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第三話

 翌日。会社の窓際の席は蒸し暑く、座っているだけで汗がじっとりと背中に張り付いた。

ディスプレイの光が眩しくて、頭が重い。どれだけ集中しようとしても、水の底に沈んだ"あれ"の顔がじわじわと滲んできた。


 朦朧とする意識の中午前の業務をやり遂げ、なんとか昼休みを迎えた。

村田が弁当の唐揚げを咥えたまま俺の席に来た。


「お前さ、何か疲れてない?覇気がないっていうか」


「...ちょっとな」


「...何かあったなら聞くけど?」


──その一言に、我ながらびくりとした。


「あのさ、」


声を低くして言う。


「俺...見ちゃったかも。崩れてるみたいな...人の顔」


村田は箸を止めて、ぽかんと口を開けた顔をした後、すぐに笑い出した。


「ホラー映画の見過ぎだな」


「マジなんだって。目が合ったんだよ」


「幽霊なんてリアルでいるわけないって、どうせ女とうまくいかなかったとかそんなだろ」


俺は少しカチンと来た。オカルト好きのくせに、こういう時に信じてくれないのは気に食わなかった。


「冗談で言うと思うか?」


沈黙が訪れる。村田は、目を細めてため息をついた。


「...まあさ、疲れてるとそういうの見えるって言うしさ。仕事きついんじゃね?」


彼はそう言って、箸を進め始めた。

それで会話は終わった。


 その日の夜。部屋に帰ると俺は、着替えもせずベッドに倒れ込んだ。

少しうとうととしながら、今日村田に言われた言葉を思い出す。


「幽霊なんてリアルでいるわけないって」


時間が経って、冷静にその言葉を受け止められた。確かに、幽霊なんているわけがない、きっと疲れてたんだろう。


 だが、風呂に入る気にはなれなかった。浴室の扉に手をかけると、脳裏に浮かぶあの映像が、どうしても指を止めた。

俺は近所の銭湯に向かうことにした。

夜八時過ぎ、暖簾をくぐると、店内には年配の客が数人いるだけだった。


 脱衣所のロッカーに服を押し込みながら、胸の内にうっすらと不安が広がる。だが、「ここはうちじゃない」と自分に言い聞かせて、浴室の引き戸を開けた。


 湯気が濃く、視界が白ずんでいる。タイルの床はぬめって、所々カビが生えていた。俺は身体を洗って、ゆっくりと湯船に近づいた。

 湯船の中には誰もいなかったが、表面がわずかに揺れている。誰かが出たばかりなのだろうか。でも、その姿を俺は見ていない。


嫌な予感がして、白濁した湯の奥に目を凝らす。


目を細めるうちに、ぼんやりと...あの"顔"が沈んでいることに気づいた。

灰緑色のデコボコとした皮膚。裂けた紫の唇。頭皮は所々めくれて、黄色く変色した骨の一部が覗いている。


濁った黒目が、湯の底からこちらを見上げていた。

目があった。そう思った瞬間、全身の筋肉が硬直し、次の刹那には、俺は尻餅をついてタイルに倒れていた。


「っ、う...!」


腰に鈍い痛みが走る。タイルの硬さが直に骨に響いた。

心臓が、早鐘のように打ち始める。息が上手く吸えない。空気が熱く、胸が焼けるようだった。


「...大丈夫ですか?」


他の客が背後から声をかけてくれる。俺は声の主を見る余裕もなく、震える足でよろよろと立ち上がると、すみませんとだけ小さくつぶやいて足早に脱衣所へ逃げ帰った。


 その日の深夜。俺は神経が昂って眠れなかった。

疲れてるんだ、見間違いに決まってる。幽霊なんているわけないだろ。そんな思考を自分に言い聞かせるように繰り返していた。


 ふと尿意を感じ、用を足そうと暗い廊下を歩く。

ドアを開け、トイレに入った。小窓から差し込む月明かりである程度わかるので、電気はつけなかった。


用を足そうとズボンを脱ぎながら、ふと便器の方を見る。

白い磁器の中、静かな水面。その底に──見えた。


膨れた頬、剥がれた皮膚。そして、濁った瞳。

月光に青白く照らされて、"顔"が、便器の底から俺を見上げていた。


「──っ!」


息が詰まった。足がふらつき、思わず壁に手をつく。

──やっぱり、見間違いなんかじゃない。

数秒後、ようやく足が動き、俺は飛び退いた。ベッドまで逃げて、壁にもたれながら何度も深呼吸を繰り返した。


 もう、限界だった。

この部屋にいたら、自分が壊れる。

逃げなければ、ここから。金銭面は手痛いが、背に腹は変えられない。しばらくネットカフェにでも寝泊まりして、直ぐに次の引越し先を探そう。

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