8. 五年前のあの日①
蝶蘭の回想です。悲惨です。
今の強い蝶蘭はここから生まれました。
8.
蝶蘭に両親がいたのは、もう5年前のことになる。
代々村長を継いできた家系の生まれだった。母親は早くに病没したが、彼女の父は優しく明るく、歴代きっての名村長だと謳われていた。
蝶蘭にとって、幸せの中心とも言える存在だったのだ。
しかし蝶蘭はその時のことをほとんど覚えていない。思い出されるのは、幸福が壊れた瞬間のこと。その後の長く続いた苦しい生活のこと。
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その日、蝶蘭の父親はもうすぐ5歳になる娘のためにプレゼントを買いに出かけていた。
山の麓から30kmほど行ったところに魔法研究の活発な街があり、そこで摩訶不思議な玩具を買い与えようと考えていたのだ。
『いくら馬車でも山を下って、そこから30kmとなると……往復で10時間はかかるだろうな。』
『ちょーらん、あれがたがたしてきらいだからいえにいるよ』
『1人で留守番はなぁ』
難色を示した父親に、蝶蘭は何かあっても村の人がいるから大丈夫だと訴えた。彼は妻を亡くしてから蝶蘭に対して過保護になりすぎるきらいがあったのだ。
それが幼い蝶蘭には、嬉しさも少しはあったにせよ煩わしく感じるものであった。
『分かった分かった……お前は絶対折れないだろうしな。早くに出発して、19時……金星が落ちる頃には帰るよ。』
金星は、蝶蘭と彼が1番気に入っていた星だった。
「何かあったら私が面倒を見るから、安心して行きなさい。」
当時の叔母は今より少し痩せていた。でも、蝶蘭は叔母が嫌いだった……彼女はいつも、蝶蘭を壊そうとするかのように強い力で接してきたから。その時も、肩に置かれた手は異常に重かった。
「本当に頼むよ姉さん。この子に何かあったら、俺は発狂するぞ!」
蝶蘭は、今更父親と一緒に行けばよかったと後悔した。村長ではなく一児の父親として威厳に満ちた姿であることは、極めて稀だったからだ。蝶蘭の父親が蝶蘭だけのものになってくれた記憶など、数える程しかなかった。
いつも心のどこかで村全体のことを考えているのは、娘としては嬉しいことでは無い。しかし、そこでいよいよ近づいたイベントの重要性に気づいた。
────誕生日だけは、確実に蝶蘭が独り占めできるだろう!
さりげなく蝶蘭の肩に乗っていた手を振り落として馬車に乗り込んだ父を笑顔で見送る。
「……行ったわね。」
遠ざかっていく姿を叔母と2人見つめた後、ポツリと呟かれた声。それは、あまりに多くの感情を孕んでいたように思う。
「うん。」
「蝶蘭ちゃんは1人で留守番したいのよね?叔母さんも忙しいから、家で大人しくしててくれない?」
この人は簡単に父との約束を破るんだ、と蝶蘭は思った。やっぱりこの人嫌い、とも。
「わかった。ちょーらんはおとうさんとやくそくしたからいえにいるよ。」
でも、この人と一日中一緒にいるのは耐えられない。そう考えた蝶蘭は叔母の提案に飛びついた。
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「………………」
初めは様子を見に来ていた叔母も、夕方が近くなると家事が忙しくなったのかぱったり訪れなくなった。
村長として時には会議場所となることもある蝶蘭の家は、1人では今までの倍以上広く見える。
「……もうすぐかえってくるかなぁ。」
でもまだ陽が赫く輝いていた。叔母にばれないようにそっと外へ出ると、蝶蘭の影は父親よりも高く伸びた。でもまだ夜じゃない。暗くならないと星は見えないのだ。
「おむかえにいこうかな……きっとよろこんでくれる……」
山は危険だから絶対1人で下っては行けない。父と約束したことがあったが、蝶蘭はもうこの寂しさに耐えきれなくなっていた。
お留守番なんて、やっぱり無理だった。
じわりと込み上げてきた涙を目を閉じて耐える。自分は当然、父の跡を継いで村長になると思っていた。父が泣かないように、蝶蘭も涙を流さない。
「きっとぱぱ、おどろく」
ここで道に迷わず進んでいけて、山の麓で父に会えたら。名誉挽回のこれ以上ないチャンスだと必死に考え、蝶蘭は長い影を引連れて走り出した。
見つかったら連れ戻される。こっそりと、静かに。
普段うるさくしていたおかげで、誰も蝶蘭が黙って出ていったなどとは考えない。蝶蘭はこうして、誰にも知られずに山道を下っていけた。
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子供の小さな足では、麓までたどり着けそうもなかった。金星はすでに木々に隠れる高さまで落ちている。
山が暗くなったら、変に歩き回ってはいけない。
父が教えてくれた山でのルールを、今度はちゃんと守ることにした。ここまでの道のりに間違いは無いはずだ。待っていれば、馬車のランプが近づいてきて、父親が蝶蘭を照らし出すだろう。
蝶蘭は時間をかけて何とか道に面する1本の木に登った。
夜の森は真っ暗だったが、家の中より怖くない。
父親と夜な夜な眺めた数多くの星を1つずつ数えていれば、数時間はあっという間に経つ……。
100個を数え終えて、次の数字の番号が分からなくなっていた時だ。ヒヒーン、と馬の甲高いいななく声が聞こえた。
父だ!!
