第1話 焚き火のある世界へ
深夜のオフィスビルを出た時、時計の針はすでに午前零時を回っていた。
都内の雑居ビル群はまだ灯りに溢れていて、ネオンが空に滲む。だが、佐伯悠の心には何の光も届かない。
今日だけで何件の電話を受け、何本の資料を直し、何通の「お世話になっております」をタイプしただろう。
終電で帰って、シャワーを浴びて、冷えたコンビニ飯を胃に押し込み、目を閉じる。その繰り返しだった。
そんなある日、妹から連絡がきた。
『お兄ちゃんさ、VRゲームやってみない?』
「は?」
思わず返すと、スマホ越しに妹の溜め息が聞こえた。
『《Everdawn Online》ってゲーム。正式サービス始まったんだけど、私ベータ参加してたから特典アカウント余ってるの。』
「だから……なんで俺に?」
『キャンプできるよ。森も川もあるし、焚き火も魚釣りもリアル以上。人と関わらなくても生きていける。』
その言葉に、心がふっと揺れた。
「……キャンプが、できるのか」
『うん。焚き火して、肉焼いて、寝るだけでもスキル上がるよ』
想像してみる。夜の森で火を眺めながら、静かに過ごす自分の姿を。
現実じゃ叶わないけれど、仮想世界なら――
「やってみるか」
思わず、声に出していた。
『お、珍しく乗り気じゃん。じゃ、アカウント情報送るね』
その夜、久しぶりに深く眠れた気がした。
翌日、仕事を終えて帰宅した悠は、すぐにVR端末をセットした。
久しく触れていなかった機材だが、問題なく起動する。
《ようこそ、Everdawn Onlineへ》
《キャラクター作成を開始します》
軽やかな電子音と共に、目の前にホログラムのような画面が展開された。
「名前か……」
現実名を使うのは抵抗があったので、少しだけ変えて「ユウ」にした。
種族は【ヒューマン】。性別は男性。無難な選択だ。
次に外見――
現実と似すぎても嫌だし、ファンタジーすぎるのも浮きそうだ。
髪は灰銀色、目は淡い琥珀。少し疲れて見える中性的な顔立ちにした。
服装は初期装備の布シャツとズボンで、特に装飾もない。
職業選択では、あえて“戦闘職を選ばない”を選択する。
これにより《初期職業:なし》となるが、スキルは行動次第で自由に伸びていくらしい。
「ステータスとかどうでもいい。俺は……キャンプがしたいだけなんだ」
最後に確認画面が現れる。
《ログインしますか?》
はい、を選択。
世界が白く染まり、意識がふわりと浮かんだ――
視界がひらけたとき、彼は草原の中央に立っていた。
風が頬を撫で、空には雲ひとつない青。
遠くに森が見える。小鳥のさえずり、草の匂い。空気の粒子まで、まるで本物だ。
「……すげぇ」
思わず息を呑む。
足元には初期装備の袋。中身は、水入りの革袋と固いパン、野兎の腿肉だけ。
《クエストを受けるには村へ向かってください》
右上に出たログを無視し、彼は反対方向――森の方角を目指して歩き出した。
「街とか、人混みとか、そういうのはいいんだよ。俺は……森で、火を見たい」
初期村の入り口は活気に満ちていた。
プレイヤーたちが武器屋や掲示板の前に集まり、誰がどのクエストを取るか、誰と組むかを叫び合っている。
ユウはその光景を横目に見ながら、そっと道を外れた。
「こっちは行き止まりだって? ……いいじゃん、道なき道の方がキャンプには向いてる」
村の裏手に回り込み、地図にすら載っていない小道を見つける。
草を分けて進むと、徐々に木々が増え、空が葉で覆われていく。
やがて、目の前にぽっかりと開けた、こぢんまりとした森の空間が現れた。
「……ここだな」
落ち葉がふかふかに積もり、木陰がちょうどよく陽を遮ってくれる。
小川のせせらぎも聞こえてきて、絶好のキャンプ地だった。
さっそくインベントリを開き、枝や石を拾って簡易クラフト。
《スキル【火起こしLv1】を習得しました》
「やった」
メニューから焚き火を設置し、手に入れた枯れ枝に火をつける。
――ぱちぱちっ。
焚き火が灯った瞬間、ユウは思わず息を呑んだ。
炎の音、舞う火の粉、ほのかに感じる熱。
現実では味わえなかった“静けさ”が、目の前にあった。
彼はゆっくりと地面に腰を下ろし、焚き火をじっと見つめた。
何も考えず、何も話さず、ただ火と風と葉の音に耳を傾ける――
それだけで、すべてが癒やされていくようだった。
「……これだよ。俺がやりたかったのは……」
誰とも戦わず、誰とも争わず、ただ火を囲んでいるだけ。
ゲームを始めて、たった数十分。それだけでもう、彼の表情はずっと柔らかくなっていた。
ふと、近くの草むらが揺れた。
風だろうか――そう思った次の瞬間。
小さな“気配”が、焚き火の向こう側からこちらを見つめていた。
淡い銀の鱗。つぶらな瞳。まだ飛べない小さな翼。
小さな四足の生き物が、焚き火の匂いに引き寄せられるように、ぺたぺたと歩いてくる。
「……え?」
ユウはまだ、その存在の名も、意味も、なにも知らない。
だが――彼の静かなキャンプ生活は、この瞬間から少しずつ変わりはじめていた。