第51話 湖畔の静かな時間
グラナート商会から戻ってきて、数日が経った。
新しく手に入れた鉄板や保存容器などの調理道具のおかげで、暮らしはぐっと快適になった。料理の幅も広がり、使いこなすたびに生活がどんどん充実していくのを感じる。
目の前ではルゥが湖畔を駆け回り、まだ朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んでいる。セレスはいつものようにユウのそばに寄り添い、しなやかな尾を静かに揺らしながらゆったりと湖面を眺めていた。
「さて……今日は《燻香樹のチップ》を使って、魚の燻製でも作ってみようかな」
朝食を終えたユウは、二匹に声をかける。
インベントリに魚の燻製を入れておけば、調理の手間を省きたいときに役立つだろう。また、ちょっと小腹が空いたときや、移動の合間にもすぐ取り出して食べられる。そう思うと、準備しておく価値は十分にあった。
「まずは釣りからだな」
ユウはインベントリから、リクライニング式の椅子を取り出した。
金属の骨組みに張られた布地が音を立てて広がる。ユウはそれを抱え、湖の縁まで歩いていくと、ちょうどいい間隔をあけて置いた。
背後には森、正面には湖面――椅子は景色に溶け込むようにそこへ馴染んだ。
「おお……やっぱりいいな、この椅子」
椅子に腰を下ろし、背を少し倒すと、思わず息が抜けた。焚き火のそばで星を眺めるために買ったものだが、朝の湖を眺めながらでも十分に心地よい。
「ぴぃ……」
気づくと足元でルゥが首をぐいっと伸ばし、膝の上を見上げてくる。
小さな赤い瞳がきらきらと輝き、前足をちょいちょいと動かして「抱っこ」とでも言いたげに訴えている。
「ん?……ああ、膝に乗りたいのか」
ユウは笑って膝を軽く叩く。
「ほら、おいで」
ルゥは嬉しそうに鳴き、ぴょんとユウの膝上に飛び乗った。小さな体が落ち着くように丸まり、しっぽが膝の上でふわふわと揺れる。
セレスはリクライニング椅子の隣に静かに腰を下ろした。ユウの隣で湖面を見つめ、尾を規則的に揺らしている。その横顔は、朝日に淡く照らされて神秘的ですらあった。
ユウは片手で竿を握りながら、もう片方でセレスの首元に触れる。セレスは抵抗もせず、むしろ嬉しそうに目を細め、ユウの手に頬を寄せてきた。
「……魚が釣れなくても、十分贅沢だな」
そんな冗談を呟いた瞬間、竿先が小さく震えた。
「おっと……来たか」
竿を引くと、銀色の鱗をまとった魚が水面を跳ねた。湖の冷たい水が飛沫となり、頬にかかる。ユウは慣れた手つきで魚を引き上げ、用意していた水桶に収めた。
その後も竿を振るたびに、小ぶりながら同じような魚が次々と掛かっていく。ルゥは釣り上げられるたびに「ぴぃ!」と鳴き、セレスは静かに尾を揺らして見守っていた。
「よし、これで数匹は確保できたな。燻製にするにはちょうどいいだろ」
ユウは椅子から腰を上げ、水桶を脇に置くと、クラフトウィンドウを立ち上げた。そして、インベントリから木の素材を取り出して組み合わせていく。
慣れた手つきで木片を組み、板を組み合わせ、通気用の隙間を残す。あっという間に小さな木箱の形が整った。中段には枝を削って渡し、魚を並べられる簡易的な台を作る。完成した燻製器は、焚き火の横にちょこんと置かれた小箱のような姿だった。側面には煙を逃がすための小さな穴が空いていて、内部で熱や煙を巡らせられるようになっている。
「……おお、いい感じだな」
ただの木箱に見えて、食材をじっくりと燻す仕組みになっている。見ているだけで「保存食を仕込んでいる」という実感が湧いてきて、ユウは思わず口元を緩めた。
「よし、じゃあ試してみよう」
魚を処理し、内臓を取り除いて軽く水気を切る。その上で塩を薄く振り、風味づけに、これまたグラナート商会で買った《乾燥シトレラ》を少し挟んだ。用意しておいた《燻香樹のチップ》を底に置き、火を入れると、白い煙がふわりと立ちのぼる。
魚を網の上に並べると、煙がまとわりつき、ゆっくりと包み込んでいった。
「ぴぃぃ……」
ルゥが煙に釣られるように鼻をひくひくさせ、前足をぴょこぴょこと動かす。
セレスも静かに目を細め、香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
燻し続けるうちに、魚の表面はつややかな黄金色へと変わっていく。すぐに、湖畔の空気は食欲を誘う香りで満たされた。
「……よし、いい感じだな」
ユウは魚を取り出し、インベントリに保存しようとした。
だがその瞬間、ルゥが「ぴぃぃ!」と声を上げて飛びついてきた。
「おいおい……もしかして食べたいのか」
尻尾をぶんぶん振って見上げる赤い瞳。その勢いにユウは笑いを堪えきれず、ため息をついた。
「仕方ないな。ちょっと味見だけだぞ」
燻製した魚を小さく切り分け、ルゥに差し出す。
ルゥは勢いよく噛みつき、もぐもぐと咀嚼した。尻尾が大きく揺れ、目がきらきらと輝く。
「ぴぃぃぃ――!!」
満足を全身で表現する姿に、ユウは思わず笑った。
「セレスも、どうだ?」
差し出すと、セレスは一呼吸おいてから口を寄せた。静かに噛みしめ、蒼い瞳を細めて尾を揺らす。
ルゥのように大げさではないが、その穏やかな満足の表情は、逆に胸に響くものがあった。
「ふたりとも……気に入ったみたいだな」
二匹の様子を見ながらユウも試食してみる。
口に運んだ瞬間、まず鼻腔をくすぐったのは燻香樹特有のやわらかな煙の香りだった。噛みしめると、魚の脂がじゅわりと広がり、そこに乾燥シトレラの爽やかな風味が重なっている。塩加減は控えめで、燻しによって凝縮された旨味が引き立ち、噛むほどに味が舌に染み込んでいく。
「……これは、思っていた以上に……」
ユウは思わず言葉を切り、噛みしめる動作に集中した。香ばしさと旨味が口いっぱいに広がり、自然と頬が緩む。一口、二口と続けるうちに、ただの保存食どころか普通にご馳走と呼べる出来だと感じて、思わず笑みを漏らした。
「うん……これなら、保存食どころか、ご馳走でも通用するな」
思わず笑みが零れ、膝の上のルゥを撫でる。赤い瞳がきらきらと輝き、セレスは穏やかに尾を揺らす。美味しいものを共に味わう時間――ただそれだけのことなのに、どんな冒険の成果よりも心を満たしてくれる気がすることを強く実感していた。
「……さて。今日の昼ご飯は、せっかくだしちょっと豪華にしてみようか」
ユウは二匹を見渡しながら言葉を継いだ。
「グラナートさんのところで買った蜂蜜酒の煮詰め……あれを使って照り焼きを作ろう。きっと、ふたりとも気に入るはずだぞ」
ルゥが「ぴぃ!」と弾むように鳴き、セレスは「……コン」と小さく声を洩らした。 尾をゆるやかに揺らし、その蒼い瞳にはどこか初めて食べる味への期待の色が宿っている。
湖畔の空気は、焚き火と燻製の香りに包まれながら、次の食卓を待ちわびる温もりに満ちていた。