満ちる夜
教師視点
看病するお話です
国語の成績は最悪だった。
子供の頃からだ。
長い文章を読み続けるのや、気持ちを推し量ることがともかく苦手で、これだと信じた選択肢は悉く外れていた。
『ほかはいいのになぁ、どうして国語だけダメなんだろうなぁ? んー……まぁ、いいところを伸ばしていけばいいんだよな』
中学時代の担任は、そう言って涼夜を慰めてくれた。
真面目で善良な教師だった。
幸い、記憶力は悪い方ではなかったから、この国の暗記に重きを置いた試験は難なくパスすることが出来たけれど──
(でも)
それでも。
どうしても自分は【その部分】が欠落しているのだと、そう思わずにはいられなかった。
大人になればなるほど、余計に。
自覚せずには、いられなかった。
『水とゼリーをおねがいします』
(まったく、あの子は)
放課後。職員会議の最中だった。
デスクの上で震えた携帯を手に取り、メッセージを開けば、それは【彼女】からの白旗……もとい救援要請で。
(ひとりでも大丈夫なんじゃなかったっけ……?)
半ば呆れつつ、涼夜は『了解』とだけ返信をする。
ここ数日風邪で学校を休んでいる女生徒──七瀬結衣子のアドレスへ。
ドラッグストアに立ち寄り、ご所望の水とゼリー、それからスポーツドリンクと、念のためプリンとアイス、ついでに熱冷ましシートも……と目についたよさそうなものを買い込み。涼夜は、一度だけ行ったことのあるアパートへと車を走らせた。
表札を確認しインターホンを押せば、ややあって頼りない声が返ってくる。
『はい……』
「ひどい声だね」
『……すみません』
今開けます、と力ない声が途切れて、そっと扉が開かれる。
「大丈夫? ……じゃ、ないみたいだね」
現れた七瀬の顔は、朱に染まっていた。
マスクにパジャマにカーディガンという病人スタイルで、おまけにけほっと小さく咳までする。
これは、思った以上だ。
「買い物、ありがとうございます。今お金を」
「病院は行ったの? 熱は?」
「……えっと、昨日行きました。ただの風邪だって」
どこかぼんやりと受け答えする七瀬に、涼夜は深いため息をこぼした。
(……こんなに悪いだなんて、聞いてない)
一昨日の月曜日。
体調不良で学校を休んだ七瀬を珍しいなとは思っていて。
偶然、彼女の母親が長期出張だと知ってしまっていたから、なんとはなしに連絡をしていて。
けれど、彼女から返事がきたのはつい先ほどのことで。
(我慢強いにもほどがあるだろ)
いつから食べ物が尽きていたのかとか。
どうしてもっと早く連絡しなかったのかとか。
──ずっとひとりだったのかとか。
いろいろと質問詰めしてしまいそうになり、涼夜は、懸命に言葉を飲み込んだ。
病人には優しくしないと。
自身を落ち着かせるように心の中でつぶやいて、七瀬を見下ろす。
「いろいろ買ってきたから、好きなもの食べて」
「え……こんなに?」
涼夜の差し出したビニール袋を覗いた七瀬が、その中のひとつ──卵粥のパウチに目を留める。
「七線さん、おかゆ好きなの?」
「あ、はい……好きというか、昔から風邪の時は食べてて……」
「よかったら温めよっか? レトルトだけど」
「いえ、大丈夫です。そこまでしてもらうわけには……」
「心配しなくてもすぐ帰るよ」
「……でも」
「そんなふらふらなのに、作れるの?」
熱で思考が定まらないのだろう──こんな申し出、普段の七瀬なら絶対に了承するはずがない。
なのに今夜の七瀬は数秒視線を彷徨わせたあと、「お願いします」と頭を下げてきた。
そのいつにない素直さに、涼夜は珍しいものを見た気分になる。
なんとなく、落ち着かない。
「ん……玄関口で話しちゃってごめんね。すぐ作るから、七瀬さんは寝てて」
「はい……ありがとうございます。助かります」
(ほんとに今日の七瀬さんは……素直だ)
イチ教師として、出過ぎた真似だという自覚はあった。
親の留守中、生徒の、それも女の子の家にあがるなんて、非常識もいいところだ。
しかしそれでも、このまま七瀬を放っておくなんてことは、涼夜にはどうしても出来なかった。
心配すぎる。
(……おれって、ほんとはほんとに『心配性』なのかも)
先日七瀬に言われた言葉を思い出して、わずかに首をひねる。
けれどやっぱり、それは自分には当てはまらない性質のような気がした。
なぜなら自分は、他人を思いやる気持ちに欠けているからだ。
