第26話 湖畔のほとり、焚き火は再び
ヴェルムスの喧騒を背に、ユウは静かに歩みを進めていた。
街の外れ、城壁沿いに延びる道は、次第に石畳を終えて土の感触を取り戻していく。緩やかな草地を抜け、背の高い木々が並ぶ緑のトンネルへ
――そこは、都市の気配をすっと忘れさせる、静寂の世界だった。
湿った土と草の匂いが風に混ざり、鳥のさえずりが遠くから微かに届く。
木漏れ日の揺れる道をしばらく歩くと、空気の中にほんのりとした変化が混ざった。
――水の匂い。
ユウは足を止め、そっと耳を澄ませる。
さらさら……と、どこかで水面が触れ合うような音。
「……川じゃなさそうだな。湖かもな」
小さく呟きながら、藪の先を覗き込む。
すると、木々の隙間から光がこぼれた。視界がふっと開け、森の濃い緑の向こうに、鏡のような広がりが現れる。
そこに広がっていたのは、静寂ながらも、雄大さを感じる大きい湖だった。
太陽の光を柔らかく受けた湖面は、ゆるやかな波に揺られながら、さざめくようにきらめいている。
湖畔には低木がまばらに茂り、草の絨毯が心地よさそうに風に揺れていた。
小さな丘と木立に囲まれ、開けた空がその上に広がっている。
まるで誰かがそっと用意してくれたかのような、穏やかで、誰にも邪魔されない場所だった。
「……めちゃくちゃいいな、ここ」
自然と漏れた言葉には、どこか安堵にも似た響きが混ざっていた。
すると、ユウの肩口――フードの中で、もぞもぞとした動きがあった。
ルゥがひょこりと顔を出す。赤い瞳をぱちぱちと瞬かせ、鼻先をひくつかせたあと、元気よく、ぴぃと一声鳴く。
それは、まるで「ここがいい」と言わんばかりの肯定だった。
ルゥはふわりとユウの肩から飛び降りると、草の上を軽やかに歩きながら湖へと向かう。
水際で一度立ち止まり、周囲を見回すと、しっぽをくるりと巻いて、ぴたりとその場に座り込んだ。
ユウは、その小さな背中を見つめて微笑みながら、ゆっくりと荷を下ろした。
そして、いつものように焚き火の準備を始める。
乾いた枝を集め、火床となる石を並べ、地面をならす。
そうして、手際よく火打ち石を打つと、麻紐に移った火が、ゆっくりと薪へと燃え広がっていく。
パチ、パチと音を立てながら、火が立ち上った。
湖畔の涼し気な風に、焚き火の香ばしい匂いが混ざる。
ルゥは焚き火のそばまで歩いてきて、満足げに目を細めると、そのままユウにぴたりと寄り添った。
その姿に、ユウも思わず笑みを浮かべる。
「ここなら……また、始められるかもしれないな」
ヴェルムスの街中では、あまりにも情報が多すぎた。
人の数、音の波、表示されるログの量。
便利ではある。あの街には、必要なものがすべて揃っている。
けれど――拠点にするには、少しだけ騒がしすぎる。
森での生活に慣れたユウにとって、あの喧騒は、自分たちらしさがかき消されてしまうような居心地の悪さがあった。
それは、ルゥもきっと感じていた。
街に入ってからというもの、ずっと落ち着かない様子で、フードの中に顔を引っ込めたり、きょろきょろと辺りを気にしていた。
少しでも物音がするたびに、耳がぴくりと動き、鳴き声も少しトーンが下がっていた。
ユウはちらりとルゥを見て、焚き火の温もりと静けさの中で微笑んだ。
「……やっぱり、こっちのほうが落ち着くな。ルゥも、そうだろ?」
ルゥはぴぃ、と一声。
風が吹き、湖面がさざ波を立てる。
太陽の光がその水面を反射して、きらきらと揺れた。
ユウはマリエからもらった食材の残りを取り出し、今日の昼食の準備に取りかかる。
根菜と干し肉、シトレラ草。ヴェルムスを目指す道中と同じ材料。
けれど、火と水と空気が違えば、味もきっと変わる。
鉄鍋に湖から取ってきた綺麗な水を張り、刻んだ野菜を入れ、干し肉をちぎって投げ入れる。
香草は少しだけ――風味が引き立つ程度に。
鍋を焚き火にかけると、すぐに香りが立ちはじめた。
ルゥが鍋のほうへと目を向け、小さく鼻をひくつかせる。
「はは、まだ煮えるまでもうちょっと時間かかるぞ」
ユウが少しからかうように言うとルゥはぴぃ、と少し拗ねたような甘えているような声を出した。
ユウは焚き火のそばに腰を下ろし、足を組み、膝にルゥを乗せる。
ルゥは少し身じろぎして、収まりの良い場所を見つけたのか、ぴたりと身体をユウに預け目を細めた。
焚き火の音と、湖の音と、風の音。
それらがすべて溶け合って、世界は静けさに満たされていた。
――これだ。とユウは思う。
これこそが、自分が求めていた時間だ。
ただ、火と、風と、ぬくもりのある相棒と過ごす、静かな時間。
やがて、鍋の中の具材がやわらかくなり、スープが完成する。
湯気とともに立ち上る香りに、ルゥがぱちりと目を開けた。
「ほら、できたぞ。……熱いから、ゆっくりな」
そう言って取り分けたスープをルゥの前に置くと、ルゥは一度鼻を寄せて香りを確かめたあと、小さくぴぃと鳴いて、うれしそうに食べはじめた。
その様子を見ながら、ユウもスプーンを手に取る。
香草と肉の旨味が、口の中にじんわりと広がる。
これまで、森で積み重ねてきた焚き火の日々。
それは、街の中では少し難しかったけれど――決して終わったわけじゃない。
場所が変わっても、空が変わっても。
こうしてまた、火を囲み、湯気の向こうで笑う相棒の存在があるのなら。
――焚き火は、再び灯る。
「ただいま。……って、言ってもいいよな、こういうの」
ユウがぽそりと呟くと、ルゥが嬉しそうにぴぃぴぃと返事をした。
その声に、ユウは目を細め、湖面の揺らめきを見つめた。
ここから、また新しい日々が始まる。
その確信だけが、心にあたたかく灯っていた。




