第42話 モフモフを魅了する道具
階段を上り、二階へと足を踏み入れる。
一階の食料品フロアとはまた違う、落ち着いた香りが漂っていた。布と革の柔らかな匂い、磨き込まれた木の温もり。整然と並ぶ棚には衣服や生活雑貨が並び、その一角には従魔用の手入れ道具が揃えられている。
他の客の姿もあった。だが皆、一階と同様、気品を感じさせる者ばかりで、皆静かに吟味している。どこか格式のある雰囲気に、ユウは改めて会員制の意味を実感した。
「こっちじゃ」
グラナートに導かれ、ユウは従魔用の一角へと歩み寄る。
そこに並んでいたのは、見事な艶を帯びた木の柄を持ち、毛先が柔らかに輝くようなブラシだった。
「これは……」
ユウが目をやった瞬間、傍らのセレスがぴくりと耳を立てた。蒼い瞳がじっとブラシを見つめ、珍しく尻尾を揺らしている。
「儂がおすすめする”蒼の幻獣”にふさわしい高級ブラシじゃ。毛並みを痛めず、艶を保ち、魔力の流れを整える効果もある」
グラナートが穏やかに高級ブラシの説明をする。
ユウは値札に視線を落とし――固まった。
「……た、高すぎますよ! これは、さすがに……」
慌てた声に、グラナートは愉快そうに笑う。
「構わん。これも儂からの贈り物の一つじゃ。縁ある者に相応しい品を贈るのも、商人の務めよ」
「いや、でも……さすがに高価すぎます。もう少し落ち着いた値段のもので――」
ユウは思わず遠慮の言葉を並べる。
だがグラナートは首を振り、ユウを諭すようにゆったりとした声で続けた。
「蒼の幻獣には、その名にふさわしい扱いをせねばならん。だからこそ、その名にふさわしい道具を与えるのは、主として当然のことじゃ。……遠慮する必要などあるまい」
その言葉に呼応するかのように、セレスの尾はますます勢いを増して揺れた。普段は落ち着いた様子のセレスだが、今は子犬のようにわかりやすく期待を示していた。
「……セレス、そんなに楽しみなのか」
ユウは苦笑し、グラナートに向き直る。
「……あの、それじゃあ、少しだけ試してみてもいいですか?」
「もちろんじゃとも」
グラナートはにこやかに頷き、店員へ視線を送った。
控えていた店員NPCが静かに一礼し、ブラシをユウに恭しく差し出す。周囲の客たちもちらりと視線を寄せてきた。露骨に覗き込むことはなく、距離を保ちながらも明らかに興味を示している。
ユウは緊張気味にブラシを受け取り、セレスの首元からそっと当てる。
毛先がふわりと蒼白い毛並みに触れた瞬間――セレスの瞳がとろんと細まり、喉の奥から小さく「コン……」と甘えた声が漏れた。
「……そんなに気持ちいいのか?」
問いかけると、セレスはまるで答えるように、身体をユウの膝へすり寄せてきた。尾はふさふさと左右に揺れ、毛並みの一本一本がきらめいて見える。
ユウはブラシをゆっくりと背中へ滑らせた。毛がふわりと立ち、整えられるたびに、セレスは喉を鳴らすような低い声を洩らす。普段はあまり表情を崩さぬセレスが、今はあからさまに喜びを示していた。
「よしよし……こんなに分かりやすく気持ちよさそうにするなんて、お前も案外わかりやすいな」
ユウは思わず笑いながらセレスへと話しかける。
そして、額から頬へ、さらに肩口へ。ブラシの先が通るたびに、セレスは小さく身を震わせ、もっとと言わんばかりに顔を押し付けてくる。尻尾はさっきまでの控えめな揺れから、今ではぶんぶんと音が聞こえそうなほど勢いを増していた。
「そんなに気に入ったのか……。これじゃ、俺が遠慮する理由もなくなりそうだな」
ユウは苦笑しつつも、ブラシを首筋から背に沿って丁寧に動かす。毛並みは一層柔らかさを増し、淡く輝いていた。
周囲の客たちも、その様子に自然と視線を向けていた。誰も口を挟まないが、目の奥に抑えきれない羨望と好奇心が見て取れる。
やがてブラシを通すたびに、ふわりと細かな蒼白い抜け毛が舞い上がり、ブラシの毛先に絡まっていった。
「……あっ」
ユウは思わず手を止め、ブラシを見つめた。そこに付着した蒼の毛を目にして、少し気まずそうに顔を上げる。
「すみません……せっかくの高級品なのに、もう抜け毛をつけてしまって」
だがグラナートは首を横に振り、かすかに笑みを浮かべた。
「気にすることはない。むしろ……その抜け毛、買い取らせてもらえぬか?」
「え……買い取りですか?」
ユウは思わず聞き返す。
「うむ。蒼の幻獣の毛なぞ、市場に出ることなどまずないからこそ、価値は計り知れん。わしとしてはぜひ手に入れたいのじゃが……無理にとは言わん」
商人としての真剣な眼差しに、ユウは一瞬戸惑った。
「……俺には、ただの“セレスの抜け毛”としか思えないので、別に構いませんけど」
言いながらユウは、思わず苦笑を浮かべた。自分にとっては当たり前すぎるものに、そこまで価値があるという感覚がどうしても結び付かない。
その答えに、グラナートは小さく息を吐き、目尻を下げた。
「なるほどのう……。その特別視せぬ眼差しこそ、セレスがお主を選んだ理由かもしれんな」
セレスは気持ちよさそうに目を細めたまま、膝へと頭を寄せてくる。
ユウはそんなセレスをそっと撫でながら、穏やかに微笑んだ。
――と、その様子をじっと見ていたルゥが、唐突に「ぴぃ!」と大きく鳴いた。
尻尾をばたばた振りながら、まるで次は自分の番だと主張しているようだった。
「……はいはい、分かった。次はルゥの番な」
ユウが苦笑すると、ルゥは得意げに胸を張って「ぴぃ!」ともう一声。
セレスはユウに撫でられながら薄く目を開け、ちらりと横目でその様子を見やり――どこか「仕方ない」とでも言うように尾を一度だけ揺らした。