第54話 銀霧ミント採取へ
翌朝。
ログインの光が視界を抜けると、いつもの湖畔の拠点が広がっていた。湖は相変わらず朝日にきらめき、静かな水面には白い靄が漂っている。風は少し冷たく、それでいて澄んだ匂いを運んでいた。
「おはよう、ルゥ。セレス」
ユウが声をかけると、焚き火跡のそばから小さな頭がひょいっと出てきた。
ルゥはまだ眠たげに目をこすりながらも、すぐに「ぴぃ!」と弾む声を上げ、前足でユウの足に飛びついてくる。
「はは……元気だな」
その体を受け止めて撫でてやると、銀色の鱗がさらりと指をすり抜けていく。尻尾はすでに全開で振られていて、目の奥には朝から冒険を待ちわびるような期待の光。
一方のセレスは、湖面を背にして静かに佇んでいた。
呼びかけに応じてこちらを振り返り、蒼い瞳を細めると「……コン」と短く鳴く。その声は控えめながらも、どこか甘さを帯びている。
しかも、今日はいつもより近い位置に座っている。わずかな距離の縮まり――それだけで、信頼度上昇の効果をユウは感じた。
「よし、今日もよろしくな」
ユウは二匹の頭を順番に撫でる。ルゥは甘えるように額を擦りつけ、セレスもほんの少しだけ首を傾けて目を細め、撫でられる感触を受け入れていた。
ふと心が和らぐ。たったこれだけのやり取りなのに、「一日の始まり」を確かに実感させてくれるのだから不思議だ。
「今日はピクニックがてら、依頼をこなしてみようか」
ユウがそう告げると、ルゥは「ぴぃ!」と声を弾ませ、尻尾をさらにぶんぶん振った。セレスも尾をゆるやかに揺らし、静かな肯定を示す。
ユウは改めてグラナート商会から受けた依頼の内容を確認する。
《依頼名:香草〈銀霧ミント〉採取》
《内容:丘陵地の朝霧に濡れた個体を十束》
「……要は、朝露を吸った銀霧ミントを十束。採取系だから危険も少ないだろうな」
淡く輝く葉のイラストが添えられた依頼書を眺め、ユウは思わず口元を緩める。
こういう依頼なら、戦いよりも自然探索に近い。まさに“ピクニック”と呼ぶにふさわしいだろう。
「よし、行こうか」
ユウはそう言い、二匹に目をやる。ルゥは「ぴぃ!」と返事をして先に駆け出し、セレスは一拍遅れてその後を静かに追った。
湖畔を離れると、緩やかな丘陵地に続く道が現れる。
朝露に濡れた草が靴の先をかすめ、踏みしめるたびにしっとりとした感触が残る。風は少し強くなり、草原を大きな波のように揺らしていた。
「いい天気だなー……これなら歩くだけで気持ちいい」
ユウは深呼吸をし、胸いっぱいに朝の冷たい空気を吸い込む。草の青い匂いが肺を満たし、頭の中まで透き通っていくようだった。
ルゥは足元で跳ねるように駆け、時折ぴょんと飛び上がっては草に鼻を突っ込む。 セレスはユウの隣を静かに歩いていた。尾をゆるやかに揺らしながら、朝の風を受けるその姿はどこか穏やかで、ユウの歩調に自然と寄り添っているようだった。
「ほんと、散歩してるだけでも十分楽しいな」
ユウは笑い、二匹に声をかける。ルゥは「ぴぃ!」と応じ、セレスは「……コン」と低く返す。その温度差がまた心地よくて、ユウは歩を進めるたびに頬を緩めていた。
丘陵地に入ると、風は湖畔より乾いて通りがよくなった。
斜面に沿って草原が広がり、風に揺れて帯のように波打っていた。ところどころに小さな木が混じり、景色はのどかで開放的だ。ユウは二匹と並んで、草の間に自然とできた道をゆったりと歩いていった。
「さて……銀霧ミントはどこにあるかな」
ユウが周囲を見渡して呟くと、ルゥは元気よく草むらに突っ込み、鼻をひくひく動かしながらあちこち駆け回った。けれど、どこか決め手に欠ける様子で首を傾げている。一方のセレスは、しばらく風に鼻先を向けてじっとしていたが、やがて尾をふわりと揺らし、斜面の先を示した。
「……コン」
