夕暮れと
三者面談のお話です。
結衣子視点
夕暮れはあまり好きにはなれなかった。
結衣子はまだ遊んでいたかったからだ。
『ばいばい! ゆいこちゃん!』
『うん、ばいばい』
帰って行く友達を見送って、公園にひとりで立ち尽くす。
冷たい風が、急かすように帰宅をうながしてくる。
帰ったって誰もいはしない、あの家に。
向かいで、担任の中島は朗らかに笑った。
「この分なら大丈夫でしょう。すこし数学が危なくはありますが、わたしたちもサポートしますし、なにより七瀬さんは努力家ですし」
「そうですか。よろしくお願いいたします」
進路希望調査票に書いた大学を、母は今この場ではじめて知ったはずなのに、一切反応することはなかった。驚愕することも喜ぶこともなく、ただ穏やかに微笑んで、中島の話に耳を傾けていた。
それで結衣子は、母はもうすっかり自分に興味をなくしてしまったのだと理解した。知っていたはずなのに、心は空虚になる。
(大丈夫……まだ、やり直せる)
スカートの上に置いた両手を握りしめて、結衣子は時間がすぎるのをひたすら耐えた。
中島が結衣子の成績や授業態度をいくら褒めても、母はただうなずくだけだった。──早く帰りたいのだろう。彼女は今日も、仕事で忙しいのだろうから。
「そうだ、お母さんからなにか、聞いておきたいことや、心配事はありませんか?」
定型と思われる中島からのその質問にも、母は「いえ」と小さく首を振
るだけだった。
「わたしがいうのもお恥ずかしい話ですが、結衣子はしっかりしていますから。塾も進路も、好きにさせているんですよ」
ね、と同意を求めるように顔を向けられて、結衣子は一瞬だけ、かたまった。
──もういいわ。好きにしなさい。
冷たい無関心な声が脳裏によみがえる。
母の期待に応えられなかったのは、結衣子だ。
中学受験も高校受験も失敗してしまったから。
母が自分に興味を示さなくなったのは、結衣子に原因がある。
だから大学はと、母の出身校を志望した。
母の信頼を、とりもどしたくて。
結衣子は母に向かって笑顔でうなずいた。
「うん、頑張るよ」
面談が終わると、母はやはり「今日も遅くなるから」と夕ご飯代を渡してきた。
多すぎるような気のする紙幣の枚数に顔をあげると、母は鞄から携帯を取り出しているところだった。目は合わない。
「あぁ出張になったのよ。しばらく留守にするけど、平気よね?」
「……出張? また?」
「ええ。一週間くらいで戻れると思うわ。何かあったらメールして」
「……わかった。……気をつけてね」
母がいない間は勉強に集中しよう。
空虚を埋めるようにそう思った瞬間だった。
「あれ? 七瀬さんのお母さんですか?」
ひときわ明るい声が、ふたりだけだった廊下に響く。
「すごい、似てらっしゃいますね。すぐにわかりましたよ」
(この脳天気な声は……)
おそるおそる振り返れば、案の定、和泉が歩んでくるところだった。今日も無意味に白衣をなびかせている。
「? どなた? ……保健の先生?」
困惑する母のそばに、和泉が立ち止まる。
「あぁ、まぎらわしくてすみません。科学担当の和泉と申します」
「まぁ。科学の……いつも娘がお世話になっております」
よそ行きの笑顔で頭を下げた母を、和泉はにこやかに見下ろしていた。
──先日、酒の入った母にぶたれ出来た青あざを、和泉には見られている。
(お願い、なんにも言わないで……)
母には謝罪され、関係は修復できたのだ。こんなでも、一応。また拗れたくはない。
祈るように和泉を見つめるが、彼の視線は母に注がれたままだった。その笑顔からは、なにを考えているのかまったく読み取ることが出来ない。
「三者面談ですか。七瀬さんは優秀だから、すぐ終わっちゃったでしょう?」
「ほかの生徒さんを知りませんから……」
「あぁそうですよね。でも七瀬さんはほんとに良い子ですよ。授業態度もまじめですし、こないだの定期テストも一番で。そうそう、級長の仕事も」
「あの、すみません先生」
