第30話 湖畔に再び現れるモフモフ
翌日の朝の空気は、湖の水面を伝ってひんやりとしているように感じた。
ログインの光が薄れていくと同時に、焚き火の跡が視界に戻る。昨夜、蒼の幻獣が現れた場所――そこだけが微かに冷えている気がした。
「ぴ――!」
瞬間、肩にずしりと重み。銀の影が跳び上がり、そのまま背中へしがみつく。
頬に温かな鼻先がぐい、と押しつけられた。――ルゥだ。
尻尾を忙しなくぶんぶん振りながら、甘えるようにフードの内側へ潜り込んでくる。
「はいはい、ただいま。昨日の続きだな」
フードの端を少し持ち上げると、ルゥは満足気に丸くなっていて、のぞく瞳は朝の色を映していた。
「さて……湖の周りでも散歩するか。ルゥも一緒に行こう」
声をかけると、ルゥは「ぴっ」と鳴いて小さく伸びをする。どうやらフードの中で丸まったまま、散歩の相棒になるつもりらしい。
ユウは荷を整え、湖畔をゆっくり歩き出す。小石が靴底に乾いた音を返し、森から湖へ抜ける風が頬を撫でる。
「気持ちいい風だな。……ほら、湖面が朝日で光ってるぞ」
「ぴぃ……」
「ふふ、眩しいか? でも、きれいだろ」
湖畔の草むらから、小鳥が一羽飛び立っていく。水面にはその影が揺れ、ルゥは目で追いかけて首をかしげた。
「おまえも自由に飛べるようになったら、あんなふうに湖を渡ってみるか?」
「ぴっ!」と元気な返事。
ユウは笑いながら歩を進める。湖面に映る朝の光を眺めつつ、一回りして拠点に戻ってきた。
「……よし、一回りしてきたな」
フードの中から肩の上に移ったルゥがぴぃと鳴く。
「腹、減ったろ? 俺もだ。朝飯にしようか」
ユウは笑って焚き火のそばに腰を下ろし、薪をくべる。
ぱち、と火花が弾けて炎が大きくなると、ユウは鍋に湖水をそっと注いだ。
「今日はスープにしよう。香草はちょっとだけ入れて……」
葉先をちぎり入れると、ルゥが鼻をひくつかせて覗き込む。
「ルゥの分は、ちょっと薄味な。まだ仔竜の舌だしな」
「ぴー……!」と抗議するような声。
「はは、立派な大人の竜に成長したら、好きなだけ塩っけ効かせてやるよ」
スープの香りが焚き火の上に広がり、湖面を渡る風に混じっていく。ユウは木の匙で軽くかき回しながら、ふと思い出したように口を開いた。
「ルゥ、蒼の幻獣のこと覚えてるか?」
「ぴぃ……」
ルゥは小さく鳴いて、炎に映る蒼の記憶を追うようにまぶたを細める。
ユウの胸の奥にも深く印象に残っている。――あれは幻の存在ではない。確かに昨夜、湖畔に現れたのだ。
食事を終えると、ユウは立ち上がり、森へ視線を向けた。
「さて……昼はクラフトをしようかな」
そう呟き、ちょうどよいサイズの木を手早く集めていく。大きすぎず、削れば器になりそうな枝ばかりだ。
「おまえのじゃないぞ。……蒼の幻獣の分だ」
「ぴっ?」
「昨日みたいにまた現れたら、落ち着いて食べてもらえるように用意しておきたいんだ」
そう口にして、ユウ自身も小さく笑う。ゲームの中で、野生の生物に”皿”を用意するなんて、自分でも妙なことをしていると思う。だが、そうせずにはいられなかった。
ナイフを手に取り、枝を削る。
薄い木肌が剥がれ落ちるたびに、森の匂いが立ち上る。
ルゥはその様子を食い入るように見つめ、鼻先で木屑をつついては小さくくしゃみをした。
