最終話
ネットカフェの個室。白い天井、窓のない壁。窮屈な室内で、俺はぼんやりと日々を過ごしていた。
時間の感覚が曖昧だった。個室の隅で丸くなっていた。体は冷え切って、肌はもう何日も水に触れていない。気づけば、湿った獣のような匂いが室内を満たすようになった。
ただ、ずっと何かが"追いかけてくる"ような感覚が、背中に張り付いて離れなかった。
正体は、分からない。恐怖の輪郭が曖昧だった。それが何なのか。なぜ俺の前に現れるのか、答えはどこにも無かった。
そんな日々を過ごしていたある日、ふとあの夜のことを思い出した。
村田が、きゅうりの酢の物を箸でつつきながら言った言葉。
「河童ってさ、水死体が由来って説があるんだよね」
あの時は、ただの与太話だと思った。けれど──そうか、あいつは水の中で死んだんだ。
あの顔の、腐った皮膚、剥がれた頭、濁り切った瞳...全部、"河童"の──"水死体"の特徴に一致している。
正体が分かったからと言って、逃げる方法は分からなかった。水死体の霊の祓い方なんてどこにも載っていなかった。だが、河童については情報がネット上にある程度あった。俺は何かに縋るように、河童について調べ始めていた。
ふと、マウスを握る自分の腕が目に入った。干からびた皮膚の下、わずかに透けた血管。何か違和感があった。
「...え?」
間の抜けた声が出る。皮膚が、ほんのわずかに膨らんでいる気がした。鼓動とは違う周期で、波打つように、内側から押し上げるように。
まるで、何かが皮膚の下で動いているような──。
光の角度を変えて、そっと目を凝らす。
──"顔"だった。
皮膚の裏側から隆起するように、目と口が見えた。輪郭ははっきりせず、血管と同化しているようだった。
まるで自分の中に巣くっているように、ぴったりと張り付いている。
あいつがいる。
俺の中に、"顔"があった。身体のほとんどは水だと聞いたことがある。ならば、あいつは俺の中にまで溶け込んだというのか。
気づいた瞬間、自分の身体が異物の塊になったような気がした。血も、肉も、内臓も、全てあいつに侵されている。もう、自分という存在そのものが、他者になり始めていた。
「......嘘だ......」
だが、それは確かにいた。俺が、音も立てずに崩れていくのを感じる。
言葉には出来ない。痛みでも恐怖でもない、もっと鈍く、根深い何か。
全身が、静かに冷えていく。
血が凍る、なんて比喩じゃない。ただ、心臓の鼓動が遠くなる。熱が抜けていく。
周囲の音が薄くなり、視界が灰色に霞み始める。
自分という輪郭が、世界からそっと削ぎ落とされていくような感覚。
そしてその中心で、あの"顔"は笑っていた。俺の内側から、満ち足りたような顔で。
その笑みだけが、やけに鮮やかで、現実的だった。
ネットカフェ「コミックプラザ西口店」。
事件の通報があったのは、朝の十時を少し過ぎた頃だった。
"チェックアウトをしていない客が個室から消えている"──店員からの通報を受け、捜査員の加藤は現場に向かった。
No16ブース。室内は空だった。備え付けの照明はまだついており、ディスプレイにはネット検索の画面が開かれていた。荒らされた形跡はなく、財布もスマートフォンもそのまま。
ただ、室内には異常な雰囲気があった。空調は効いているはずなのに、部屋にはじっとりとした湿気が籠もっている。獣のような生臭い匂いが鼻をついた。
「監視映像は?」
「入室記録はありますが、退室は映っていません。死角や変装の線もありますが...不自然ですね」
財布とスマートフォンはそのまま残っていた。逃走というより、消失。そんな言葉が頭に浮かぶ。
加藤は開かれたパソコン画面に目をやる。
表示されていたのは、一枚の古い木版画のような画像だった。
夜の河辺。人間を水中へ引き摺り込もうとする異形の影。
「...なんだこれ。河童の絵?」
加藤は小さく呟いた。このブースにいた者は、これを見ていた。
そして、今はもういない。
"消えた"男がここで何を知ろうとしていたのか、それを突き止める術は、もうどこにも無かった。
パソコンの画面が、川面のように静かに光っていた。
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