五年間、愛の言葉を一度ももらえなかった私は、今夜婚約破棄を申し出ます
「あなたは身を引くべきよ」
伯爵令嬢フェリシア・ヴァイスは、扇で口元を隠しながら微笑んだ。
「クラウス様は私を愛しているの。あなたがいなければ、もっと早く——」
私は彼女の言葉を遮らなかった。
否定できなかったから。
五年間、私はノルトハイム公爵家嫡男クラウス様の婚約者だった。辺境で薬師をしていた母の跡を継ぎ、体の弱い彼のために毎月薬を届けてきた。
愛の言葉は、一度ももらえなかった。
「……ええ、そうかもしれませんね」
私がそう答えると、フェリシア様は一瞬、驚いたように目を見開いた。もっと抵抗されると思っていたのだろう。
でも、私にはもう、抵抗する理由がなかった。
今夜の夜会で、私は婚約破棄を申し出る。
彼が幸せなら、それでいい。
◆
控え室に戻ると、机の上に積まれた紙束が目に入った。
五年分の処方箋。
毎月、彼に届けた薬の記録。配合、効能、注意事項。そして——末尾に添えた、小さなメモ。
『今月は少し顔色が良くなりました』
『季節の変わり目です。ご自愛ください』
『どうか、お元気で』
愛の言葉を口にする勇気がなかった私が、唯一残せた想いの欠片。
彼は一度も、これに返事をくれなかった。
「……もう、必要ないわね」
処方箋の束を引き出しにしまおうとした時、扉が開いた。
「リーゼル様」
ノルトハイム公爵家の執事、ヴェルナーだった。初老の紳士は、いつもと変わらない穏やかな表情で一礼する。
「夜会の準備が整いました。……本当に、よろしいのですか」
彼は知っている。私が今夜、何をするつもりか。
「ええ」
私は微笑んだ。泣きそうになるのを、必死で堪えながら。
「クラウス様が幸せなら、それでいいの」
ヴェルナーは何も言わなかった。ただ、どこか苦しそうな顔をしていた。
◆
五年前のことを、今でも覚えている。
婚約が決まった日、クラウス様は一言も話さなかった。挨拶の時ですら、視線を合わせてくれなかった。
最初は、嫌われているのだと思った。
辺境伯家の令嬢で、社交界での評判もない私。公爵家の嫡男には、釣り合わない。そう思われているのだと。
でも、違った。
クラウス様は、誰に対しても無口だった。言葉を発すること自体が、苦手なようだった。
だから私は、別の方法で彼に寄り添おうとした。
彼が幼い頃から患っている持病。季節の変わり目になると悪化する、原因不明の発作。
母から受け継いだ薬師の知識で、私は彼専用の薬を作った。
最初の一年は、効果がほとんどなかった。
二年目、少しだけ症状が和らいだ。
三年目、発作の頻度が減った。
四年目——彼は、初めて私の目を見た。
何か言いたそうな顔をしていた。でも、結局、何も言わなかった。
五年目の今年。
彼の体調は、かつてないほど安定していた。
私の薬が、ようやく彼に届いたのだと思った。
——でも、それは同時に、私がもう必要ないということでもあった。
◆
夜会の会場は、すでに貴族たちで賑わっていた。
きらびやかなシャンデリアの下、色とりどりのドレスが揺れる。私は目立たない隅の方で、壁際に立っていた。
——いた。
クラウス様が、フェリシア様と話している。
彼女は楽しそうに笑い、彼の腕に手を添えていた。クラウス様は相変わらず無表情だったけれど、彼女を拒絶する様子はない。
ああ、やっぱり。
私よりも彼女の方が、彼にはお似合いだ。
華やかで、社交的で、会話が上手。私にはない、全てを持っている人。
「……お幸せに」
小さく呟いて、私は視線を逸らした。
今夜、国王陛下の前で婚約破棄を申し出る。私から申し出れば、彼の名誉は傷つかない。
それが、五年間彼に尽くした私にできる、最後のこと。
「——リーゼル」
不意に、名前を呼ばれた。
振り返ると、クラウス様がいた。いつの間にか、フェリシア様から離れてこちらに来ていた。
「……クラウス様」
彼は何も言わず、私を見ていた。いつもと同じ、感情の読めない瞳。
でも、今夜は少し違う気がした。何か——焦っているような。
「お話があります」
私は微笑んで、一歩下がった。
「後ほど、国王陛下の前で」
クラウス様の眉が、かすかに動いた。
「待て」
「お気になさらず。きっと、良いお知らせになりますから」
私は背を向けた。
これ以上、彼の顔を見ていられなかった。
◆
国王陛下が玉座に着いた。
夜会の主役たる国王は、穏やかな笑みを浮かべて貴族たちを見渡している。
今だ。
私は前に進み出ようとした。
その時——
「陛下」
ヴェルナーの声が、広間に響いた。
執事が国王の前に進み出る。その手には——
私は息を呑んだ。
あれは、私の処方箋の束。引き出しにしまったはずの、五年分の記録。
「ノルトハイム公爵家執事ヴェルナー、僭越ながら申し上げます」
ヴェルナーは一礼し、処方箋をクラウス様に差し出した。
「旦那様。どうか、これをお読みください」
「……何のつもりだ」
クラウス様の声は低かった。
「ブレンハイム辺境伯令嬢リーゼル様が、五年間お作りになった薬の処方箋でございます。末尾に——」
「ヴェルナー!」
私は叫んだ。でも、もう遅かった。
クラウス様が、処方箋を手に取っていた。
一枚、また一枚。
彼の瞳が、文字を追っていく。
『今月は少し顔色が良くなりました』
『どうかお体に気をつけて』