「ほら、あぶないぞ。……座って見てろ」
ユウが少し注意するように言うと、ルゥは、ぴぃぴぃと鳴いて尻尾を揺らしながら、しぶしぶユウの膝元で丸まった。
やがて、楕円形の皿が形を成していく。縁にはさざ波を思わせる彫りを刻み、湖に馴染むようにした。
そして、小皿もひとつ。魚の骨や香草を分けられるように。
「よし……これなら大丈夫か」
ユウは手に取って眺めた。皿はただの道具ではない。――“ここに居ていい”という合図になるかもしれないのだ。
夜の帳が降り、湖面は群青に沈んでいた。
ユウは焚き火の前で昨日のように魚を調理していた。背骨に沿って刃を入れ、腹を割り、香草をひとつまみだけ挟み込む。多すぎると香りが勝ってしまい魚の旨味が消えてしまう。焚き火の煙に混じるくらいの、ほんのりとした匂いで十分だ。
今日はいつもより少し多めに用意している。ルゥの分に加えて――昨夜、姿を現した“お客さん”のために。
「ルゥ、こっちは我慢だぞ。……お客さん用だからな」
「ぴぃぃ……」
銀の仔竜は尻尾をぱたぱた揺らし、自分の分を食べ終えたばかりだというのに、未練たらしく串を見つめている。
ユウは苦笑して頭を撫で、魚を火にかける。じりじりと脂が落ち、焚き火がぱちりと音を立てる。
そのとき、湖の向こうから風がぴたりと止んだ。
耳に届く音がすっと消え、代わりに草むらの先でひと筋の蒼い光が揺れた。それは昨夜と同じ、淡い光の粒が寄り集まったような輝き。けれど今度は、輪郭がより鮮やかに浮かんでいる。
「……来た」
ユウの声は自然と低くなる。
ルゥも気づいたのか、小さく身を寄せ、赤い瞳をきらきらと輝かせた。
霧をまとったような蒼白い光が、草を踏むたびに小さく揺れる。狐に似たしなやかな体躯、湖の色を映したような深い瞳――昨夜よりも確かな姿で、幻獣は湖畔に現れた。
その眼差しは焚き火の炎を映さず、ただ静かにユウとルゥを見据えている。
「大丈夫だ。……ゆっくりでいいぞ」
ユウは声を潜め、串を外した魚を、昼に削った木皿の上に置いた。
皿を正面に押し出さず、焚き火の脇――幻獣が近づきやすい位置にそっと滑らせる。
蒼の幻獣は一歩ずつゆっくりと近づいた。
足音はしない。しかし、蒼い光は確かに歩みを刻むように近づいてきていた。
やがて鼻先にあたる部分が魚の香りに触れた。
ふっと、幻獣の目が細められる。
次の瞬間、皿の上の魚へと静かに鼻先を寄せ、口にくわえた。
焚き火の明かりに照らされながら、身を小さく噛みちぎり、ゆっくりと咀嚼する。
一口ごとに蒼白い光が淡く揺らぎ、毛並みの輪郭に波のような波動が広がる。
身を一欠片ずつゆっくりと噛みしめ、きれいに食べ切る姿は、幻のようでいて、確かな“生き物”の重みを感じさせた。
やがて食べ終えると、”蒼の幻獣”は皿の脇に顔を戻し、短く吐息をもらす。
それから、焚き火の温もりとユウの気配に引き寄せられるように、ゆっくりと近づいてきた。
ルゥが「ぴ……」と鳴き、じっとその姿を見る。怯えはなく、むしろ新たな仲間を歓迎するように尾を小さく揺らしていた。
「……大丈夫、ここにおいで」
ユウは膝を折り、静かに手を伸ばす。
蒼の幻獣は逃げなかった。瞳を細め、そっとユウの手に顔を寄せる。
指先が淡い毛並みに触れた瞬間――まばゆい光が焚き火を呑み込み、あたり一面を埋め尽くした。