第32話 蒼狐の名付け
ログインの光が薄れていくと、湖畔の拠点が視界に戻った。
いつもの焚き火の跡、湖面に映る淡い朝の光、そして――焚き火跡のそばに座る、昨日仲間となった蒼狐の姿。
「……ただいま」
ユウは小さくつぶやいた。
昨日ログアウトしてから今日のログインまで、ほんの一日しか経っていないはずなのに、妙に長く感じられた。
――理由は分かっている。
ログアウトした夜、ベッドに潜り込んだものの、なかなか寝つけなかった。
頭の中では“名付け”の候補がぐるぐる回り続けていたからだ。
「センスが……」「かっこよすぎてもな……」「いや、呼びやすい方がいいか……」
考えれば考えるほど決まらず、結局眠りは浅いままだった。
翌朝、会社へ向かう電車の中でも、オフィスでPCに向かっているときでも、頭の片隅には“名付け”が居座り続けていた。
(隣の席の先輩に「何悩んでるんだ?」って聞かれたときは、さすがに返答に困ったな……)
昼休みにスマホを眺めながら「んー……いや、なんか違う」と呟き、仕事を終えて帰宅する道すがらも「いや違う」と首を振る。
――結局、ログインする直前まで、頭の中は名前のことばかりだった。
「ぴぃ!」
ログインの気配を察したルゥが、焚き火跡の近くから勢いよく顔を出す。赤い瞳がきらきらと光って、「おかえり」と言わんばかりに尻尾をぶんぶん振っていた。
「おはよう、ルゥ」
「ぴっ!」
元気な返事に笑みがこぼれる。その横で、蒼狐も静かに耳を動かした。
朝の光に包まれ、淡く発光する毛並みが揺れる。蒼狐は落ち着いた気配で佇んでいた。
「そして……おはよう、蒼狐。ちょっと待たせちゃったな」
声をかけると、蒼狐は顔をこちらに向け、深い蒼瞳でユウを見据える。無言の返事。それだけで十分だった。
ユウは息を吸い込み、システムウィンドウを呼び出す。
昨日のまま残されていた入力欄が、まるで「まだか」と催促するように待っている。
《新しい仲間に“名付け”をしてください》
――テイムしたモンスターは、初期登録時に名前が必要です
「……よし、決めた」
ユウは小さく息を吐き、蒼狐へと視線を向ける。
「セレスティア……“天の”とか“星の”って意味らしい。昨日、月光に照らされたお前を見て、まるで夜空を映したみたいだと思ったんだ。蒼白い光をまとう姿には、ぴったりだろ」
昨夜の光景が脳裏に浮かぶ。湖畔に立ち、月明かりを浴びて淡く輝く蒼狐――星々の残滓をその身に宿しているように見えた。
「でも、呼ぶならもっと親しみやすい方がいい。だから――セレス」
迷いを振り払うように、ユウは指を動かし、名前を打ち込む。
《蒼狐に『セレス』と名付けました》
――テイムモンスター【セレス】が新しく仲間に加わりました
淡い光がふわりと広がり、蒼狐の輪郭が一瞬だけ鮮やかになった。
名前を与えられたその瞬間、存在がより濃く、より近く感じられる。
「セレス。……これからよろしくな」
「コン!」
呼びかけに応じるように、蒼狐――セレスは嬉しそうに瞳を細め、尾を一度だけ揺らし、鳴いた。
ルゥも負けじと「ぴっ!」と声を上げ、胸を張る。
「はいはい、ルゥの席は取られないって。お前はちゃんと相棒だよ」
ユウは二匹の頭を撫で、笑みを浮かべる。
一人と二匹の関係は、ようやく形になったばかりだ。
名付けの余韻を味わいながら、ユウは焚き火跡を整えたり、湖の水で顔を洗ったりしていた。 陽はじわじわと昇り、森の影が短くなっていく。
――気づけば、昼の時刻だ。
「……よし、そろそろみんなで昼飯にしようか」
「ぴぃ!」
「コン」
ルゥが賛同するように嬉しそうに鳴き、セレスも静かに同意を示し立ち上がる。
ユウは湖水を汲み、鍋に注いだ。
今日は昼食に、昨夜の残りの魚を使ったスープにするつもりだった。余計な具材は足さない。魚の旨味をそのまま引き出すように、骨も一緒に煮込む予定だ。
焚き火を起こすと、ぱちりと乾いた音がして炎が広がる。鍋の底から白い泡が立ち、やがて澄んだ香りが立ちのぼった。
続いてユウは腰袋から小さな包みを取り出す。中には、残りが少なくなってきたシトレラ草。緑の葉を一枚だけちぎり、指先で軽く揉んでから鍋に落として香り付けに使用する。ほのかな香気が湯気に混じり、風に乗って広がっていく。
ルゥは匂いに釣られて鼻をひくひくさせ、「ぴっ」と短く鳴いた。
セレスもまた、静かに鼻先を近づけ、「コン」と小さく声を漏らす。
「そういえば……セレスには、初めての昼飯だな」
言いながらユウは鍋の中をかき混ぜる。立ちのぼる湯気の向こうで、セレスが静かに耳を動かし、じっとこちらを見つめていた。
やがて魚の身がほろりとほぐれ、黄金色の脂が表面ににじむ。ユウは木の匙で味を確かめ、満足そうにうなずいた。
「……よし、できた」
ユウは三つの木皿を並べ、順にスープを分けていく。
ルゥは待ちきれないとばかりに尾を振り、セレスは慎ましくも嬉しそうに一口ずつゆっくりと味わう。
その様子を見ながら、ユウも自分の分を口にした。
焚き火のぱちぱちとした音。魚の香り。仲間の吐息。
新しい仲間を迎えた最初の昼は、静かで、穏やかに過ぎていった。