朝、起きたら三つ目になっていました。どうやらそれは千里眼らしいです。
最初に気づいたのは、洗面所の鏡を見たときだった。
「…………は?」
寝ぼけた頭で、鏡の中の自分を見つめる。
いつもの顔。寝癖のついた髪。目の下の薄いクマ。二十七歳、独身、会社員。特筆すべきところのない、どこにでもいる男の顔だ。
ただし、眉間から指二本分ほど上。
そこに、目があった。
黒目がある。白目もある。まぶたまである。
そして、その目は俺が鏡を見ていることに気づいたかのように、ゆっくりと瞬きをした。
「うわああああああっ!」
俺は後ろに飛び退き、洗濯機に腰をぶつけた。
痛い。
夢じゃない。
恐る恐る鏡に近づき、額の目を指で押さえてみる。まぶたが閉じた。指を離すと、また開いた。
「なんだよこれ……」
昨日は普通だった。酒も飲んでいないし、変なものを食べた覚えもない。頭を打った記憶もなければ、怪しい宗教に勧誘された覚えもない。
強いて言えば、昨夜、帰り道で変な老人に話しかけられたくらいだ。
『お若いの。遠くを見たいと思ったことはないかね』
駅前でそう聞かれたので、俺は適当に「そりゃまあ」と答えた。
『ならば、明日の朝を楽しみにしておくといい』
そのまま老人は、人混みの中へ消えていった。
まさか。
いや、まさかじゃない。
あのじじい、絶対に何かしただろ。
俺はスマートフォンを手に取り、検索窓に打ち込んだ。
『額 目 生えた 治し方』
検索結果は、眼帯の広告と、第三の目を開く瞑想講座ばかりだった。
違う。俺が求めているのは精神世界じゃない。皮膚科か、形成外科か、それとも脳神経外科か。
そもそも、どこへ行けばいいんだ。
受付で「額に目が生えまして」と説明する自分を想像し、俺はスマートフォンを伏せた。
そのときだった。
額の目の奥で、何かが弾けた。
視界が、広がった。
最初に見えたのは、会社だった。
自宅から電車で三十分ほど離れた、勤め先のオフィス。いつも自分が座っているデスクが、なぜかはっきりと見えた。
いや、目の前にあるわけじゃない。
俺は今、自宅の洗面所にいるのだから。
「……何だ、これ」
試しに、隣の席を見ようと意識してみた。
すると、視界が横に滑った。
田中のデスク。佐藤のデスク。部長の席。
誰もいない。
当然だ。まだ朝の七時半なのだから、出勤している人間などほとんどいない。
俺は恐る恐る、別の場所を見ようとした。
すると、映像が切り替わった。
駅前の交差点。遠くの公園。見知らぬ街の商店街。
意識を向けるだけで、好きな場所を覗けるらしい。
「……千里眼?」
口に出した瞬間、額の目が熱くなった。
頭の中に、誰かの声が響いた。
『遠きを見る目。隔たりを越え、望む場所を映すもの』
説明はそれだけだった。
便利そうだ。
いや、便利そうどころの話ではない。
これが本当に千里眼なら、どんな場所でも見られるということだろうか。
俺は興奮しながら、試しに会社の社長室を見ようとした。
すると、映像が切り替わった。
社長室のソファ。
高級そうな机。
壁に飾られた絵画。
そして、社長室には誰もいなかった。
「まあ、そりゃそうか」
まだ始業時間前だ。
俺は時計を見た。
午前七時三十二分。
会社が始まるまで、まだ一時間半近くある。
しかし、俺の額には目が生えている。
この状態で満員電車に乗り、何食わぬ顔で出勤する未来など想像できなかった。
よし。休もう。
問題は、その理由だ。
風邪。腹痛。頭痛。
どれもありきたりだし、病院に行けと言われたら困る。
そこで、昨夜食べたものを思い出した。
賞味期限が二日過ぎたプリン。
……これだ。
俺は真剣な顔で会社の連絡用アプリを開いた。
『おはようございます。昨夜、賞味期限を三日過ぎたプリンを食べてしまい、腹痛があるため、本日は休ませていただきます』
二日よりは三日のほうがいいと思って三日にした。
送信。
数秒後、返信が来た。
『プリンで休むな。来られるなら来い』
……あの人、鬼か。
俺は額の目を押さえた。
こんな状態で出勤できるわけがないだろう。
仕方なく、もう一度メッセージを打つ。
『申し訳ありません。腹痛に加え、原因不明の発熱もあります』
送信。
今度はすぐに返信が来た。
『わかった。今日は休め。明日は来いよ』
勝った。
俺は小さくガッツポーズをした。
社会人として何かを失った気もするが、今はそれどころではない。
まずは、この目の正体を確かめなければ。
俺は洗面所を出て、リビングのソファに腰を下ろした。
改めて、千里眼を試してみることにした。
東京タワー。
見えた。
大阪の繁華街。
見えた。
北海道の雪原。
見えた。
見覚えのない外国の街並みまで、意識を向けるだけで映し出される。
すごい。
すごすぎる。
これがあれば、宝くじの当選番号だって確認できるかもしれない。
いや、待てよ。
競馬なら、レース前の馬の様子を見れば勝ち馬がわかるのでは?
