第29話 森に浮かぶ蒼い影
夕暮れの湖畔。
焚き火の炎は赤く燃えていたが、少しずつ力を弱めて、熾火へと変わっていく。湖の水面にはまだ茜色が残り、風が通るたびに細かい光がきらきらと揺れた。
ユウは焚き火の前で胡坐をかき、背を伸ばした。
膝の上で眠っていたルゥは、ユウが体を動かした拍子にむにゃりと目を開け、とろんとした赤い瞳をのぞかせる。
まだ眠そうに喉を鳴らしながら、尻尾でユウの膝をとんとんと叩いて「もっと撫でろ」と催促してきた。
「はは……起きたと思ったら、甘えん坊だな」
ユウは笑いながら、その小さな頭を指でなでる。柔らかな鱗の感触が伝わり、心の奥まであたたかくなる。
ふと、焚き火の向こうに目をやると、老人――グラナートが立ち上がっていた。こちらを振り返り、ルゥのことを少し眺めてから、暮れ始めた森の方へと顔を向ける。
「そろそろ、わしは街へ戻るとしようかの」
そう言ってから、腰の袋から小さな包みを取り出すと、ユウのそばに置いた。
「これは香草じゃ。魚に詰めて炙ると旨い。わしの好物でな。残していくから、夜にでも試してみるとよい」
「ありがとうございます」
ユウが礼を言うと、グラナートはにこりと笑い、森の小道へ歩いていった。その背中は静かで落ち着いていて、見送るユウの胸に不思議な余韻を残した。
――やがて夜。
湖畔に月が昇り、焚き火の橙が青白い光に混ざり始めたころ。
「せっかくだし、ちょっと試してみるか」
ユウは昼間に釣った魚を取り出し、グラナートからもらった香草を詰めて炙り始めた。
じゅう、と脂が弾け、爽やかな香りが広がる。
「……いい匂いだな」
「ぴぃ!」
ルゥもぱちりと目を開け、くんくんと鼻を鳴らす。
ユウは焼きあがった身を少し分けてやると、ルゥは夢中で食べ、満足そうに喉を鳴らした。
「うまいな……これはクセになりそうだ」
ユウ自身も一口かじり、思わず笑みをこぼす。
二人で一匹を食べ終えると、焚き火のそばにもう一匹を残したまま、ユウは夜空を仰いだ。
湖面に映る空の色は、群青へと変わり、月明かりに照らされて銀のように光っている。
その景色を眺めていると、先ほどグラナートから聞いた「蒼の幻獣」の話が胸の奥でよみがえった。
狐のような影。蒼い光をまとい、湖畔に現れる存在。
現実なら、ただの伝説だと笑って終わるところだろう。だが――この世界では、そうと決めつけることはできなかった。
(……本当に出るのかな)
焚き火の火の粉がはらりと空へ昇り、夜風に溶けて消えていく。ユウはその軌跡を目で追いながら、ふと息を吐いた。
「なんだか……ちょっとわくわくするな」
声に出すと、自分でも少し照れくさい。
けれど、見知らぬ土地に宿る伝承や謎を目の当たりにできるかもしれないという期待は、胸を熱くさせるものだった。
ルゥはその声に応えるように「ぴぃ」と小さく鳴き、ユウの胸に鼻先をぐいと押し付ける。
「わかったわかった。おまえは、いつでも甘えるのやめないのな」
頬を緩めつつ撫で続けると、ルゥは再び喉を鳴らしてうっとりと目を閉じた。
――そのとき。
森の奥から、風でも虫でもない微かな気配が届いた。視線を向けると、暗がりの中にふわりと淡い青白い光が浮かんでいる。
(……あれは……?)
湖面を照らす月明かりとは違う。
焚き火の橙とも違う。
それは、まるで霧の粒子が光に変わったかのように淡く揺れながら、森の中を漂っていた。
やがて、その光の中に影が浮かび上がる。
狐のような、しなやかな体躯。
だが輪郭は霞んでおり、実体なのか幻なのか判然としない。
ユウは思わず息を呑んだ。
「……蒼の……幻獣……」
昼間に聞いた言葉が、無意識に口から漏れる。
湖畔の空気が、ひときわ澄み渡る。
焚き火の熱があるはずなのに、不思議とひんやりとした気配が漂ってきた。
青白い影は、ゆっくりと森から姿を現す。
四足の獣――だが、その毛並みは月光を編んだように淡く輝き、輪郭は霧のように揺らめいている。
狐に似た姿だが、その瞳は深い蒼で、湖面の青をそのまま宿したかのようだった。
「……」
ユウは声を失い、ただ見入っていた。
膝の上のルゥも目を覚まし、きょとんとしたように瞳を瞬かせる。
しかし不思議なことに、怯える様子はない。
むしろ「ぴぃ……」と小さく鳴いて、まるで歓迎するかのように尾を揺らした。
蒼の幻獣は音もなく近づき、焚き火の脇に置かれていた残りの香草魚へ視線を向けた。
青い炎のような瞳がきらりと瞬き――次の瞬間、ふっと姿が掻き消える。
「……え?」
気づいたときには、焚き火のそばに残していた焼き魚がひとつ、影と共に消えていた。
いや、正確には――森の外れに淡い光が再び揺らめき、その口に香草魚を咥えた姿があった。
ユウは呆然としながらも、怒りや悔しさは湧いてこなかった。代わりに胸に広がったのは、不可思議な温かさだった。
「……持っていかれたな」
呟くと同時に、蒼の幻獣が振り返った。
揺らめく青白い影の中で、その瞳だけははっきりとユウを映している。
そして、短く尾を振り、静かに頭を下げるような仕草を見せた。
「ぴぃ……」
ルゥが小さく鳴いた。
その声に応えるように、幻獣の体は月明かりに溶けるように揺らぎ――次の瞬間、光の粒子となって森の奥へと消えていった。
残されたのは、夜風に揺れる草と、焚き火の熾火だけ。
ユウはしばらく言葉を失い、ただその光景を胸に刻み込んだ。
「……本当に、いたんだな」
昼間にグラナートから聞いた“蒼の幻獣”の伝承。
それがただの噂やおとぎ話ではなく、この世界に確かに息づいている――そう思わせるには十分だった。
膝の上で丸くなったルゥが、誇らしげに喉を鳴らす。
ユウはその小さな頭を撫で、静かに息をついた。
「なんだか、すごい1日になったな」
湖畔に広がる蒼白い月明かりは、今まで見たどの景色よりも幻想的だった。
実はカクヨムでの投稿が先行しているので、更新が追いつくまではカクヨムの方が少し早いです。
もちろん、こちらでも順次公開していきますので、マイペースに読んでいただければ嬉しいです。