第2章 愛憎 ~女帝に制裁を~ ④
司はたまに、突拍子もないことを言う。
(い、家って……)
心の準備とか、覚悟とか……、させてくれないのだろうか?
促されるまま、実咲は司の自転車の荷台に乗った。重くないかと問うと、どこが? と笑ってくれる。実咲は、司の腰にぎゅっと両腕を回した。
水々丘はきれいな街だ。大通りから、少し人通りの少ない路地へ抜け、自転車は住宅街を疾走した。汗をかいているから、風が吹くと体がひんやり冷やされる。それはとても心地よかった。
「あと10分くらいかかるよ」
急いでるわけでもなく、かといってゆっくりなわけでもなく、あくまでいつも通りであろうペースで自転車を漕ぐ司。対する実咲は、さっきから緊張しっぱなしだ。
「……そういえばお家、お姉さんは?」
「この時間は予備校に行ってるから」
(……予備校? もしかして、浪人生?)
どちらにせよ、このままいけば司の家で2人きりということになる。実咲がそう断言できるのは、司の母親は仕事に忙しくあまり家にいない、と以前聞いたことがあったからだ。
(どうしよう。こんな急に……)
司は何を考えているのだろう。こういう時の司は、本当に分からない。
「うちの家、実咲の家みたいに広くないよ」
口数の少ない実咲を気遣ってか、突然、明るい口調で司が言った。
「私の家来たことないでしょ……」
「ミカちゃんが、『実咲の家チョーでっかいよぉ〜』って言ってた」
「に、似てる……」
自転車を漕ぎながらミカの物真似をしてみせる司。謎にクオリティが高くて、実咲は吹き出してしまう。
そっと寄り添った司の背中は、暖かかった。
いつのまにか、実咲の心は晴れやかで。
怜奈と口論したことなんて、とっくの昔の出来事のように思えた。
◇ ◇ ◇
「お邪魔します……」
マンション……というよりも、アパート、と形容するほうが相応しいかもしれない。たしかに、お世辞にも広いとは言えない家だった。
「こっちに引っ越してくる前は、もうちょっと良い家住んでたんだけどね」
玄関で靴を脱ぎながら、司は自嘲気味に苦笑する。やっぱり司は、よくわからないけれど複雑な家庭事情を抱えているらしかった。
実咲もおずおずと靴を脱ぐ。どうやら本当に、司と自分しかいないらしい。緊張して動けずにいると、ふと、玄関先の棚に飾ってある写真が目に入った。よくある家族写真……と思いきや、実咲は驚いて声を上げた。
「お姉さん、春日井学園なの!?」
「あ、うん、そうなんだ。言ってなかったっけ? それ、姉の入学式の朝に撮ったんだ」
思わず、写真立てごと手に取って、しげしげと眺めてしまう。そこには、アパートの階段下で笑顔を浮かべる司、そしてその母と姉らしき人物が映っていた。
司は今より少し幼くて、学ランを着ている。中学生とはいえ、やっぱりオーラがあって安定にカッコイイ。司の母も、品があって落ち着いた美女だ。
なにより衝撃なのは、司のお姉さんがハンパじゃない美しさで、しかも春日井学園の制服を着ている、ということだった。
(お、お姉さん、綺麗すぎ……!)