使い方によっては、億万長者も夢じゃない。
妄想が膨らんでいく。
そのとき、ふと、ある光景が目に入った。
駅前の横断歩道だった。
小さな女の子が、母親の手を離して走り出していた。
信号は赤。
交差点の向こうから、大型トラックが迫っている。
女の子は気づいていない。
運転手も、まだ気づいていない。
「――危ない!」
思わず叫んだ。
もちろん、声が届くはずはない。
俺は自宅にいる。女の子がいる場所までは、電車でも三十分はかかる距離だ。
それなのに、目の前で起きていることのようにはっきりと見えてしまう。
女の子が一歩、車道へ踏み出した。
トラックが迫る。
間に合わない。
「誰か! その子を止めてくれ!」
俺は額の目に意識を集中し、映像の向こうにいる人々へ届くはずもない声を張り上げた。
その瞬間だった。
横断歩道の手前にいた男性が、弾かれたように顔を上げた。
何かに気づいたように走り出し、女の子の身体を抱き上げて歩道へ飛び込む。
直後、トラックが横断歩道を通過した。
ほんの一瞬の差だった。
女の子は大声で泣き出した。
男性はその場に座り込み、母親らしき女性が駆け寄ってくる。
どうやら、間一髪で助かったらしい。
俺は息をするのも忘れて、その光景を見つめていた。
よかった。
本当によかった。
膝から力が抜け、俺はソファの背もたれに身体を預けた。
今のは何だったのだろう。
俺の声が届いたのか?
そんなはずはない。十キロ以上も離れた場所にいる人間に、自宅から叫んだ声が届くわけがない。
それでも、男性は確かに俺が叫んだ直後に動いた。
偶然だったのかもしれない。
だが、もし。
もし、この目には遠くを見る以外の力もあるのだとしたら。
俺は鏡の中の自分を思い浮かべた。
額に開いた第三の目。
さっきまで気味が悪いとしか思えなかったその目が、少しだけ違って見えた。
何でも見えるということは、見たくないものまで見えてしまうということだ。
けれど、もし誰かが危険にさらされていると知ったなら。
見なかったことには、できないのかもしかもしれない。
その日の昼過ぎ。
俺は会社を休んだまま、リビングで千里眼の実験を続けていた。
試しに、社長室をもう一度覗いてみる。
今度は社長がいた。
机の引き出しから何かをこっそり取り出していた。
どう見ても、コンビニのプリンだった。
社長はスプーンでひと口すくい、満足そうに頷いた。
「……社長、そんなにプリンが好きなのか」
思わずつぶやいた。
その瞬間、社長が顔を上げた。
こちらを見た。
いや、そんなはずはない。俺は自宅のリビングにいる。社長から見えるはずがない。
だが、社長は確かにこちらを見つめていた。
顔を歪め、舌打ちをする。そして、慌てて引き出しにプリンではなく、分厚いファイルを隠した。
ファイルの見出しには、見覚えのない勘定科目が並んでいた。
……あれは、何だ?
俺が首をかしげた瞬間、頭の中にあの老人の声が響いた。
『遠きを見る目。だが、見えることと知ることは違う』
ハッとして周囲を見渡すが、誰もいない。
『遠くを見渡せるからといって、すべてがわかるわけではない。見えたものをどう使うかは、お前次第だ』
「おい! じじい! どこにいる!」
叫んだが、声は虚しくリビングに響くだけだった。
老人の意図も、この目の正体も分からない。
分かっているのは、さっき社長が隠したファイルが、どう考えてもヤバいシロモノだということだけだ。
俺は額に手を当てた。
明日は会社に行かなければならない。
前髪で目を隠し、いつも通りに出勤して、あのファイルを確かめるべきか。それとも、見なかったことにしてやり過ごすべきか。
答えは出ないまま、夜が更けていった。
この目で何を見るべきなのか。
この力をどう使うべきなのか。
悩み抜いた末、俺は疲れ果てて眠りについた。
――そして、翌朝。
目覚めた俺は、違和感を覚えて洗面所へ向かった。
鏡を覗き込む。
「…………は?」
額の『第三の目』のすぐ隣。
そこには、さらにもうひとつ、新しい目が開いていた。
合計四つの目が、一斉に俺を見つめ返してくる。
「じじいいいいいいいいっ!」
俺の平和なサラリーマン生活は、完全に終わりを告げたのだった。




