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五年間、愛の言葉を一度ももらえなかった私は、今夜婚約破棄を申し出ます

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/01

「あなたは身を引くべきよ」


 伯爵令嬢フェリシア・ヴァイスは、扇で口元を隠しながら微笑んだ。


「クラウス様は私を愛しているの。あなたがいなければ、もっと早く——」


 私は彼女の言葉を遮らなかった。


 否定できなかったから。


 五年間、私はノルトハイム公爵家嫡男クラウス様の婚約者だった。辺境で薬師をしていた母の跡を継ぎ、体の弱い彼のために毎月薬を届けてきた。


 愛の言葉は、一度ももらえなかった。


「……ええ、そうかもしれませんね」


 私がそう答えると、フェリシア様は一瞬、驚いたように目を見開いた。もっと抵抗されると思っていたのだろう。


 でも、私にはもう、抵抗する理由がなかった。


 今夜の夜会で、私は婚約破棄を申し出る。


 彼が幸せなら、それでいい。



 控え室に戻ると、机の上に積まれた紙束が目に入った。


 五年分の処方箋。


 毎月、彼に届けた薬の記録。配合、効能、注意事項。そして——末尾に添えた、小さなメモ。


『今月は少し顔色が良くなりました』


『季節の変わり目です。ご自愛ください』


『どうか、お元気で』


 愛の言葉を口にする勇気がなかった私が、唯一残せた想いの欠片。


 彼は一度も、これに返事をくれなかった。


「……もう、必要ないわね」


 処方箋の束を引き出しにしまおうとした時、扉が開いた。


「リーゼル様」


 ノルトハイム公爵家の執事、ヴェルナーだった。初老の紳士は、いつもと変わらない穏やかな表情で一礼する。


「夜会の準備が整いました。……本当に、よろしいのですか」


 彼は知っている。私が今夜、何をするつもりか。


「ええ」


 私は微笑んだ。泣きそうになるのを、必死で堪えながら。


「クラウス様が幸せなら、それでいいの」


 ヴェルナーは何も言わなかった。ただ、どこか苦しそうな顔をしていた。



 五年前のことを、今でも覚えている。


 婚約が決まった日、クラウス様は一言も話さなかった。挨拶の時ですら、視線を合わせてくれなかった。


 最初は、嫌われているのだと思った。


 辺境伯家の令嬢で、社交界での評判もない私。公爵家の嫡男には、釣り合わない。そう思われているのだと。


 でも、違った。


 クラウス様は、誰に対しても無口だった。言葉を発すること自体が、苦手なようだった。


 だから私は、別の方法で彼に寄り添おうとした。


 彼が幼い頃から患っている持病。季節の変わり目になると悪化する、原因不明の発作。


 母から受け継いだ薬師の知識で、私は彼専用の薬を作った。


 最初の一年は、効果がほとんどなかった。


 二年目、少しだけ症状が和らいだ。


 三年目、発作の頻度が減った。


 四年目——彼は、初めて私の目を見た。


 何か言いたそうな顔をしていた。でも、結局、何も言わなかった。


 五年目の今年。


 彼の体調は、かつてないほど安定していた。


 私の薬が、ようやく彼に届いたのだと思った。


 ——でも、それは同時に、私がもう必要ないということでもあった。



 夜会の会場は、すでに貴族たちで賑わっていた。


 きらびやかなシャンデリアの下、色とりどりのドレスが揺れる。私は目立たない隅の方で、壁際に立っていた。


 ——いた。


 クラウス様が、フェリシア様と話している。


 彼女は楽しそうに笑い、彼の腕に手を添えていた。クラウス様は相変わらず無表情だったけれど、彼女を拒絶する様子はない。


 ああ、やっぱり。


 私よりも彼女の方が、彼にはお似合いだ。


 華やかで、社交的で、会話が上手。私にはない、全てを持っている人。


「……お幸せに」


 小さく呟いて、私は視線を逸らした。


 今夜、国王陛下の前で婚約破棄を申し出る。私から申し出れば、彼の名誉は傷つかない。


 それが、五年間彼に尽くした私にできる、最後のこと。


「——リーゼル」


 不意に、名前を呼ばれた。


 振り返ると、クラウス様がいた。いつの間にか、フェリシア様から離れてこちらに来ていた。


「……クラウス様」


 彼は何も言わず、私を見ていた。いつもと同じ、感情の読めない瞳。


 でも、今夜は少し違う気がした。何か——焦っているような。


「お話があります」


 私は微笑んで、一歩下がった。


「後ほど、国王陛下の前で」


 クラウス様の眉が、かすかに動いた。


「待て」


「お気になさらず。きっと、良いお知らせになりますから」


 私は背を向けた。


 これ以上、彼の顔を見ていられなかった。



 国王陛下が玉座に着いた。


 夜会の主役たる国王は、穏やかな笑みを浮かべて貴族たちを見渡している。


 今だ。


 私は前に進み出ようとした。


 その時——


「陛下」


 ヴェルナーの声が、広間に響いた。


 執事が国王の前に進み出る。その手には——


 私は息を呑んだ。


 あれは、私の処方箋の束。引き出しにしまったはずの、五年分の記録。


「ノルトハイム公爵家執事ヴェルナー、僭越ながら申し上げます」


 ヴェルナーは一礼し、処方箋をクラウス様に差し出した。


「旦那様。どうか、これをお読みください」


「……何のつもりだ」


 クラウス様の声は低かった。


「ブレンハイム辺境伯令嬢リーゼル様が、五年間お作りになった薬の処方箋でございます。末尾に——」


「ヴェルナー!」


 私は叫んだ。でも、もう遅かった。


 クラウス様が、処方箋を手に取っていた。


 一枚、また一枚。


 彼の瞳が、文字を追っていく。