短く鳴き、まっすぐにユウを見上げる。その仕草は「こっちだ」と言っているようだった。
「ありがとう、セレス」
ユウは微笑み、セレスの頭を軽く撫でた。ルゥは「ぴぃ!」と声を上げ、待ちきれないとばかりに先へ駆け出していく。
緩やかな下りを抜けると、空気が少しひんやりした。
「……あった」
湿り気の少し濃い場所で、ユウはしゃがみ込む。
そこだけ葉の色が他と違っていた。銀色の粉をうっすらまとったような、青緑。触れる前からスッとする香りが鼻に届く。
「銀霧ミント。これだな」
葉の付け根に朝露が集まり、丸い粒になって光っている。ユウは手早く銀霧ミントを採取していく。
「十束か……群生してるから、ここ一角で足りそうだ」
採取した束をどんどん、インベントリに収めていく。
ルゥは横で「ぴぃ?」と覗き込み、葉の匂いを嗅いで小さくくしゃみをした。
「刺激が強いか? 食べ物じゃないぞ、今日は依頼だからな」
そう言うと、ルゥは食べ物じゃないの部分を理解したようで、すぐに興味を失って尻尾で周りの草をはたいた。セレスはといえば、ユウのすぐそばに腰を下ろし、のんびりと待っていた。耳はときどき小さく動き、視線は草むらや空をゆったりと追っている。まるで、採取が終わるのを静かに見守っているかのようだった。
ユウは作業の手を止めて、ふとセレスに声をかける。
「もう少しで終わるからな」
セレスは短く「……コン」と返し、再び視線を戻した。
四束、五束……葉を傷めないように採取する。何度かやっているうちに、手はすっかり速くなった。
六束目をインベントリに収めたとき、ルゥが急に首を上げた。
「ぴ……?」
小さく鳴いて、東の空を見上げる。
セレスも続いて顔を上げ、耳をピンと立てた。風向きがわずかに変わり、草むらの波が逆流する。
「……なんだこの音?」
最初は、風のうなりだと思った。
けれど、違う。一定の周期がある。
バサ、バサ、と、布でも強く煽ったような空気の振動。しかもひとつではない。複数が重なっている。
ユウは立ち上がり、斜面の上に目をやった。
小高い丘の肩の向こうから黒い影がどんどん近づいてきて、輪郭がはっきりとしてきた。
(……鳥?)
いや、鳥と言うには大きすぎる。
翼を広げれば人の背丈を優に越える。体高は一・五メートルほどか。長い翼を風に乗せ、低空で滑空してくる個体がいくつも。数えると、五。
そのとき、脳裏で一瞬、別の光景が再生された。
――グラナート商会、一階の肉売り場。
整然と並ぶ肉塊を前に、店員が柔らかく微笑んで言った。
『お目が高い。《ロックボア》は東林の若猪で、脂に甘みがございます。《アロマディア》は北原の放牧群より、香草を好むゆえ独特の風味を宿しております。《ウィンドホーク》は丘陵の狩猟品で、肉質は柔らかく煮込みにも適しておりまして』
(もしかして……あれがウィンドホークなのか?)
言葉の最後が、脳内で現在の音と重なった。
バサ――低空でひとつが旋回し、こちらと同じ高さに降りてくる。
翼が陽光を反射して白く光り、胸元には青みがかった灰色の羽毛。鋭い鉤爪がきらりと光り、人の背丈ほどもある大きな鳥だった。
「うわ、ちょっと、マジかよ……あと少しで終わりそうだったのに!」
ユウは思わず叫び、反射的に数歩後ずさる。心臓がばくばくとうるさくて、足元の感覚が定まらない。
だが。
ルゥが一歩、前に出た。
小さな体が軽やかに地面を蹴り、赤い瞳が細く光る。
その横では、セレスが蒼い尾をゆらりと揺らし、静かにユウの前に位置を変えた。耳も尾も落ち着いていて、危険を前にしているはずなのに、不思議なほど余裕がある。
――まるで、迫る影を「敵」とすら見なしていないかのように。
ユウが息を呑んで後ずさるのとは対照的に、二匹はむしろ一歩前へ。
草を切り裂く影を迎え撃つように、その小さな背中が並んで立った。