第12話 迫りくる危機
王宮から広がる噂は、国中に一層深刻な空気をもたらしていた。
「隣国が我が国の混乱に乗じて侵攻を狙っているらしい」「北方の国境地帯で軍事演習めいた動きがあった」といった話がまことしやかに囁かれ始め、都市の商人たちは通商ルートの変更を急いで検討している。
もともと外交では後手に回り、周辺諸国から警戒されがちだったこの国は、今の混乱を見透かされ、戦乱の火種を抱えかねない――そんな不安が王都全体を包みつつあった。
廊下を行き交う貴族や軍関係者の口からは、こんな声が聞こえてくる。
「国境沿いの村に、不穏な動きがあるそうだ。もし農民の暴動に発展したらどうする?」
「内政がこの状態では迅速な防衛もままならない……戦になれば民衆はどうなる?」
しかし派閥争いは相変わらず泥沼にはまり、指揮系統を立て直そうにも、互いを牽制して足を引っ張り合うばかり。保守派は貴族の既得権益を死守し、改革派はまだ足並みが揃わず、穏健派の一部が「今こそ強力なリーダーを」と声を上げても、その役を買って出る者はおらず、あるいは出ても封じられてしまう。国の舵取りが定まらないまま、戦火の足音だけが近づいていた。
内政の混乱と財政難が深まるなか、王太子ロデリックの表情にも追い詰められた色が浮かぶ。
老いた父王は周囲への忖度に忙しく、派閥衝突を抑える決断を下せない。外からの脅威に備えるより、貴族同士の利害調整を優先する状況が続いていた。
(こんな状態で、もし隣国が本気で動いたら……。防衛どころか、国そのものが崩壊しかねない。それなのに、皆それぞれの利益を守ることばかり……)
ロデリックは内部からの改革を試みるが、保守派の抵抗や軍部の主導権争いに阻まれ、何ひとつまとまらない。
さらに、王都では「優れた洞察力と知識を持ち、国の情勢を大局的に見抜いているらしい」というパルメリア・コレットの噂が飛び交い、彼女がこの事態を打開する鍵になり得るのではと期待が高まっていた。
しかし、いざ迎えようとしても、彼女は屋敷に閉じこもったまま要職を引き受ける素振りを見せず、ロデリックの焦りは募るばかりである。
(彼女はいったい何を考えている? どうしてそこまで拒み続けるんだ。いまはたとえ一人でも力が欲しいというのに……)
派閥間の権力争いを抑えることもできず、先の見えない状況に苛立ちながら、ロデリックは打開策を模索し続けていた。
一方そのころ、パルメリアは屋敷の自室で、使用人から告げられた「戦が近いかもしれない」という噂に、内心ざわめいていた。
前の人生で経験した革命と粛清、独裁への道――その末に見た血の惨劇が、まざまざと脳裏を支配する。
今また、国が崩壊しかねない戦争の危機に直面しているのに、自分が関われば「さらに最悪の結果」を招くのではないか――そんな恐怖が頭から離れない。
(戦争……また、あの悲劇が繰り返されるの?でも私が動けば、今度はもっと酷い地獄を呼び込むかもしれない。だから、黙っているしかない……)
過去の忌まわしい記憶が頑強なトラウマとなり、彼女を「もう二度と行動しない」という選択へと縛りつける。
国を変えるだけの力はあるかもしれないが、その先にあるのは結局、独裁と粛清――そう確信するからこそ、パルメリアは一歩を踏み出せないのだ。
使用人たちが「お嬢様、このままでは……」と期待を込めた眼差しを向けても、彼女は突き放すように言う。
「私が動いても、何もいい方向には進みません。むしろ、もっと悪くなるだけよ」
口には出さないが、「これ以上、自分の手で血を流すくらいなら、いっそ何もしない方がいい」という思いが渦巻いている。
公爵や家臣でさえ「なぜ、あれほどまで無関心を装うのか」と訝しむばかりで、彼女の真意を知る者はいない。
王都に広がる「隣国が軍を動かすらしい」という噂は、日を追うごとに具体性を増し、一部の商人は「取引先の諸国が対立を深めている」と青ざめている。
地方でも「いざ戦となれば農地は荒れ、民は難民化するのでは」と恐れる声が高まり、いくつかの領主は私兵を招集し始めたため、緊張はさらに高まる一方だ。
「まさか、本当に敵国が侵攻を仕掛けるなんて……いや、まだ脅しだけかもしれないが」
「それでも今の内政では迎え撃つ備えもできない。貴族がまとまらないと、戦力すら集まらないだろう……」
王宮の廊下では、そんな嘆きや動揺が渦巻いている。
しかし肝心の派閥争いは泥沼化するばかりで、ロデリックが「いまは一致団結すべきだ」と声を上げても、どの派も動きが鈍い。
このままでは開戦以前に国が内部分裂を起こすのでは――そんな不穏な噂すら飛び交い始めていた。
こうした逼迫した状況をよそに、パルメリアは「何もしない」ことを貫いている。
戦火の話が刻一刻と迫るなか、かつての独裁と粛清の記憶がますます鮮明に蘇り、彼女は息苦しさを覚えながら、それでも心を固く閉ざしてしまう。
あの血塗られた結末を再び迎えるわけにはいかない――その思いだけが行動原理となっていて、どれほど周囲に非難されようと構わない、というほどに。
(戦争なんて誰も望んでいないのに。だけど私が動けば、結果はもっと悲惨になるかもしれない。この国は、もう救われないのかもしれない。けれど、それでも私が罪を重ねるよりは……)
まるで祈るような心境でありながら、彼女は自らを絶望という鎖で拘束し続けている。
誰も彼女の内面を知ることはできず、屋敷の外では「どうしてお嬢様は動かないのか」と疑問や苛立ちが高まり、ロデリックをはじめとする王宮関係者も「頼みたいのに応じてくれない」と不満を募らせるばかり。
内憂外患が同時に煮詰まり、誰もが不穏な空気を感じ取るなか、「何か大きな出来事」が起こるのも時間の問題なのだ――そうした予感が、王都全体を覆い始めていた。




