第52話 蜂蜜酒の照り焼き
燻製を仕込んでから少し時は経ち、昼前。
湖畔にはまだほんのりと燻製の香りが残っていた。白い煙が消えても、湖畔に残った匂いは、確かに「仕込みを終えた余韻」を伝えてくる。
「よし……ちょっと早いけど、照り焼きを作り始めるか」
ユウが朝の焚き火跡の前で小さく呟いた、その瞬間――
「ぴぃ!!」
その言葉を聞いた瞬間、ルゥが弾かれたように駆け寄ってきた。小さな体でユウの足元に擦り寄り、ぐいぐいと顔を押しつけてくる。尻尾はぶんぶんと元気に揺れ、赤い瞳は「早く! 今すぐ!」と言わんばかりに輝いていた。
「はは……そんなに楽しみにしてるのか」
ユウは笑い、しゃがみこんでその頭を撫でる。するとルゥはさらに鼻先を押しつけ、鳴き声まで重ねて「早く早く!」とねだる。
「おいおい、まだ火をつけてすらないぞ」
そう言いながら、インベントリを開くと、先日グラナート商会で買った瓶が現れる。琥珀色の粘度を持つ液体――《蜂蜜酒の煮詰め》。
商会でルゥが興味を示していたため、半ば衝動的に買った調味料だった。蜂蜜酒を弱火でじっくり煮詰め、甘みと香ばしさを凝縮させた品。肉に絡めれば照りが出て、芳醇な香りが立つ。照り焼きにも使えると札で説明されていた品だった。
「今日はこれで、まだ残っているロックボアの照り焼きだな……どうだ?」
足元のルゥが「ぴぃ!」と短く鳴き、尻尾を跳ねさせる。
そして、普段は静かに湖を眺めているセレスも、このときはユウの足元に寄り添い、身体をそっと擦りつけてきた。尾がゆるやかに揺れ、蒼い瞳には期待の色が浮かんでいる。
「ふふ……珍しいな。セレスがそんなに楽しみにしてるのは」
「……コン」
返事をしたあと、セレスはぱっと視線をそらし、耳を伏せるように小さく動かした。尾先もゆるく揺れるだけで、どこか落ち着かない様子だ。普段の静かな振る舞いとは違い、わずかに頬を染めているようにも見えて――それは照れているのが誰の目にも分かる仕草だった。
ユウは笑ってインベントリから分厚いロックボアの肉を取り出した。脂が適度に乗りつつも筋は少なく、ステーキにするのにぴったりだ。
「よし、まずは……焼きだな」
火を入れた焚き火の上に鉄板を据え、表面がじわじわと熱を帯びていくのを確かめる。掌で湖塩をすくい、白い粒を軽く砕いて肉の表面に散らす。
下味を整えた肉を鉄板に置くと――
――じゅわっ。
分厚い脂が音を立て、焚き火の赤に照らされながら湯気を上げる。
立ちのぼる香りに、ルゥは目を丸くし、思わず前足を伸ばした。
「こら、まだだって」
ユウが慌てて押しとどめると、ルゥはぷくっと頬を膨らませ、不満げに小さな頭でユウの足へ「ごつん」と突っ込んできた。
「ははっ……そんなに楽しみなのか」
ユウは笑いながら頭を撫でる。
確かに、この香りを嗅いで我慢しろという方が難しい。脂の甘さと、下味に振った塩が焚き火の熱で立ちのぼり、お腹を刺激する香りを生み出していた。
「……まあ、この匂いを嗅いだら、仕方ないか」
ユウは苦笑して肉をひっくり返した。表面はこんがりと焼き色をまとい、脂がじゅわじゅわと鉄板を走っている。
焼き面が落ち着いたのを見計らい、ユウは《蜂蜜酒の煮詰め》を手に取った。栓を抜いた瞬間、甘くも香ばしい香りがふわっと広がる。
「仕上げは、これだな」
木のスプーンで煮詰めをすくい、熱い肉の表面にそっと垂らす。とろりとした液が熱でゆるみ、ジュウッと音を立てて泡立った。甘みの奥に、ほんのり焼けた香りが重なる。
「ぴぃ……ぴぃぃ……!」
ルゥが堪えきれずに身を乗り出し、またも前足で肉へちょいっと手を伸ばす。
「こらこら、まだだって。 仕上げが終わるまで我慢だぞー」
ユウが制すると、ルゥは今度は小さな尻尾をばたばたと振り乱し、「ぷいっ」と横を向いてしまった。抗議の色を見せながらも、視線は肉から離せていない。
「……まったく、待ちきれないんだな」
苦笑しつつ、反対面にも煮詰めを回しかける。鉄板の端に肉を移動させ、火加減を落として照りをじっくりと仕上げていく。甘いタレがじわじわと煮詰まり、肉の表面に絡んでつやつやと光り始めた。
「よし、いい色だ」
木の皿に肉を移し、少し置いて落ち着かせる。香りは、甘いだけじゃない。焦げの手前で止めた香ばしさと、ロックボアの脂の匂いが一気にあたりに広がった。
待ちきれないルゥがまた「ぴぃ!」と声を上げたので、ユウは苦笑しながら分厚い肉を食べやすい幅に切り分けた。端のひと切れをさらに小さくして食べやすくし、空気に当てて熱を逃がす。
「まずは味見からな。……ほら、やけどするなよ」
そうして、ひとかけをルゥへ。
ルゥはきらきらした目のままぱくっと噛みつき、もぐ、もぐ――尻尾が弾けたように跳ね上がる。
「ぴぃぃぃーー!!」
歓喜がそのまま声になった。前足を小さくバタつかせ、もっともっと、の視線でユウを見る。ユウは笑い、次はセレスの分を小さく切って差し出す。
「セレスもどうだ?」
セレスはふっと息を整え、上品に口を寄せて噛みしめる。蒼い瞳が細くなり、耳が無意識のうちにピンと立った。尻尾はゆらゆらと揺れ、機嫌の良さが伝わってくる。
「よし。じゃあ俺も食べよ」
ユウも自分の一切れを口へ運ぶ。噛んだ瞬間、表面の照りがほろりと崩れ、中から柔らかな肉汁があふれ出す。塩だけで下味をつけたシンプルな肉に、甘く香ばしい蜜が絡み、脂の旨みをぐっと引き立てていた。噛むたびに、肉汁の濃さと蜜の香ばしさが入れ替わるように広がり、自然と頬がゆるむ。
「……めちゃくちゃうまい。これは、反則気味だな」
思わず頬が緩む。と、そのとき――視界の端にウィンドウがふわりと現れた。