焦がれる
卒業前にすればいいのに。
「好きです」
もしくは、ちゃんと人のいないことを確認するとか。
見えてしまった上履きのカラーは三年生のものだった。
結衣子は静かにため息をつく。
季節は秋。卒業まで幾許もなく、だからその先輩は焦っていたのかもしれない。でも、場所と時期はもっと熟慮すべきだと思った。あと数ヶ月で卒業だとはいっても、あと数ヶ月は在学するのだ。答えによって、残りの時間がどれだけ過ごしにくくなるか。
少なくとも結衣子にはそんな勇気はなかった。
告白したいと思う相手もいなかったけれど。
「ありがとう」
空き教室から聞こえたのは、ゆっくりとやわらかな、少しも心揺さぶられた様子のない、普段通り過ぎる和泉の声だった。その先に続く言葉がわかって、なんの関係もない結衣子まで居た堪れない気持ちになる。聞いちゃいけない。けれど、そっと立ち去ろうとした足は間に合わなかった。
「でも、ごめんね」
はっきりとした拒絶は一見やさしくも見えたけれど、やはり残酷に違いなかった。生徒から人気の高い彼は、これまでに何度、その言葉を口にしたのだろう。
想いを断ち切られた先輩は、一言二言何かを言って、逃げるみたいに廊下を駆けて行った。こちらに来なくて助かったと思う反面、お腹のあたりが痛くなる。
結衣子は恋をしたことがない。
中学、高校と学年が上がるにつれ、友達は彼氏を作ったり、好きな人の話をすることが増えた。その姿は楽しそうで時には不安そうで、聞き役の結衣子はいつも、どこか遠い世界の出来事みたいだと思っていた。
そうして実際、告白の現場を目の当たりして、自分には到底手出しできない分野だと思い知らされた。
皆一体、何をもって相手を好きと判断するのだろう。
断られることが怖くはないのだろうか。
と、立ちすくんだままそんなことを考えていた結衣子の耳に、和泉のいつもの声がかかる。教室から出てきたのだ。
「あれ、七瀬さん。…………聞いてた?」
「……聞くつもりはありませんでした。でもすみません」
「や、謝らなくていいけど」
苦笑した和泉は、少しだけ疲れて見えた。
断る方にもエネルギーはいるのかもしれない。
だとしたら和泉は、大変な気苦労を抱えていることになる。それには同情する。
「先生は」
「ん?」
「よく告白されるんですか?」
秋の爽やかな風がやわらかく吹いて。
気づけば結衣子は、そんなことを口にしていた。
どうしてだかはわからない。
和泉と雑談するつもりなんてなかったのに。
「んー……たまぁに?」
嘘がへただ。
しょっちゅうされているらしい。
「でもほら、生徒と付き合うわけにはいかないし。そもそもそんなふうに見たこともないし」
「そんなふうに見てたら問題ですもんね」
「だよね」
和泉は穏やかに微笑って、結衣子の抱えていた金色のトロフィーを見つめた。
「優勝おめでとう。すごくよかったよ」
「……ありがとうございます」
練習の甲斐あって、結衣子のクラスは今日の合唱コンクールで優勝した。朝練昼練放課後練習は正直きつかったけれど、9クラスもある中から勝ち取った金賞はとても嬉しかった。だから、褒められたことについ口元が緩んでしまう。
和泉は両目を細めて笑った。
「これから打ち上げ?」
「はい。佐倉くんが張り切ってて」
「はは、だろうね。──あんまり遅くなりすぎないようにね」
言いながら、和泉が結衣子の頭を撫でた。
いい子いい子、と小さな子にするみたいに。
その突然の体温に。結衣子は驚き、思わず肩を跳ねさせる。教師と接触するなど、入学以来初めてかもしれなかった。
「あ……ごめん。つい」
結衣子の反応に和泉は咄嗟に手を離した。
つい、で男性教師が女生徒に触れるのは、世間的に絶対に良くはないだろう。
でも不思議と不快感はなく、結衣子の心臓は慣れない感触にただただうるさく跳ねるばかりだった。動揺を隠したいのに、けれど溢れた声は震えてしまう。
「……気をつけた方がいいですよ。保護者なんかに見られたら、大変だから」
「……こんなことしたことないよ」
はぁ、とため息をこぼされたような気がしたけれど、結衣子は冷静に聞いていることなんて出来なかった。
皆が待っている。早く教室に戻らないと。
「それじゃ私、あの、失礼します」
頭を下げて、和泉の横をすり抜ける。
その背に、彼の軽い声がかかった。
「終バス逃したら、迎えに行ってあげようか」
振り返れば、くすくすと笑う和泉の姿があった。
絶対に連絡なんてしない。
結衣子はもう一度頭を下げて和泉を振り切った。
下校時。
結衣子は、泣きじゃくる先輩を見かけた。
合唱部の女の子たちに囲まれたその先輩は、三年の部の、金賞を取ったクラスだった。
もしかしたら先輩は、金賞を取ったら告白をしようと考えていたのかもしれない。
勇気を出すきっかけとして。
ふと思い出した彼女のソロパートは、とても綺麗だった。切ないくらいに。和泉に届くようにと、祈りを込めた歌だったのかもしれない。
「結衣子ちゃん、早くー!」
友人に呼ばれて、結衣子は急いでローファーに履き替える。
もらい泣きしそうになっていた。