一言で言うなら「お人形さん」だ。透き通るような白い肌に、薄紅色の頬。小さく微笑みを浮かべる、形のいい唇。そして印象的なのは――「目」だった。ぱっちり大きくて、くりくりの二重で。可憐で、それでいて美しい。
正直、この人の前だと香取さんも彩女も霞んで見える。それくらいのレベルだった。
もはや嫉妬する気も失せる。実咲は、ただただ圧倒されていた。
「お姉さん、入学当初それはそれは話題になったんじゃない? これは綺麗すぎるよ」
「そうかなぁ。ずっと一緒にいるから、あんまり分からない」
「お姉さんのお名前、なんていうの?」
「いずみ。『泉』に『美しい』で、『泉美』」
「うわ、名前も可憐。ぴったりだね」
「……うん、まぁ。それより、はやく上がったら?」
そこで、ようやく実咲は、司を玄関に立たせっぱなしということに気付いた。ごめん、と謝りながら、慌ててリビングへ入る。
一段落ついてから、ふと、あの写真に、司の「父」にあたる人物が映っていないことに気づく。
(……やっぱり、何か事情があるんだろうな)
◇ ◇ ◇
「ん〜、おいし!」
リビングの食卓に座って、アップルパイをご馳走してもらった。家庭料理のレベルを超えた美味しさで、甘党の実咲は大喜びだ。
「よかった。姉も喜ぶよ」
絶品アップルパイはなんと、司のお姉さんの手作りらしい。美人で料理も上手くて、実咲は感激してしまう。
「お姉さん、けっこう料理するんだ?」
「うん。前にも言ったと思うけど、うちは母があんまり家にいないから」
「お母さん、相当なキャリアウーマンなんだっけ?」
「そうだね。夜勤とか泊まりがけとか、あと海外出張もしょっちゅうだし、今週も帰ってこないって」
「じゃあ、お姉さんとほとんど2人暮らしってカンジなんだね。しんどくない……?」
「いや、姉も母も本当によくしてくれてるよ。むしろ俺は幸せ者だと思ってる」
「そうなんだ……」
それは紛れもない司の本心だということが感じられて、実咲は眉尻を下げた。
(3人で支えあって生きてるんだろうな)
複雑な環境の中にあっても、司はまっすぐで、頼りになって、聡い人に育っている。きっとお母さんもお姉さんも素敵な人に違いない、と思った。
そして、そんなお母さんとお姉さんのことを、司は深く愛している。
「……これは実咲だけに言うけど」
ふと司が口を開いて、それまでの静かな空間に、いつもよりも落ち着いた声が降りてきた。実咲は反射的に顔を上げる。
「俺と姉、半分しか血がつながってないんだ」
(…………え……)
明るくて、人気者の司。その司がこんなふうに大人びて陰った表情をするなんて、おそらく実咲しか知らないのだろう。まるで、テレビの有名人の黒い噂を聞いたときのような心境だった。
(……たぶん、お父さんかお母さんのどっちかが、違う人ってことだよね?)
なにがどう、「半分」なのか。踏み込んで聞いていいのかどうか、分からない。司は表情を陰らせたまま、それ以上の言葉は発しようとはしない。
「姉は本当によくしてくれてるよ。ほんとうに……」
司が切なげに目を細めた瞬間、ガチャッ、という音がした。玄関のドアが開いた音だ。
「ただいま〜」
女の人の声がして、実咲は盛大に驚く。
(だっ、誰だろ? もしかして……)
「姉だ」
「ええっ!?」
司の言葉に、一気に心拍数が上がった。
「どっ、どうしよ!?」
「いや、普通でいいよ。そんなに構えずに」
司は楽しそうに笑うけれど、そんな楽観的にいられるわけがない。
(どうしよどうしよ、なんて自己紹介すればいい!? あんな美人なひと、緊張しないわけないって!)
まったく、なんでこう唐突なんだ。実咲は必死に頭を回転させ、挨拶の言葉を考える。
だんだん、足音が近づいてくる。
「ただいま、司。誰か来てるの?」
ドアを開けて姿を現したのは、紛れもなく、司の姉「泉美さん」だった。
(うわっ! ……やっぱり、超美人!)
実物の泉美は写真よりも数倍キレイで、実咲はどぎまぎしてしまう。泉美は泉美で、実咲の存在にかなり驚いているようだ。実咲は見とれながらも、なんとか早口でまくし立てる。
「こんにちは泉美さん! お邪魔してます」
「こ、こんにちは……」
実咲に圧倒されたかのように、泉美は呆然としていた。なんだか気まずくて、助けを求めるように司を見上げる。彼は、そんな2人の様子を面白おかしく見守っていた。
(もーっ、司! 笑いごとじゃないよ!)
状況が飲み込めていないのか、終始無言の泉美。実咲もどうしていいのかわからなくて狼狽える。そこでようやく、司が助け舟を出してくれた。
「前、言ったっけ。彼女いるんだけど……その、彼女」
ちょっぴり照れくさくなるような紹介だ。実咲ははにかみながらも、泉美の目を見据えて、勇気を出して堂々と名乗った。
「はじめまして、小椋実咲です」
――その瞬間、泉美の顔つきが変わった。