『今月は少し顔色が良くなりました』


『どうかお体に気をつけて』


『あなたの笑顔が見られますように』


『いつか、私の薬があなたを救えたら』


『——どうか、お元気で』


 五年分の想い。


 彼に伝えられなかった、全ての言葉。


「……っ」


 クラウス様の表情が、変わった。


 私は初めて見た。彼が、感情を露わにするのを。


「クラウス様!」


 フェリシア様が駆け寄ってきた。彼女は処方箋をちらりと見て、嘲笑うように言った。


「そんな紙切れが何だというの? 薬師風情が——」


「黙れ」


 広間が、静まり返った。


 クラウス様が、声を荒げていた。


 五年間、一度も聞いたことのない、怒りの声。


「クラウス……様?」


 フェリシア様の顔から、血の気が引いていく。


「お前は俺に『君がいないと寂しい』と言ったと、リーゼルに吹き込んだな」


「そ、それは——」


「俺は言っていない」


 クラウス様の声は、氷のように冷たかった。


「お前と話したことすら、ほとんど覚えていない」


 周囲の貴族たちが、ざわめき始めた。フェリシア様の顔が、みるみる青ざめていく。


「う、嘘よ! あなたは私に——」


「まだ言うか」


 クラウス様は彼女を見下ろした。


「俺の婚約者を侮辱したこと、忘れるな」


 フェリシア様は何も言えなかった。周囲の視線が、彼女に集まっている。同情ではなく、軽蔑の目。


 嘘をついて公爵家の嫡男に取り入ろうとした女。


 その評判は、今夜この場にいる全員に広まるだろう。


 彼女は震える手で顔を覆い、逃げるように広間を去っていった。


 誰も、追いかけなかった。



 クラウス様が、私の前に立った。


 彼の手には、まだ処方箋の束が握られている。


「リーゼル」


「は、はい」


「お前は——」


 彼は言葉に詰まった。眉間に皺を寄せ、何度か口を開いては閉じる。


「俺は……言葉にするのが、下手だ」


 知っている。五年間、ずっと見てきた。


「ありがとうも、言えなかった」


 彼の声が、かすかに震えていた。


「お前が毎月届けてくれた薬。どれだけ助けられたか。お前がいなければ、俺は——」


 クラウス様は一度、深く息を吸った。


 そして——


 国王陛下の前で、跪いた。


「陛下」


 広間中の視線が、彼に集まる。


「ノルトハイム公爵家嫡男クラウス、申し上げます」


 彼は私の手を取った。冷たい指先が、私の手を包む。


「この人以外と、結婚する気はありません」


 ——え。


「どうか、正式に婚姻をお認めください」


 私は、何も言えなかった。


 夢を見ているのかと思った。五年間、一度も聞けなかった言葉。一度も見せてくれなかった感情。


 それが今、目の前にある。


「……リーゼル」


 クラウス様が、私を見上げていた。


「俺以外と、結婚するな」


 不器用な声。不器用な言葉。


 でも——それは確かに、愛の告白だった。


「……はい」


 涙が、頬を伝った。


「はい……っ」


 クラウス様の手が、私の涙を拭った。


「泣くな」


「……嬉し涙、です」


「……そうか」


 彼の口元が、かすかに緩んだ。


 私は初めて見た。


 クラウス様の、笑顔を。


「ノルトハイム公爵家嫡男クラウス」


 国王陛下の声が、広間に響いた。


「その申し出、認めよう」


 拍手が、広間を満たした。


 私は泣きながら笑っていた。


 愛されていないと思っていたのは——私だけだった。



 数週間後。


 ブレンハイム辺境伯家の薬草園で、私は星霜草の手入れをしていた。


 母から受け継いだ、大切な場所。クラウス様の薬の主原料になる、希少な薬草が育つ庭。


「——リーゼル」


 振り返ると、クラウス様がいた。


 婚約者として、正式に認められた彼。今日は公務の合間を縫って、わざわざ辺境まで来てくれたらしい。


「お忙しいのに、すみません」


「構わない」


 彼は私の隣に立ち、薬草園を見渡した。


「……綺麗な庭だな」


「ありがとうございます。母の形見なんです」


 クラウス様は黙って頷いた。相変わらず無口だけれど、あの夜から、何かが変わった。


 彼は時々、こうして私に会いに来てくれる。


 言葉は少ないけれど、傍にいてくれる。それだけで、私は十分だった。


「リーゼル」


「はい?」


「これからは——」


 彼は少し言い淀んで、それから、ぶっきらぼうに言った。


「俺のためだけに、薬を作れ」


 私は目を瞬いた。


「……それは、独占欲ですか?」


「そうだ」


 即答だった。


 クラウス様は真っ直ぐに私を見ていた。相変わらず無表情だけれど、その瞳には——確かに、熱があった。


「お前は俺のものだ。俺以外のために、薬を作るな」


「……ふふ」


 思わず、笑ってしまった。


 不器用すぎる。言い方が乱暴で、誤解されやすくて、でも——


「はい、クラウス様」


 私は微笑んだ。


「喜んで」


 クラウス様の手が、私の手を取った。あの夜と同じ、冷たい指先。でも今は——不思議と、温かく感じた。


「……ありがとう」


 五年越しの、たった一言。


 それだけで、私は十分だった。


 彼の隣で、これからも薬を作り続けよう。


 ——五年分の想いは、ちゃんと届いていたのだから。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


無口な公爵と薬師令嬢の、すれ違いと両片想いの物語でした。言葉にできない想いが、五年分の処方箋を通してようやく届く——そんなお話を書きたいと思いました。


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