『あなたの笑顔が見られますように』
『いつか、私の薬があなたを救えたら』
『——どうか、お元気で』
五年分の想い。
彼に伝えられなかった、全ての言葉。
「……っ」
クラウス様の表情が、変わった。
私は初めて見た。彼が、感情を露わにするのを。
「クラウス様!」
フェリシア様が駆け寄ってきた。彼女は処方箋をちらりと見て、嘲笑うように言った。
「そんな紙切れが何だというの? 薬師風情が——」
「黙れ」
広間が、静まり返った。
クラウス様が、声を荒げていた。
五年間、一度も聞いたことのない、怒りの声。
「クラウス……様?」
フェリシア様の顔から、血の気が引いていく。
「お前は俺に『君がいないと寂しい』と言ったと、リーゼルに吹き込んだな」
「そ、それは——」
「俺は言っていない」
クラウス様の声は、氷のように冷たかった。
「お前と話したことすら、ほとんど覚えていない」
周囲の貴族たちが、ざわめき始めた。フェリシア様の顔が、みるみる青ざめていく。
「う、嘘よ! あなたは私に——」
「まだ言うか」
クラウス様は彼女を見下ろした。
「俺の婚約者を侮辱したこと、忘れるな」
フェリシア様は何も言えなかった。周囲の視線が、彼女に集まっている。同情ではなく、軽蔑の目。
嘘をついて公爵家の嫡男に取り入ろうとした女。
その評判は、今夜この場にいる全員に広まるだろう。
彼女は震える手で顔を覆い、逃げるように広間を去っていった。
誰も、追いかけなかった。
◆
クラウス様が、私の前に立った。
彼の手には、まだ処方箋の束が握られている。
「リーゼル」
「は、はい」
「お前は——」
彼は言葉に詰まった。眉間に皺を寄せ、何度か口を開いては閉じる。
「俺は……言葉にするのが、下手だ」
知っている。五年間、ずっと見てきた。
「ありがとうも、言えなかった」
彼の声が、かすかに震えていた。
「お前が毎月届けてくれた薬。どれだけ助けられたか。お前がいなければ、俺は——」
クラウス様は一度、深く息を吸った。
そして——
国王陛下の前で、跪いた。
「陛下」
広間中の視線が、彼に集まる。
「ノルトハイム公爵家嫡男クラウス、申し上げます」
彼は私の手を取った。冷たい指先が、私の手を包む。
「この人以外と、結婚する気はありません」
——え。
「どうか、正式に婚姻をお認めください」
私は、何も言えなかった。
夢を見ているのかと思った。五年間、一度も聞けなかった言葉。一度も見せてくれなかった感情。
それが今、目の前にある。
「……リーゼル」
クラウス様が、私を見上げていた。
「俺以外と、結婚するな」
不器用な声。不器用な言葉。
でも——それは確かに、愛の告白だった。
「……はい」
涙が、頬を伝った。
「はい……っ」
クラウス様の手が、私の涙を拭った。
「泣くな」
「……嬉し涙、です」
「……そうか」
彼の口元が、かすかに緩んだ。
私は初めて見た。
クラウス様の、笑顔を。
「ノルトハイム公爵家嫡男クラウス」
国王陛下の声が、広間に響いた。
「その申し出、認めよう」
拍手が、広間を満たした。
私は泣きながら笑っていた。
愛されていないと思っていたのは——私だけだった。
◆
数週間後。
ブレンハイム辺境伯家の薬草園で、私は星霜草の手入れをしていた。
母から受け継いだ、大切な場所。クラウス様の薬の主原料になる、希少な薬草が育つ庭。
「——リーゼル」
振り返ると、クラウス様がいた。
婚約者として、正式に認められた彼。今日は公務の合間を縫って、わざわざ辺境まで来てくれたらしい。
「お忙しいのに、すみません」
「構わない」
彼は私の隣に立ち、薬草園を見渡した。
「……綺麗な庭だな」
「ありがとうございます。母の形見なんです」
クラウス様は黙って頷いた。相変わらず無口だけれど、あの夜から、何かが変わった。
彼は時々、こうして私に会いに来てくれる。
言葉は少ないけれど、傍にいてくれる。それだけで、私は十分だった。
「リーゼル」
「はい?」
「これからは——」
彼は少し言い淀んで、それから、ぶっきらぼうに言った。
「俺のためだけに、薬を作れ」
私は目を瞬いた。
「……それは、独占欲ですか?」
「そうだ」
即答だった。
クラウス様は真っ直ぐに私を見ていた。相変わらず無表情だけれど、その瞳には——確かに、熱があった。
「お前は俺のものだ。俺以外のために、薬を作るな」
「……ふふ」
思わず、笑ってしまった。
不器用すぎる。言い方が乱暴で、誤解されやすくて、でも——
「はい、クラウス様」
私は微笑んだ。
「喜んで」
クラウス様の手が、私の手を取った。あの夜と同じ、冷たい指先。でも今は——不思議と、温かく感じた。
「……ありがとう」
五年越しの、たった一言。
それだけで、私は十分だった。
彼の隣で、これからも薬を作り続けよう。
——五年分の想いは、ちゃんと届いていたのだから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
無口な公爵と薬師令嬢の、すれ違いと両片想いの物語でした。言葉にできない想いが、五年分の処方箋を通してようやく届く——そんなお話を書きたいと思いました。
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