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傷あと

「待って」

 声に出してから、戸惑った。自分の受け持ちでもないクラスの子。なのに、なぜ自分からわざわざ関わろうとするのだろう。おれは。

 放課後の静かな廊下。

 すれ違おうとしていた少女の。掴んだ腕は細く、冷たく、涼夜の心をざわりと逆撫でした。

「何ですか」

 振り返る七瀬は、さも迷惑そうに、そしてどこか怯えたみたいに涼夜を見上げた。見られたくなかったのだろう。コンビニでの遭遇といい、彼女とはそんなことが多い。奇縁、というのだったか。

 涼夜は、七瀬の細腕を掴んだまま尋ねた。

「その傷、どうしたの」

 気付かなかったことにすればいい。あるいは女性の保健師か、担任の中島へでも伝言すればいい。涼夜が首を突っ込むことではなかったはずだ。それでも。

「転んだだけです」

 目を逸らした七瀬は、怒ったように言う。事実を隠すための常套句。そんなことで誤魔化せると思っている子供。だから涼夜はつい、冷笑してしまう。

「ふぅん」

 七瀬を拘束したまま、真っ直ぐな黒髪を見下ろした。

 突風が吹いた。開け放されたままの窓からひんやりした秋の風が吹き込み、彼女の頬を隠していた黒髪を撫で上げる。そこに現れる、赤紫に変色した肌。涼夜にはありすぎるほど覚えがあって。だからすぐにわかった。

 いたくてこわくて、かなしい記憶だ。

「冷やした?」

 こくりと頷いた七瀬に、涼夜は嘆息した。

「まだ痛いでしょ。腫れてる」

「別に。平気です」

「ほんとは何があったの」

 逃がさない、と涼夜は繰り返した。

 七瀬は、善良な生徒だ。課題は忘れないし定期テストの成績もいい。授業態度も真面目で、職員室での評判も上々。「どうしてあんな子がうちの学校なんかに」と年老いた教諭が気の毒そうに話していたのは先週のことだったか。──七瀬は、学年一位を取っていた。

 なのに、彼女の保護者は何が気に食わないというのだろう。

 涼夜は幾らか脅すように言った。

「話して。じゃないと、離してあげられないよ」

「……大きな声出しますよ」

「……」

 時勢をよくわかっている。

 しかし涼夜は、大声を出されたならまぁそれでもいいかと一瞬投げやりに考えて、けれどそれで七瀬によくない噂がついたら嫌だなとも思った。だから迷いつつ、腕を掴む手を、ほんの僅かだけ緩める。

 七瀬の細い眉が顰められた。

「本当に、転んだだけです」

「あのね、七瀬さん」

 事情を聞き出さないと。また、繰り返される。──もしくは既に常習かもしれないが──だとしたら尚更、見過ごせなかった。

 自分らしくない正義感に、涼夜は自身でも驚いていた。

「おれ、そこまで馬鹿じゃなくてさ」

 だからね、と七瀬の黒髪を見つめる。

 背の半ばまで伸ばされた彼女の髪は、いつ見ても一筋の乱れもなく綺麗だった。

 今日だって。

「これは、転んでできる傷じゃないってことくらい、わかるんだよ」

「……」

「おれが信用できないなら他の先生でもいいから。ちゃんと話し──」

 鋭い眼光に睨まれていた。

「それで母と仲が悪くなったら、先生は責任をとってくれるんですか」

「…………お母さん?」

「はい。ただの親子喧嘩です。だからもう、放っておいてください。離して」

「……親だから、許すの?」

 つい口をついて出たその疑問は。ずっと涼夜の胸に眠っていたものだったかもしれなかった。

「え?」

 七瀬が怪訝に顔を上げる。

 涼夜はダメだよ、と諭すように言った。

「許しちゃダメだ。おれが間に入ってもいい。だから」

「喧嘩くらい、他の友達だってしてます」

 七瀬の発言は正しかった。彼らは思春期。多感な時期なのだ。ぶつかることだってあるだろう。でも。

「次、手を挙げられそうになったら、おれに連絡してほしい」

「……しません」

「しなさい」

 強く言った涼夜に、七瀬は戸惑っていた。

「頼むから」

 ひとりで戦おうとしないでほしい。七瀬はまだ、子供だから。守られていい立場なのだから。

 ──彼女ね、本当は、立成りっせい志望だったらしいんですよ

 ──それがねぇ、おっこっちゃって、うちに

 年老いた教諭は、深いため息をつきながら、七瀬の個人情報を漏らしてくれた。

 立成と言えば、都内有数の進学校だった。偏差値はこの学園と比べるべくもない。

 涼夜は目を細める。

 受験の失敗。

 それが、七瀬と母親との確執なのかもしれなかった。

「いいね」

 一介の教師にできることなんて限られている。それでも同じ痛みを知っているから、涼夜は、七瀬を放ってなんておけないと思った。

「……はい」

 ようやく頷いた優等生の、細腕を離す。

「じゃ、冷やしに行こっか」

 遠慮──ではなく嫌そうな顔をした七瀬に「跡が残っちゃうよ」と囁けば、渋々ついてきてくれる。


 卒業するまで。

 それまでは、大切な生徒だから。だからだ。




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