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朝、起きたら三つ目になっていました。どうやらそれは千里眼らしいです。

作者: 小宮 麻綾
掲載日:2026/10/29

 最初に気づいたのは、洗面所の鏡を見たときだった。


「…………は?」


 寝ぼけた頭で、鏡の中の自分を見つめる。


 いつもの顔。寝癖のついた髪。目の下の薄いクマ。二十七歳、独身、会社員。特筆すべきところのない、どこにでもいる男の顔だ。


 ただし、眉間から指二本分ほど上。


 そこに、目があった。


 黒目がある。白目もある。まぶたまである。


 そして、その目は俺が鏡を見ていることに気づいたかのように、ゆっくりと瞬きをした。


「うわああああああっ!」


 俺は後ろに飛び退き、洗濯機に腰をぶつけた。


 痛い。


 夢じゃない。


 恐る恐る鏡に近づき、額の目を指で押さえてみる。まぶたが閉じた。指を離すと、また開いた。


「なんだよこれ……」


 昨日は普通だった。酒も飲んでいないし、変なものを食べた覚えもない。頭を打った記憶もなければ、怪しい宗教に勧誘された覚えもない。


 強いて言えば、昨夜、帰り道で変な老人に話しかけられたくらいだ。


『お若いの。遠くを見たいと思ったことはないかね』


 駅前でそう聞かれたので、俺は適当に「そりゃまあ」と答えた。


『ならば、明日の朝を楽しみにしておくといい』


 そのまま老人は、人混みの中へ消えていった。


 まさか。


 いや、まさかじゃない。


 あのじじい、絶対に何かしただろ。


 俺はスマートフォンを手に取り、検索窓に打ち込んだ。


『額 目 生えた 治し方』


 検索結果は、眼帯の広告と、第三の目を開く瞑想講座ばかりだった。


 違う。俺が求めているのは精神世界じゃない。皮膚科か、形成外科か、それとも脳神経外科か。


 そもそも、どこへ行けばいいんだ。


 受付で「額に目が生えまして」と説明する自分を想像し、俺はスマートフォンを伏せた。


 そのときだった。


 額の目の奥で、何かが弾けた。


 視界が、広がった。


 最初に見えたのは、会社だった。


 自宅から電車で三十分ほど離れた、勤め先のオフィス。いつも自分が座っているデスクが、なぜかはっきりと見えた。


 いや、目の前にあるわけじゃない。


 俺は今、自宅の洗面所にいるのだから。


「……何だ、これ」


 試しに、隣の席を見ようと意識してみた。


 すると、視界が横に滑った。


 田中のデスク。佐藤のデスク。部長の席。


 誰もいない。


 当然だ。まだ朝の七時半なのだから、出勤している人間などほとんどいない。


 俺は恐る恐る、別の場所を見ようとした。


 すると、映像が切り替わった。


 駅前の交差点。遠くの公園。見知らぬ街の商店街。


 意識を向けるだけで、好きな場所を覗けるらしい。


「……千里眼?」


 口に出した瞬間、額の目が熱くなった。


 頭の中に、誰かの声が響いた。


『遠きを見る目。隔たりを越え、望む場所を映すもの』


 説明はそれだけだった。


 便利そうだ。


 いや、便利そうどころの話ではない。


 これが本当に千里眼なら、どんな場所でも見られるということだろうか。


 俺は興奮しながら、試しに会社の社長室を見ようとした。


 すると、映像が切り替わった。


 社長室のソファ。


 高級そうな机。


 壁に飾られた絵画。


 そして、社長室には誰もいなかった。


「まあ、そりゃそうか」


 まだ始業時間前だ。


 俺は時計を見た。


 午前七時三十二分。


 会社が始まるまで、まだ一時間半近くある。


 しかし、俺の額には目が生えている。


 この状態で満員電車に乗り、何食わぬ顔で出勤する未来など想像できなかった。


 よし。休もう。


 問題は、その理由だ。


 風邪。腹痛。頭痛。


 どれもありきたりだし、病院に行けと言われたら困る。


 そこで、昨夜食べたものを思い出した。


 賞味期限が二日過ぎたプリン。


 ……これだ。


 俺は真剣な顔で会社の連絡用アプリを開いた。


『おはようございます。昨夜、賞味期限を三日過ぎたプリンを食べてしまい、腹痛があるため、本日は休ませていただきます』

 

 二日よりは三日のほうがいいと思って三日にした。


 送信。


 数秒後、返信が来た。


『プリンで休むな。来られるなら来い』


 ……あの人、鬼か。


 俺は額の目を押さえた。


 こんな状態で出勤できるわけがないだろう。


 仕方なく、もう一度メッセージを打つ。


『申し訳ありません。腹痛に加え、原因不明の発熱もあります』


 送信。


 今度はすぐに返信が来た。


『わかった。今日は休め。明日は来いよ』


 勝った。


 俺は小さくガッツポーズをした。


 社会人として何かを失った気もするが、今はそれどころではない。


 まずは、この目の正体を確かめなければ。


 俺は洗面所を出て、リビングのソファに腰を下ろした。


 改めて、千里眼を試してみることにした。


 東京タワー。


 見えた。


 大阪の繁華街。


 見えた。


 北海道の雪原。


 見えた。


 見覚えのない外国の街並みまで、意識を向けるだけで映し出される。


 すごい。


 すごすぎる。


 これがあれば、宝くじの当選番号だって確認できるかもしれない。


 いや、待てよ。


 競馬なら、レース前の馬の様子を見れば勝ち馬がわかるのでは?


