第四話
ネットカフェの個室は、三畳ほどの狭さだった。
リクライニングチェア、デスクトップパソコン、薄暗い蛍光灯があるだけだった。
寝返りも打てないが、あの部屋にいるよりは遥かにマシだ。
ネットカフェ生活を始めて三日目。
俺はここを拠点に仕事場や不動産屋に足を運んでいた。同時に、あいつの正体についても調べ始めていた。利用した不動産屋にあの部屋について尋ねたこともあった。
「あの、Aマンションの403号室についてお伺いしたいんですが...」
電話口の女性は一瞬間を置いた後で、営業用の声を作った。
「はい、いかがされましたでしょうか」
「変なこと聞くようなんですが...あの部屋、事故とかってありました?」
受話器の向こうで、一瞬空気が凍ったのを感じた。
「...申し訳ありませんが、そういった内容にはお答えできかねます」
会話はそれ以上続かなかった。まるで"触れるな"と言わんばかりの、冷たい幕引きだった。
パソコンの電源を入れ、検索する。
「Aマンション 事故物件」「Aマンション 幽霊」。だが、有益な情報は何も出てこない。
大手サイトには綺麗な写真と共に、「駅近・日当たり良好」の文字。個人ブログにも、あのマンションについて言及したものはなかった。
正体不明。見ているのに、感じているのに。あれの名前も、理由も、どこにもない。
苛立ちと焦燥感が渦を巻く中、乾いた喉を潤すためペットボトルの水を口に運ぼうとした。
──そこで、手が止まった。
透明な容器の奥、わずかに揺れる水面に、ぼやけた輪郭があった。
息を止めて、眼を凝らす。
──"顔"だ。あの、崩れた顔がある。
俺は反射的に水を投げ出し、椅子から立ち上がる。ペットボトルは転がり、床に水が溢れた。
濡れた場所をしばらく見つめていたが、そこにはもう何もなかった。
「...ついてきているのか?」
ふと、頭をよぎった思考が声に出ていた。
思えば、俺は銭湯でも奴の顔を見ている。あいつは、水がある場所にならどこでも現れるんじゃないのか...?
胸の中に絶望が広がっていくのを感じた。水がある場所なんて、この世界に無数にある。風呂、トイレ、水道水、雨、水溜り──全身が、悪寒で震えた。
その日から、俺は水が怖くなった。
便器の水や排水口を見ると、こちらを覗き込む目を感じて吐き気がした。
シャワーなどもってのほかだった。ウェットティッシュで体を拭くだけの生活になった。けれど、手に残るわずかな水分にさえあいつが潜んでいる気がして、やがてそれすらできなくなった。
当然、俺の見た目は日に日に酷くなっていった。シャツの襟元は黒ずみ、指先には赤がこびりつき、髪は脂で重くなっていく。
会社には行けなくなっていた。街中の川や噴水、同僚たちがデスクに置いている飲み物にすら、あいつが潜んでいる気がした。"体調が悪い"と言い訳して仕事を休む日々が続いた。
この狭いネットカフェの個室が、唯一の居場所になった。
鏡がないのは幸いだった。もし今自分の顔を見たら、そこに"あの顔"が重なってしまいそうだ。
こうして俺は、ゆっくりと社会から切り離されていった。