第二話
引っ越し初日。午後の光が斜めに差し込む中、段ボールの中身を取り出しては配置する作業を、黙々と続けていた。
四階の部屋は、以前見た通りの造りだった。白い壁紙に無垢材の床。リビングはやや手狭だが、角部屋で採光も悪くない。
──ただ、妙に"湿っぽい"気がしていた。内見の時は気づかなかったが、どこか湿ったような匂いが、薄く空間に残っている気がした。井戸を覗き込んだ時のような、そんな感覚があった。
「気をつけろよ」
一瞬先日の同期の声が頭をよぎった。が、次の瞬間直ぐに我に返る。馬鹿馬鹿しい、まだ換気が足りていないだけだろう。
気にしないことにして、俺は作業を再開した。
数日経って、俺は風呂に湯を張ってみることにした。引っ越し作業も一段落し、余裕が出来たのだ。入居日に感じた湿っぽさも、今では特に気にならなくっていた。我ながらいい物件に入居できたと感じた。
湯が張り終わり、風呂場に入った。
少し体を洗って、湯船に浸かる。ちょうどいい温度。目を閉じて、背中をゆっくりと沈めた。全身がじんわりと解されていくのを感じた。
静かだ。部屋が呼吸を潜めているかのような静けさ。
俺はしばらく風呂を堪能していた。鼻歌などを歌っていると、ふと、湯の中で何かが揺れている気がした。
なんだと思いながら、そっと顔を近づける。自分の足先の湯の底近くにゆらゆらと揺れているのが見える。
足の影の横に──見覚えのない"何か"がいた。
...ん?
身を起こす。湯面が波打ち、光が乱反射する。見間違いだ。そうに決まっている。
もう一度、ゆっくりと背を沈め、視線を下ろした。
その時だった。
湯気の奥、わずかに濁った水の底に──"顔"があった。
緑がかった皮膚が泡立つようにボコボコと膨れている。唇は縦に裂けて、痛ましく開いていた。
見開かれたままの両眼は、白目が異様に膨れて、細い血管が蜘蛛の巣のように広がっている。濁った黒目が、こちらを真っ直ぐに捉えていた。
それは、紛れもなく人間の顔だった。だが、膨らんで、溶けかけて、色も形も異様に崩れている。
俺は息を呑んだ。声も出せなかった。
次の瞬間、湯面がわずかに揺れ、そこには何もいなくなっていた。
タイルの底。自分の足。水だけが、ゆらゆらと揺れている。
俺は、何を見た?
見間違いだろうか。光の反射、湯気、疲れ、──あるいは...本物?。
心臓が、喉の奥で暴れていた。
呼吸がうまくできない。息を吸っても、吐くことが出来ないような感覚。
反射的に立ち上がると、ざば、と湯が跳ねた。
震える指先で栓を抜き、脱衣所へ飛び出す。背中を壁に預けて、肩で息をした。
排水音が風呂場に残っている。その音を聞くと、あの"顔"が頭に浮かび、背筋が震えた。
結局その夜、体もろくに拭かないまま俺は布団に逃げ込んだ。
冷房はつけていたが、吹き出す汗が肌に粘りついて仕方なかった。