申し訳なさそうに、母は和泉の言葉を遮った。
「私、これから仕事に戻らないといけなくて。お話はまた聞かせていただければと……」
「! そうでしたか、すみません。お引き留めしてしまって」
「いえ……」
母がちらと結衣子を見た。
「それじゃ、いくわね」
「うん」
「先生も、失礼します」
母は丁寧に頭を下げると、足早に去って行った。
「綺麗なお母さんだね」
「……そうですか?」
「うん、きみと似てた。顔立ちとか」
その場に残ったまま、和泉は母が去った方角を眺めていた。
そうして、ぽつりとつぶやく。
「……大柄な人じゃなくて、ちょっと安心した」
「? どうしてですか?」
見上げた瞬間、ちょうどこちらを見下ろした和泉と、視線がかち合ってしまう。
問いには答えず、彼は結衣子の髪に隠れた頬、こめかみを見つめてきた。なにかを探るように。
「痕は、残ってない?」
「────」
心配、してくれていたのだ。
あれからもずっと。
そうとわかって、結衣子は不意に泣きそうになった。
うれしい。
知られたくなくて、視線をそらす。
「はい」
「そう、よかった」
柔らかな声がふってきて、そっと頭を撫でられる。
「っ、見られたら大変ですよ」
「うん。だから内緒にしてて」
和泉の手はすぐに去ったけれど、感触は消えない。
結衣子はあたたかさを噛みしめる。
幼い頃は、母もよくそうしてくれた。
結衣子が怪我をしたら心配してくれて。絆創膏を貼ってくれて。痕が残らないか、気にしてくれた。
(そうよ、お母さんはやさしかった)
なのに結衣子が理想通りに育つことが出来なかったから、だから母はあんなふうになってしまったのだ。
受験を頑張ろうと、結衣子は改めて意気込んだ。
そのためにも早く家に帰って今日も勉強をしなくちゃいけない。
和泉に挨拶をしようと振り向く──が、彼の視線は、今は結衣子の手元に向けられていた。
「ところでさ、そのお金、大金だね。お母さんから?」
「あぁ、はい。長期出張だとかで、生活費です」
「ふぅん。豪勢だね。とりあえずしまったほうがいいよ」
うながされて、結衣子は紙幣の束をブレザーのポケットに入れた。
和泉の顔から笑顔が消える。
「ちょっと込み入った話してもいい?」
「え?」
どうして、と聞き返す間もなく、言葉を重ねられる。
「七瀬さん、お母さんとふたり暮らしなんだよね」
「……はい」
「じゃ、お母さんが出張の時はひとりなの?」
「…………はい」
「そっか。それは心細いね」
「別に。慣れてますから」
小さな子供ではないのだ。
朝はひとりで起きられるし、食事の用意も、十分にできる。
なのに和泉はいやにしつこかった。
「親戚のひととか、頼れる大人はいるの?」
「……隣のおばさんとは、知り合いです」
「近所づきあいはあるんだ。で、頼れるの?」
はぐらかされてくれない。
(この人、やっぱり苦手)
思いつつ、結衣子はそっと首を横に振った。
「いません」
「じゃあ、もしなにかあったら、おれに連絡して。絶対だよ」
「……なんにもないですよ」
結衣子は怪訝に目をほそめる。
「もしもはあるでしょ、誰にでも」
「……」
「返事は?」
「……わかりました」
渋々うなずくと、和泉はやっと普段の笑顔に戻ってくれた。
「良い子」
誘導されたことがなんとなく悔しくて、結衣子はつい、唇をとがらせてしまう。
「先生って」
「ん?」
「結構心配性ですよね、お節介っていうか」
しかしなぜか、そこできょとん顔を返された。
「心配性? …………おれが?」
「ほかに誰がいるんですか」
「いや、そんなことはじめて言われたから」
和泉は不可解そうに眉をひそめていた。
「そうかなぁ」
「そうですよ」
「普通じゃない?」
どうでもいい押し問答が続く。
橙染まる、夕暮れの廊下。
もうすぐ家に帰らなければいけない時刻。
けれどそこに、いつかのような寂しさはなかった。
和泉の減らず口のおかげかもしれなかった。
読んでくださってありがとうございました。