に言うなら「いじめ」だった。泉美は1年生の時、クラス内のあるグループからひどいいじめを受けた。1年生の終わりごろ不登校になって。2年生には進級できたものの、1学期には退学した。
本当にひどいいじめだった。俺は、それを実咲に詳しく伝えるつもりはない。思い出すだけでも吐き気がするんだ。だけど泉美にはきっと、まだ俺に知らせていない事実があるに違いない、って俺は踏んでる。
すぐ学校を辞めればよかったのにね。どうしようもなく誠実な人なんだよ。めちゃくちゃ努力して合格した高校だし、なにより、母親にかなり無理を言って受験したから。泉美は、母親に報いるために学校に通い続けたんだ。
泉美のクラス内で、ただ一人、勇敢に泉美をかばってくれた人がいて。その人が、学校側にいじめを訴えたり……本当に、色々なことをしてくれた。だけど相手グループが強すぎた。内部進学のとんでもないお金持ち集団で、事実を揉み消されてしまった。学校側も、金持ち達を擁護するばかりだったらしい。
当時の俺は、いじめと戦うよりも、泉美の心のケアを優先していた。どうにか泉美に笑顔を取り戻してほしくて。ずっとそばにいたのに、その苦しみに気づいてやれなかったせめてもの罪滅ぼしとして、ひたすら泉美に寄り添い続けていた。
だから、いじめの加害者側の詳しいことは、正直いまだによく知らないんだ。だけど、さっき泉美が教えてくれた。
どうやら、いじめの主犯の1人に、小椋怜奈という女がいたらしい――――
「……小椋怜奈って、前に集会で表彰されてた、実咲のお姉さんだよね……?」
(うそ…………!?)
「泉美が取り乱したのは、実咲が小椋怜奈に似てて、なおかつ同じ名字を名乗ったから、らしい」
「ごめんなさい! 本当に、ごめんなさい!」
突如告げられた衝撃の事実。悪寒さえ覚えるようなその内容に、混乱しながらも、とにかく謝らなくては、と思った。
「本当に、ごめんなさい……!」
あの人形のような泉美を、文字通り人形にしてしまったのは、実咲の「姉」。寄り添いあって生きてきた、幸福な司の家庭を切り裂いたのも、実咲の「姉」。その姉への憎悪と、妹であるという羞恥が、実咲の心をめちゃくちゃに押しつぶす。ただ苦しかった。巨大すぎる憎しみは苦しいのだと、実咲は初めて知った。
そして、鮮烈に思った。
――死んでしまえばいいのに。死んで、報いたらいい。泉美さんにも、司にも、……私にも。
この瞬間、実咲と怜奈という姉妹は、消滅したも同然だった。
何度も謝罪の言葉を述べる実咲に、司はかぶりを振る。
「実咲は謝らないで。むしろ、何も知らなかった俺が謝るべきだ。現に今、こうやって、全く関係のない実咲も傷つけてる」
「でも……」
あくまで穏やかな司の声は、さらに実咲の心を締め付けた。泉美が味わった痛み、司が耐え忍んだ苦しみ。それらを思うと、実咲はどうしていいのかわからない。
「……俺、怖いんだよ。本当はもっと弟として、いじめの実態を詳しく把握して、戦わなきゃならないって、分かってる。だけど耐えられないんだ。泉美がどんなことをされてきたか、それを知れば知るほど俺の心も壊れそうなんだよ。ずっとそばで見守ってたんだ。ずっと一緒に暮らしてきた。泉美の痛みは、俺の痛みなんだよ……」
それは、誰も知らない、速水 司の「弱さ」だった。誰もが憧れる優等生の「速水くん」の面影なんて、今の彼のどこを探しても見つからない。実咲は、司を抱きしめたい、と思った。だけどこの両腕に、その権利があるとは到底思えない。
「ごめんな……さい……」
弱々しく呟く。どうして実咲が泣くのか、実咲自身もよくわからなかった。実咲の涙は誰も救わない。
ついに、雨が降りだした。街は静寂に包まれていく。
二度目の沈黙のなか、司が、なにか言いかけてはやめるのを繰り返していることに、実咲は気付いていた。
涙が止まらなかった。
静かだ。
このままどこかへ消えてしまえたらどんなに楽だろう。
数回の逡巡ののち、司はついに、実咲がいちばん恐れていたことを言った。
「……実咲は悪くないって、頭ではじゅうぶん分かってる。だけどごめん、別れてくれないか」
それは実咲にとって、生きる意味を失うのと同義だった。
「俺は馬鹿だ。臆病者の馬鹿だから。実咲は、俺じゃダメだ……なにより」
続く言葉は、容易に予想できた。
「……泉美にこれ以上、つらい思いをさせたくないから」
(……ああ)
終わったのだ。何もかも。
たったひとり、生きることを楽しいと思わせてくれた希望の光。大好きな、大好きな存在。
彼と過ごした日々はあまりにも明るくきらめいていた。もう戻れない。そしてもう、新しく重ねることもできない。それらすべての元凶は――他でもない、実の姉。
司は立ち去っていく。見慣れた後ろ姿。その広い背中は、まだ愛しい。
頬を伝うのは、涙なのか雨なのか分からない。
立ち上がることができなかった。
静かに目を閉じる。脳裏にはただ、泉美のつめたい瞳が浮かんでいた。
雨足は強くなるばかり。
「………つか、さ……」
次に目を開けたとき、実咲は、ひとつの決意を固めていた。