蝶蘭は木から身を乗り出すように地平線に目をやった。勢いよく手を振ろうとして、その馬車の様子が何だかおかしいことに気づく。馬は暴れて馬車は傾き、おまけに人が乗っているはずの箱のシルエットが歪だった。
出かけた時、あんな馬車には乗っていなかったはずだ。父親でなかったらまずい。蝶蘭が家を抜け出していることがバレて、連れ戻されてしまうかもしれない!
そうなったら蝶蘭は、ただの約束を守れなかった子供だ。慌てて木の中に逃げ帰った。
バタバタと何とか前に進んでくる音が、蝶蘭の目の前で止んだ。
ヒヒン、と馬が強く鳴いて、どさりと倒れる音。馬車の籠はガタガタと乱暴に揺れて、それに混じってグチャグチャと、何やら汚らしい咀嚼音が聞こえてくる。
間違いない。何かが何かを喰っている!!
蝶蘭は恐ろしくて息をすることしか出来なかった。
はやく、はやくかえってきて、ぱぱ。
その祈りが届いたかのように、再び遠くから馬車の音が聞こえてきた。今度は規則的にタイヤが回り、ガタゴトという音に違和感がない。
ところが、少し遠くでその音はやはり止まって、ドアを開け閉めする音が聞こえてきた。カツカツと近づいてくるブーツの音は、父のものではなく、それでも人がやってきたことに蝶蘭は安堵する。
「しぶとかったな、今回のターゲット。」
「報酬もその分弾まれてるし、いいだろ。それに、馬車を少し近づけて捕まえたゴブリンを放つだけだぜ?時間はかかるが、こんなに割のいい殺人はなかなかない……」
殺人!!蝶蘭はその言葉に心当たりがあった。「母の病没が、実は殺人だったのではないか」と言われている時期があったのだ。その時期、父の過保護は最大値へ振り切れていた。
病没は病気で自然に死んでしまったことだが、殺人は人が無理やり人を死なせること。
つまり、今目の前で人が死んでいる!!!!
「この殺人方法は見られたら終いだから、こんな山でしか使えないけどなぁ……それに、見られてるじゃねぇか、小さい小さいお嬢さんによぉ?」
「…………!!!!!!!!!!!!!」
バレていた。衝撃のあまり声も出ず固まっていたところ、隠れていた木を何かで強く叩かれ、蝶蘭は木と同時に地面に倒れ込んだ。
幸い木の上に回り込んで倒れていたので、下敷きになることなく別の木の影へすぐさま移動する。
「しぶといな、どいつもこいつも……おい、ゴブリンに任せて帰っても問題ねぇよな?レベル的にも別に大したことねぇ奴らだ。持ち帰る必要あるか?」
木を切った男は、巨大な斧を持っていた。
「あぁ、そうしよう。お客さんには始末したと言って構わないだろう。どうせすぐその通りになる。」
殺人などとことも無く口に出した男は、深くフードを被っていた。
「おいゴブリン、そいつを喰い終わったらこっちも頼むぞ。むしろこっちのが上等な肉なんじゃねぇの?」
2人組は笑って馬車に顔を突っ込んでいる緑色の身体を無理やりこちらへ向けた。
「……ぁ、……ぁあ……!!!!」
助けを呼びたいのに声がかすれる。
顔を血まみれにした、醜い怪物がうろんげな瞳で辺りをさまよった後────はっきりと蝶蘭を見つめた。
「さよならお嬢さん、いい夢を。おい、ターゲットが死んだ証拠を持ってかなくちゃならん。身につけてたものを取っておけ。」
「回収済みだよ、無事なのはこれしか無かった……奇しくも俺らの拠点とはな?よっぽど上手く普通の商売やってるように見せてんだな。怖い怖い。」
がさりと音がするもの──恐らく紙袋だった───を揺らし、2人組は馬車へと戻っていく。
「合流場所は山の麓か。丁度いい、馬車の痕跡を消しておけよ。」
どんな極悪人でもいいから、置いていかないで、と強く願った。けれど当然彼らは見向きもしない。むしろ、彼らは蝶蘭が死ぬことを望んでいるのだ。
5歳の誕生日を迎えようという夜、蝶蘭はおぞましい魔物に食われようとしていた。
読んでくださった方ありがとうございます!