第4話 【妹視点】焚き火の向こうにいるお兄ちゃん
朝の台所。
トースターの軽い音と、マグカップに注がれるミルクの音。
陽の差す窓辺で、佐伯紗良は椅子に座りながらスマホを覗き込んでいた。
「……やっぱり、バズってるなあ」
指先でスクロールしているのは、VRMMO《Everdawn Online》のユーザー掲示板。いま最も勢いのあるスレッドは、昨夜から話題の「銀色の仔竜を肩に乗せた男」についてのものだった。
『肉を焼いてた』
『フードに潜ってた』
『森から出てこない』
『誰とも話さず森の奥で生活してる』
彼女は画面に映る遠目のスクリーンショットを見て、ふぅと短く息を吐く。
「……まさかね」
でも、心のどこかで確信していた。
その男――プレイヤー“ユウ”が、自分の兄だということを。
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兄は、ずっと疲れていた。
目の下には常に隈があり、口数も少なくて、たまの休日も無気力に過ごしていた。
大学を出て会社に就職してから、ずっと忙しそうで、けれど何ひとつ“楽しそう”な姿を見たことがなかった。
学生の頃は、もっと笑っていた。
休みがあれば登山に行き、キャンプに行き、楽しそうにしていた。
なのに社会人になってからは――
『キャンプなんて行く気力もねえよ、もう』
それが、ある夜ぽろりと漏れた兄の言葉だった。
それが、胸にずっと引っかかっていた。
だからだった。
《Everdawn Online》のベータテストに参加していた彼女が、特典アカウントを誰に譲るかと聞かれたとき――迷わず「兄に」と言ったのは。
このゲームは、戦うだけじゃない。
生活スキルで生きていける。
焚き火もできるし、テントも張れるし、魚も釣れる。
何より――人と関わらずに、静かに“自然の中”にいられる。
それはきっと、兄がいま一番欲しがっている“場所”じゃないかと思った。
だから、何気ないふりをしてアカウントを渡した。
『別にいいんだよ。無理にレベル上げしなくても。キャンプだけしてても、ちょっとは癒されるよ』
そんな風に言って――心の中ではずっと、願っていた。
ゲームの中だけでも、兄が少しでも笑ってくれたら。
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「……これで、正解だったのかな」
朝のテーブルで、ぬるくなったカフェオレを飲みながら、紗良はまたスマホに目を戻す。
スレは相変わらず盛り上がっている。
謎の竜、肉を焼く男、誰とも話さない孤高のプレイヤー。
中には「運営の人間説」「特殊NPC」「β版の隠しクエスト」なんて憶測まで飛び交っている。
「違うよ。あれは、ただのお兄ちゃんだよ」
声に出して呟いたその言葉に、ほんの少しだけ胸が温かくなった。
ふと、紗良はスマホを置き、静かに窓の外を眺めた。
空は澄んでいて、木々の葉が朝の光に揺れている。
「ねえ、お兄ちゃん……今、どんな顔してるの?」
きっと、焚き火を囲んで、何も考えずに座ってる。
ちょっと気の抜けた顔で、でも、穏やかな目で。
隣には、あの仔竜がいる。
たぶん、フードの中で丸くなって寝ているんだろう。
ゲームの中でしか手に入らない静けさ。
でもそれが、今のお兄ちゃんにとっての“現実より大切な場所”なら――
「だったら、少しくらい心配は……我慢してもいいか」
小さく微笑んで、紗良は残ったカフェオレを飲み干した。
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一方そのころ、ゲーム内。
森の木陰で、ユウはルゥを膝に抱えたまま、焚き火の揺らめきを見つめていた。
何も喋らない。誰とも会わない。ただ、そこに“居る”だけ。
肩に乗ったルゥが、小さく鳴いて頭をすり寄せる。
ユウはそれに気づいて、ふわりと微笑んだ。
「……あったかいな」
現実でも、仮想でも。
焚き火の灯りは、きっと、誰かの心を照らしている。