国語のテストでもそう示されていたし、過去の恋人からも【無関心】を理由に振られたことがあったからだ。それも一度や二度の話ではない──。
だから今七瀬にここまでしようとするのはきっと、教師としての責任ゆえなのだろう。
そう、自己分析をする。
自信はなかったけれど。
「お邪魔します」
ともかく今は看病だ。
思考を振り払い、涼夜はフローリングの廊下に上がった。
「おいしい……」
「そう? よかった」
昨今のレトルト業界の目覚ましさには感動すら覚えてしまう。
料理がからきしな涼夜でも、こうして生徒を笑顔にさせることが出来るのだから。
リビングのローテーブルの前に座り込んだ七瀬は、涼夜が温め器に移したレトルトの卵粥を、ほふほふと頬張っていた。
「熱くない? ゆっくりでいいよ」
「ちょうどいいです。先生、料理上手なんですね。すごい、おいしいです」
「……七瀬さん、相当熱あるみたいだね」
食事が終わったら一度熱を計らせようと思いつつ、コップに注いだ水を差し出す。
(そういえばこんな七瀬さん、初めて見たな)
無防備で、いつになく素直で、警戒心がまったくない。
……いつもそうしてたらいいのに。
学校での彼女はいつだって気を張っていて懸命すぎて、【大変そう
】に見えるから。
このくらい肩の力を抜いててもいいのじゃないかと、涼夜は思ってしまう。
「本当にすみません。こんな、迷惑かけちゃって」
腹の虫がおさまったのか、お粥が半分減ったところで、七瀬が言った。
「パンとかインスタント麺とか、いろいろあったはずなんですけど、なくなってて」
親しい友人は家が遠く、母親はまだ帰れそうになく、申し訳ないと思いつつも七瀬は、最後の頼りとばかりに涼夜に連絡をくれたらしい。
それだって彼女の性格を鑑みれば、おそらくはかなりの葛藤──迷いに迷った末の選択だったのだろう。
そう思えば、怒るに怒れなくなってくる。
彼女はたぶん、他人に頼り慣れていないのだ。
普段からしっかりしすぎているせいで。
(まったく……)
涼夜は冗談めかして言った。
「次からはいの一番におれを頼ってくれていーよ」
「それは……次がないようにします」
「まぁそれが一番だけどね」
軽く笑いながら、改めて現状を俯瞰する。
夜に女生徒の自宅に上がり込み、ふたりきり。しかも相手は熱で弱っている。
もしもバレたら、よくて謹慎か減給……最悪は懲戒免職ものだろう。
(まぁ……いっか)
そのときはそのときだ。
今は自分の正しいと思ったことをやり抜こう。
思っていると、七瀬がぼんやりとこちらを見つめていることに気づいた。
「……なに?」
「……先生って、不思議だなぁって、思って」
「なにが?」
心なしか、しゃべり方も普段の彼女よりずっとゆっくりしていた。
「ん……先生って、たばこ吸ってたりとか、ふざけたこと言ったりとか……不真面目そうに見えるのに、ぜんぜん、そんなことないなぁって……ううん、逆に、ほんとはすごく真面目ですよね? コンビニで会った時もわざわざ送ってくれたし。授業もわかりやすいし、テキストも凝ってるし、学校は休まないし………」
「……後半は、教師だったら当たり前のことじゃない?」
「印象の問題です。……あぁそうだ。それとね、私、先生の声、すごく好きなんですよ」
脈絡のない突然の告白に、一瞬心臓が止まる。
「聞きやすいっていうか、こう、すーっと頭に入ってくるんですよね。私、科学って苦手だったんですけど、おかげで今はなんとかついていけてます、ありがとうございます」
「…………そう」
──びっくりした。
七瀬からのストレートな告白に、涼夜はこそばゆくなって視線を逸らした。
とてもじゃないけれど、彼女のまっすぐな瞳を受け止めることが出来ない。
単純に、うれしい。
これまでも『聞きやすい』と声を褒められることはよくあったけれど。まさか七瀬までそうだとは思いもしなかった。
(なんでだろ。他の子に言われても平気なのに)
体が熱い気がする。
「……それは、よかったよ」
「? ……先生、もしかして照れてます?」
「照れてないよ」
「でも顔、赤
いですよ」
「うそだ」
「ほんとです、耳まで真っ赤になってる」
「……あぁもう、食べ終わったらなら下げるよ」
「あっ待って! まだ、まだ食べます……!」
とたん、お粥を抱え込むようにした七瀬が可愛くて、涼夜はつい、吹き出してしまう。
「ちょっとは元気になった?」
「はい」
ふふ、と七瀬が揺れるように笑って、食事を再開する。
