表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

第四話

 ネットカフェの個室は、三畳ほどの狭さだった。

リクライニングチェア、デスクトップパソコン、薄暗い蛍光灯があるだけだった。

寝返りも打てないが、あの部屋にいるよりは遥かにマシだ。


 ネットカフェ生活を始めて三日目。

俺はここを拠点に仕事場や不動産屋に足を運んでいた。同時に、あいつの正体についても調べ始めていた。利用した不動産屋にあの部屋について尋ねたこともあった。


「あの、Aマンションの403号室についてお伺いしたいんですが...」


電話口の女性は一瞬間を置いた後で、営業用の声を作った。


「はい、いかがされましたでしょうか」


「変なこと聞くようなんですが...あの部屋、()()とかってありました?」


受話器の向こうで、一瞬空気が凍ったのを感じた。


「...申し訳ありませんが、そういった内容にはお答えできかねます」


会話はそれ以上続かなかった。まるで"触れるな"と言わんばかりの、冷たい幕引きだった。


 パソコンの電源を入れ、検索する。

「Aマンション 事故物件」「Aマンション 幽霊」。だが、有益な情報は何も出てこない。

大手サイトには綺麗な写真と共に、「駅近・日当たり良好」の文字。個人ブログにも、あのマンションについて言及したものはなかった。

正体不明。見ているのに、感じているのに。あれの名前も、理由も、どこにもない。


苛立ちと焦燥感が渦を巻く中、乾いた喉を潤すためペットボトルの水を口に運ぼうとした。


──そこで、手が止まった。


透明な容器の奥、わずかに揺れる水面に、ぼやけた輪郭があった。


 息を止めて、眼を凝らす。

──"顔"だ。あの、崩れた顔がある。

俺は反射的に水を投げ出し、椅子から立ち上がる。ペットボトルは転がり、床に水が溢れた。

濡れた場所をしばらく見つめていたが、そこにはもう何もなかった。


「...ついてきているのか?」


 ふと、頭をよぎった思考が声に出ていた。

思えば、俺は銭湯でも奴の顔を見ている。あいつは、水がある場所にならどこでも現れるんじゃないのか...?

胸の中に絶望が広がっていくのを感じた。水がある場所なんて、この世界に無数にある。風呂、トイレ、水道水、雨、水溜り──全身が、悪寒で震えた。


 その日から、俺は水が怖くなった。

便器の水や排水口を見ると、こちらを覗き込む目を感じて吐き気がした。

シャワーなどもってのほかだった。ウェットティッシュで体を拭くだけの生活になった。けれど、手に残るわずかな水分にさえあいつが潜んでいる気がして、やがてそれすらできなくなった。

当然、俺の見た目は日に日に酷くなっていった。シャツの襟元は黒ずみ、指先には赤がこびりつき、髪は脂で重くなっていく。


 会社には行けなくなっていた。街中の川や噴水、同僚たちがデスクに置いている飲み物にすら、あいつが潜んでいる気がした。"体調が悪い"と言い訳して仕事を休む日々が続いた。


 この狭いネットカフェの個室が、唯一の居場所になった。

鏡がないのは幸いだった。もし今自分の顔を見たら、そこに"あの顔"が重なってしまいそうだ。


 こうして俺は、ゆっくりと社会から切り離されていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