職員室ではお静かに
少しだけ、呼吸を整える。
「失礼します」
職員室に入る時、結衣子はいつも緊張していた。
教師ばかり。それも厳しい学年主任や野球部顧問(なぜか竹刀を愛用している)などが勢揃いしている、教室とは全く違うその雰囲気が苦手で。だから結衣子は、その日も早く用事を済ませようと目的の担任に近づいた。
「先生。音楽室の施錠終わりました」
「あぁ」
三十代半ばの男性教諭──中島は、使い古した灰色の椅子を回して結衣子を向いた。鍵を受け取りつつ、僅かに眉尻を下げる。
「お疲れ。聴きに行けなくて悪かったな」
「いえ」
「調子はどうなんだ?」
「……良い方だと思いますけど」
他のクラスの歌を聴いたことがないから正確にはわからない。
二週間後に予定されている校内合唱コンクールに向けて、結衣子のクラスは放課後も熱心な練習を重ねていた。クラスのリーダー的存在の男子が、大変なやる気に満ちていたからだった。今日なんてわざわざ音楽室を借りてまで練習したのだ。だと言うのに、当の佐倉は部活があるからと片付けを学級委員に押し付けていったのだけれど。
「そうか、頑張れよ」
中島の定型的な激励に、結衣子も定型で返す。
「ありがとうございます。──失礼します」
軽く頭を下げ、これで帰宅できると安堵した。その、瞬間。結衣子の耳にゆっくりした彼の声が届く。
「えー、本当にいいの? 貰っちゃって……」
「当たり前じゃん! 先生の為に可愛くラッピングしたんだよぉ?」
「食べて食べて」
語尾にハートマークでもついていそうな、明るく可愛い同級生の声に、結衣子は思わずそちらを向いた。
中島と同じ島、二年生を受け持つ教師陣のデスクの最端。案の定そこに、女子生徒に囲われている〝彼〟がいた。今日は白衣を羽織ってはいなかった。
オーバーサイズ気味のチェックのシャツに、黒のアンダーウェア。跳ねた猫毛は柔らかく、けれど寝癖にも見えて。まるで大学生みたいな装いだった。
彼は──和泉涼夜は、女子生徒たちから受け取ったばかりと思われる透明のセロファンとピンク色のリボンでラッピングされた包みを手に、満面の笑みを浮かべていた。
「ありがとう。じゃあ遠慮なく貰うね」
また黄色い歓声が上がる。
──その。モデル顔負けの、整った容姿に。どうして彼は教師なんて職業を選んだのだろうと、結衣子は純粋に不思議に思った。
何も教師という職業を悪く捉えているわけではない。ただこの教師は、着任時のその時からひどく目立っていて、生徒を、人を惹きつける何かがあった。しかも彼は、教職そのものに固執している様子もない。(だからあんな場所で喫煙が出来たのだと思う。)だったらいっそのことその個性を活かして、例えば俳優だとかアイドルだとか、そういった仕事についた方が輝けるような気がするのに。わざわざ大変な職業を選んでいるのが、不思議だった。学年主任にも目をつけられていると溢していたことだし。
「ねね、先生。その代わりにさぁ」
「ん? 何?」
調理実習で作ったというパウンドケーキを渡した二人は、遠慮なく和泉に近寄る。結衣子にはとても真似出来ない距離だった。ましてやここは学生にとっての陣地外。職員室なのだから。
「□□□って言ってくれない?」
「え? なんで」
「言われてみたいんだもん〜」
「いいでしょ、減るもんじゃないし」
「別にいいけど……」
和泉は首を傾げながらも、快く承諾する。
「えーと、じゃあ言うよ?…………〝おいで〟?」
「「……ッ!」」
再び上がった歓声に、とうとう痺れを切らした学年主任が勢いよく立ち上がった。
「お前らいい加減にしろ!! ここは職員室だぞ!!」
和泉もろとも雷が落とされ、けれど三人とも悪びれることはなく、生徒たちに至っては、「すみませーん」と笑いながら逃げていく始末だった。
「全く、和泉先生は何を考えてんだか……」
中島の呆れたようなため息に、結衣子は、担任が和泉でなくて良かったと心から安堵した。あんなノリ、とてもではないけれどついていけない。
「あれ、七瀬さん」
と、結衣子の存在に気付いた和泉が、懲りもせず笑顔を向けてくる。
それは、あの日以来。授業以外での接触だった。
「七瀬さんも言ってほしいなら言ってあげよっか? ──おい」
「大丈夫です」
自分まで学年主任に目をつけられたらたまらない。
結衣子はきっぱりと断ると、もう一度中島にだけ会釈をして職員室を後にした。
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