第39話 馬車でヴェルムスへ
焚き火を囲んで少し待っていると、湖畔の小道からグラナートが戻ってきた。
「馬車を森の外に待たせてある。さあ、行こうか」
ユウは頷き、ルゥとセレスを連れて老人の後を歩く。木漏れ日の差す森を抜けると――そこに待っていたのは、想像をはるかに超える光景だった。
漆黒の車体に金の縁取りが施され、扉には赤い宝玉をかたどった紋章。四頭立ての馬は毛並みが光を弾くほど艶やかで、御者台に立つ男の制服も隙がない。
「……えっ」
ユウは思わず息を呑む。頭の中に思い描いていた“グラナートさんのお店”は、知る人ぞ知る落ち着いた名店。けれど、この馬車の豪奢さを前にして、そのイメージは音を立てて崩れていく。
(……グラナート商会って、もしかして想像以上にすごいところなんじゃ……?)
内心の動揺を抱えながらも、勧められるまま馬車へと乗り込む。
車内に足を踏み入れた瞬間、さらに驚きが待っていた。
座席は柔らかなクッションで作られていて、腰を下ろしただけで身体が包み込まれるようだった。
「ぴぃぃ!」
ルゥは大興奮で座席の上を跳ね回り、ふかふかの感触を楽しむように尻尾をぶんぶん振っている。セレスはといえば落ち着いて座っていたが、ふりふりと揺れる尾が上機嫌を隠しきれていなかった。
その様子にユウは苦笑して、隣に腰を下ろしていたグラナートに声を掛けた。
「すみません……ルゥが興奮しちゃって。普段、こんな座り心地のいい椅子なんて知らないもので」
「ははは。気に入ってくれたなら何よりじゃよ」
グラナートは目を細め、跳ね回る仔竜と静かに尾を揺らす蒼狐を見やった。その笑みには、商人としての誇りよりも、ただ純粋に喜ばれて嬉しいという老人の温かさがあった。
馬車がゆっくりとヴェルムスへ向けて進む。規則正しい蹄の音と、車輪が土を踏む振動が心地よく車内に伝わっていた。窓の外には草原が広がり、遠くにはヴェルムスの白壁が小さく見え始めている。
柔らかい座席に身を預けながら、ユウはぽつりと呟いた。
「なんというか……思っていた以上に、グラナート商会って高級そうですね」
ふかふかの座席の上で丸くなっていたルゥがぴょこんと顔を上げ、セレスは静かに尾を揺らしている。
「俺、正直……お金の心配をしてしまって。調味料や食材を仕入れるくらいならいいんですけど、こういう場所に出入りするのって、俺には少し場違いなんじゃないかって」
苦笑まじりの言葉に、グラナートは目を細めて首を振った。
「商人として言わせてもらえば、仔竜や幻獣を従えているお主と結んだ縁こそ、何よりの財産じゃと言える。この縁は金銀で計れるものではない」
穏やかな声音に込められた真心に、ユウは一瞬言葉を失った。だがすぐに小さく息を吐き、苦笑しながら続けた。
「……ありがとうございます。でも、俺、貰ってばかりっていうのは、やっぱりちょっと気が引けるんです。だから、冒険者ギルドで依頼を受けて稼ごうかなって考えてて」
「ふむ……」
グラナートは顎に手を当てて少し考え込む。そして、やや真剣な目でユウを見た。
「だがギルドに行けば、お主のことを良く思わぬ輩も寄ってこよう。仔竜や幻獣を連れておるとなれば、なおさらじゃろう。絡まれて面倒になるやもしれん」
「……それは分かってます。でも、お金を稼ごうと思ったら、仕方のない部分もあるでしょう」
ユウの返答に、グラナートはふっと笑みを浮かべた。
その笑みには、先ほど紹介状を渡した判断が間違いではなかったと確信した安堵と、縁を結んだ若者が自ら歩もうとしている姿への誇らしさが、静かに滲んでいた。
「ならば――グラナート商会からの依頼を受けてみぬか?」
「えっ……商会から?」
「うむ。せっかく縁を得たお主じゃ。儂の住むヴェルムスで嫌な思いをしてほしくはない。それならば、わしから依頼を出せばよい。もちろん、依頼料については特別扱いはできんがな」
グラナートは冗談めかして肩をすくめ、にやりと笑った。
ユウは驚きと感謝で胸が温かくなるのを感じ、思わず深く頭を下げる。
「……特別扱いなんていりません。依頼を受けられるだけで、本当に嬉しいです」
その答えに、グラナートは満足そうに頷いた。
「よし。それでいい。縁を重ねるのは、そうして自然に築かれるものじゃからな」
馬車はなおも進み、遠くに見えるヴェルムスの白壁が少しずつ大きくなっていった。
ふかふかの座席に身を沈めたルゥは、興奮していた勢いもすっかり落ち着いたのか、まぶたをこくんこくんと上下させている。やがて小さく「ぴ……」と寝息を漏らし、尻尾をゆるやかに揺らしながら椅子にとろけるように身を預けた。
その様子をちらりと見やり、ルゥがユウの膝を使わないとわかると、セレスの耳がぴくっと動く。――まるで「今がチャンス」とでも言うように。ためらいがちに鼻先を近づけ、すぐにするりと頭をユウの膝に滑り込ませた。蒼い瞳を細めて見上げる仕草は、控えめでありながらも「甘えたい」という気持ちを隠しきれていなかった。
「……セレスまで」
ユウは思わず苦笑し、そっとその頭を撫でた。膝に伝わる柔らかな重みと、隣で眠る仔竜の寝息。胸の奥がじんわりと温かくなる。
その光景を眺めていたグラナートが、ふっと目を細める。
「仲睦まじいのう。……まこと、良き縁を得たものじゃ」
老人の声には冗談めかした調子ではなく、どこか温かな確信が滲んでいた。
――賑やかな街へ向かう道中だというのに、馬車の中には不思議なほど穏やかで柔らかな時間が流れていた。