第28話 語られる伝承、蒼の幻
昼下がりの湖畔。
焚き火の炎は穏やかに揺れ、魚を焼いた香りの余韻がまだ漂っていた。湖面は風にそよぎ、光の粒を散らしている。
ユウは起き上がり、膝の上で眠そうに丸まるルゥの頭を撫でながら、向かいに腰を下ろした老人を見た。
背筋を伸ばし、落ち着いた物腰で佇む姿は、ただ一緒に焚き火を囲むだけなのに不思議な存在感を放っていた。
「……しかし、焚き火と魚とは。なんとも懐かしい光景よの」
老人は炎を見つめながら、しみじみと呟いた。
「懐かしい、ですか?」
「うむ。若い頃は、あちこちを旅しておってな。火を囲み、魚を炙り、見知らぬ者と語り合う……そういう夜を、幾度も過ごしたものじゃ」
その声は穏やかで、どこか遠い昔を懐かしむようだった。
ユウは少し逡巡し、それから口を開いた。
「俺はユウといいます。こっちはルゥです」
「ぴぃ」
名前を呼ばれた銀の仔竜は、小さく鳴きながらユウの胸元に鼻先を押しつけ、もっと撫でろと催促する。
ユウは苦笑しつつ頭を撫でる。ルゥは喉を鳴らし、尻尾でユウの腕をとんとんと叩いて、満足げに目を細めた。
老人は目を細めてその様子を眺め、やがて笑った。
「ほほう……愛らしいものじゃな」
「こいつ、こう見えて結構甘えん坊なんですよ」
「はは、甘えられるのは信頼の証よ。大事にしてやるがよい」
しばし焚き火の音だけが響いた。老人は炎を見ながら、静かに続けた。
「名乗りが遅れたな。わしはグラナートという。湖のほとりにはよく釣りに来る、ただの年寄りじゃよ。少しばかり商いをしてはいるがな」
「商い……ですか」
ユウは思わず聞き返した。
「うむ。もっとも大したことではない。品を仕入れ、人に届ける――その程度のことよ。だがまあ、多少は長く続けておるでな。気づけば年も取った」
言葉は軽く謙遜しているようで、それでもどこか重みがあった。
「俺は、ここに拠点を作ったばかりで……と言っても、焚き火くらいですけど」
「ふむ。焚き火があれば十分よ。人は火のそばで休み、食い、眠る。昔からそうじゃろう」
グラナートの言葉に、ユウは自然と頷いた。
「確かに……火があると安心しますね」
ルゥが膝の上でくたりと伸びをし、ユウの胸に鼻先を押し付けた。
「ぴぃ……」
「はいはい。ほんと、今日はやけに甘えん坊だな」
ユウは笑いながら小さな頭を撫でてやる。ルゥは満足そうに目を細めて喉を鳴らし、尻尾を小さく揺らした。
グラナートはそれを眺めて微笑む。
「この湖も、昔から“誰かを呼ぶ場所”と言われておってな」
「呼ぶ場所……ですか」
ユウが首を傾げると、グラナートは焚き火に手をかざしながら、静かに笑った。
「うむ。もっとも、人が多く集まるわけではない。むしろ滅多に人は寄りつかぬのじゃ。……それでも、ときおりこうして縁が生まれる。不思議な場所よ」
焚き火の煙が風に溶け、湖面に淡い光が揺らめく。
その静けさに溶け込むように、老人の声が続いた。
「……ゆえに、この湖には古くから不思議な噂が残っておってな」
ユウが顔を向ける。
グラナートの表情は笑みを浮かべたままだが、その眼差しにはどこか遠くを思い出すような色が宿っていた。
「……不思議な噂、ですか?」
ユウが問い返すと、グラナートは焚き火の火を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。
「うむ。この湖には、夜に“蒼い影”が現れるという話がある。獣とも、幻ともつかぬ姿でな。街の古老どもは、それを“蒼の幻獣”と呼んでおる」
「蒼の……幻獣」
ユウは思わず声を繰り返す。
「見た者は少ない。だが、確かにその姿を目にした者は皆、一様に言うのじゃ。『湖面に揺らぐ青白い光とともに、狐のような影が現れた』とな」
言葉の端々に漂う真剣さに、ユウは息を呑んだ。
焚き火の炎がゆらめき、湖面に映る影もまた揺れる。
「それは……魔物、なんでしょうか?」
「さてな。敵意を持つといった話は聞かぬ。むしろ“助けをもたらした”とか、“傷を癒した”などと伝える者もおる。まったく不思議な存在よ」
グラナートは小さく笑い、肩をすくめた。
「もっとも、わしも実際に見たことはない。ただ商いで各地を巡ると、似た話を耳にするのじゃ」
そこでグラナートは焚き火を見つめながら、ゆっくりと言葉を選ぶように口にした。
「――“蒼い獣は、夢と現の狭間に揺らぐ幻”。そう語る者もおった」
静かに語られる伝承に、ユウは心を奪われていた。
現実世界でも民話や伝説は多く聞いたが、この世界の伝承はどこか生々しく、湖の夜に本当に現れてもおかしくないと感じさせる。
ルゥが「ぴぃ……」と小さく鳴いた。
ユウの膝の上で、半分眠りながらも耳をぴくりと動かしている。まるで伝承の獣の話に反応しているように。
「ルゥ、おまえも気になるのか?」
ユウが笑いかけると、ルゥは尻尾でユウの胸をとんとん叩き、催促するように喉を鳴らした。
「ふふ……まるで話をせがんでいる子供のようじゃな」
グラナートが穏やかに笑う。
「その仔竜も、蒼の幻を一目見てみたいのかもしれんの」
ユウはルゥの頭を撫でながら、ふと胸の奥に芽生える期待を否定できなかった。
本当に、この湖にそんな存在が現れるのだろうか。
焚き火の炎がぱちりと弾け、風の中へ赤い火花を散らす。
湖面には傾きかけた陽が映り、金色の光が水面に揺れていた。
「まあ、信じるかどうかは人それぞれじゃ。伝承など、所詮は語り継がれた物語に過ぎん。……じゃが、この湖にしばらく滞在するのなら、夜の気配をよく見ておくがよい。何かを感じられるやもしれんぞ」
そう言うグラナートの目は、どこか挑むようであり、同時に導くようでもあった。
「……はい」
ユウは素直に頷いた。
ルゥはすでに眠気に負け、すやすやと寝息を立てている。小さな体が上下に揺れるたび、ユウにあたたかな重みが伝わってきた。
やがて、湖畔に沈黙が戻る。
虫の声が早くも響き始め、湖畔に夕暮れの気配を運んでいた。
その日、ユウは初めて知った。
この湖がただのキャンプ地ではなく、古くから伝承の息づく場所であることを。
――そしてその伝承が、やがて自分たちの運命に深く関わっていくことになるなど、今はまだ知る由もなかった。