涼夜もなんとか平常心を取り戻した。
心配だけど、そろそろほんとに帰らないとな。
そう思ったところで、七瀬が言った。
「でも、本当にありがとうございます。今日もですけど」
「?」
「こないだ……面談の時──母のこと気にかけてくださって」
「……」
「ありがとうございました」
涼夜は、努めて穏やかな声で尋ねた。
「……風邪だって、連絡はしてるんだよね」
病欠の場合、学校への連絡は必ず保護者からしてもらう決まりになっている。
だから七瀬の母親が娘の病気のことを知らないはずはない。
なのに、確かめてしまう。
「はい。でも仕事が立て込んでるそうで……抜けられないみたいで」
「そっか」
帰ってこないんだ。
「あっでも、メールのやりとりはしてますし、明後日には戻るみたいですから、大丈夫ですよ。先生には迷惑をかけてしまいましたけど」
「そんな慌てなくても、首を突っ込んだりしないよ」
母親との不仲を否定するように慌てだした七瀬に、涼夜は苦笑した。
「お母さんには言わないから、安心して」
「……」
七瀬が友人でも担任の中島でもなく、自分に助けを求めてくれた理由──。
それはきっと、涼夜の放任主義を当てにしたからなのだろう。
涼夜は生徒が校則違反をしても、大抵は見過ごすかなだめるかに留めている。
深く干渉したりしない。
それが友好的な関係を築くための、最善な方法だと知っているからだ。
でも。
(さすがのおれでも、七瀬さんは放っておけないんだけどな)
彼女の家庭環境を知ってしまった今、見過ごすことは難しい。
ただ、七瀬本人はどうにも、母親との和解を望んでいるように見えるから。
だから今はまだ、第三者が踏み込むべきではないと、涼夜は思うのだ。
「お母さんには言わない。けど、何かあったら今日みたいにおれやほかの人に絶対に相談して。絶対に、だよ? 約束してくれなきゃ言う。中島先生にも校長にも教頭にも」
これくらい強く言わなければ、この子はまた、ひとりで無理をしてしまうだろう。
思い、らしくなくすごんでみせた涼夜に──七瀬は、瞳を瞬かせた。
口を開けて、大きな目を見開く。
子供みたいに。
「……先生って……エスパーみたい」
「え?」
「お母さんに内緒にしててほしいって、どうしてわかったんですか? 今から頼まなくちゃって思ってたのに」
「…………」
驚いた様子の七瀬に、涼夜も呆ける。
「どうしてって……そりゃ、今までのきみの言動見てたら、わかるよ」
「……推理ってことですか?」
「そんな大げさなものじゃないよ」
ただ、見てたらわかった。
親との関係が拗れている──似た者同士だから?
それとも。
「……おれ、レベルアップしてるのかも」
「? ゲームの話ですか?」
「うんまぁ、そんなとこ」
七瀬がまた、不思議そうに瞳を瞬かせる。
国語も。読書も文章問題も、今でも苦手だった。
小説なんて読めやしないし、登場人物の──人間の微細な感情の変化を読み取るなんて、完全に理解するなんて、不可能だと思っている。
けれど。
驚く七瀬を前にして、涼夜はふと思う。
(わかることも……ある?)
『いいところを伸ばしていけばいいんだよなぁ』
中学時代、担任に言われた言葉の意味が、やっとわかった気がした。
(みんなと仲良く、は難しいけど。好きな人と仲良く、は出来るんだよな。きっと……おれでも)
「どうして笑ってるんですか?」
「いやぁ、ほんとにエスパーだったら人生面白いだろうなと思って」
「……先生がエスパーだったら、私絶対近寄りたくないです」
「ええ、いつもなに考えてるの? 知りたいな」
「……」
「ほんとに何考えてるの」
「秘密です」
「わかった、悪口だ」
七瀬は、黙秘権を行使するかのように粥を食べ出した。
ちょっとショックだった。
それから。熱を測らせ下がっていることに安堵し、食器を片付けつつ彼女が薬を飲むのを見届けたあと。涼夜は七瀬のアパートをあとにした。
自宅に戻り震えた携帯を見れば、七瀬からスタンプ付きのメッセージが届いている。
『今日は本当にありがとうございました。おやすみなさい』
猫が布団にもぐっている可愛いイラストのスタンプに微笑み、涼夜も返事を打ち返す。
『どういたしまして。無理はしないでほしいけど、学校で待ってるね』
『おやすみ』
連続してメッセージを送ったあと、ソファに座り込み、ひとつあくびをする。
仕事はまだ残っていて、体も疲れている。なのに。
心はなんだか、満たされていた。