 使い方によっては、億万長者も夢じゃない。


 妄想が膨らんでいく。


 そのとき、ふと、ある光景が目に入った。


 駅前の横断歩道だった。


 小さな女の子が、母親の手を離して走り出していた。


 信号は赤。


 交差点の向こうから、大型トラックが迫っている。


 女の子は気づいていない。


 運転手も、まだ気づいていない。


「――危ない!」


 思わず叫んだ。


 もちろん、声が届くはずはない。


 俺は自宅にいる。女の子がいる場所までは、電車でも三十分はかかる距離だ。


 それなのに、目の前で起きていることのようにはっきりと見えてしまう。


 女の子が一歩、車道へ踏み出した。


 トラックが迫る。


 間に合わない。


「誰か! その子を止めてくれ!」


 俺は額の目に意識を集中し、映像の向こうにいる人々へ届くはずもない声を張り上げた。


 その瞬間だった。


 横断歩道の手前にいた男性が、弾かれたように顔を上げた。


 何かに気づいたように走り出し、女の子の身体を抱き上げて歩道へ飛び込む。


 直後、トラックが横断歩道を通過した。


 ほんの一瞬の差だった。


 女の子は大声で泣き出した。


 男性はその場に座り込み、母親らしき女性が駆け寄ってくる。


 どうやら、間一髪で助かったらしい。


 俺は息をするのも忘れて、その光景を見つめていた。


 よかった。


 本当によかった。


 膝から力が抜け、俺はソファの背もたれに身体を預けた。


 今のは何だったのだろう。


 俺の声が届いたのか?


 そんなはずはない。十キロ以上も離れた場所にいる人間に、自宅から叫んだ声が届くわけがない。


 それでも、男性は確かに俺が叫んだ直後に動いた。


 偶然だったのかもしれない。


 だが、もし。


 もし、この目には遠くを見る以外の力もあるのだとしたら。


 俺は鏡の中の自分を思い浮かべた。


 額に開いた第三の目。


 さっきまで気味が悪いとしか思えなかったその目が、少しだけ違って見えた。


 何でも見えるということは、見たくないものまで見えてしまうということだ。


 けれど、もし誰かが危険にさらされていると知ったなら。


 見なかったことには、できないのかもしかもしれない。


 その日の昼過ぎ。


 俺は会社を休んだまま、リビングで千里眼の実験を続けていた。


 試しに、社長室をもう一度覗いてみる。


 今度は社長がいた。


 机の引き出しから何かをこっそり取り出していた。


 どう見ても、コンビニのプリンだった。


 社長はスプーンでひと口すくい、満足そうに頷いた。


「……社長、そんなにプリンが好きなのか」


 思わずつぶやいた。


 その瞬間、社長が顔を上げた。


 こちらを見た。


 いや、そんなはずはない。俺は自宅のリビングにいる。社長から見えるはずがない。


 だが、社長は確かにこちらを見つめていた。


 顔を歪め、舌打ちをする。そして、慌てて引き出しにプリンではなく、分厚いファイルを隠した。


 ファイルの見出しには、見覚えのない勘定科目が並んでいた。


 ……あれは、何だ?


 俺が首をかしげた瞬間、頭の中にあの老人の声が響いた。


『遠きを見る目。だが、見えることと知ることは違う』


 ハッとして周囲を見渡すが、誰もいない。


『遠くを見渡せるからといって、すべてがわかるわけではない。見えたものをどう使うかは、お前次第だ』


「おい! じじい! どこにいる!」


 叫んだが、声は虚しくリビングに響くだけだった。


 老人の意図も、この目の正体も分からない。


 分かっているのは、さっき社長が隠したファイルが、どう考えてもヤバいシロモノだということだけだ。


 俺は額に手を当てた。


 明日は会社に行かなければならない。


 前髪で目を隠し、いつも通りに出勤して、あのファイルを確かめるべきか。それとも、見なかったことにしてやり過ごすべきか。


 答えは出ないまま、夜が更けていった。


 この目で何を見るべきなのか。


 この力をどう使うべきなのか。


 悩み抜いた末、俺は疲れ果てて眠りについた。


 ――そして、翌朝。


 目覚めた俺は、違和感を覚えて洗面所へ向かった。


 鏡を覗き込む。


「…………は?」


 額の『第三の目』のすぐ隣。


 そこには、さらにもうひとつ、新しい目が開いていた。


 合計四つの目が、一斉に俺を見つめ返してくる。


「じじいいいいいいいいっ!」


 俺の平和なサラリーマン生活は、完全に終わりを告げたのだった。


 

 

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