花の色は
「──で、この【花】ってのが【桜】を意味してるのね。つまりここは『物思いにふけってる間に時間が過ぎてしまいました~』って訳せるわけ」
白いチョークを片手に教壇に立った女性教師──和泉澪が振り返る。解説しているのは有名な和歌だった。
(やっぱり、綺麗だな)
4月の中旬。押し出されるように進級した結衣子は、その日も黙々と授業を受けていた。
和泉の遠縁にあたるという女性、和泉澪の授業を。
前に和泉が話していたとおり、澪は4月に転任してきた。担当は古典で本来の受け持ちは1年生なのだが、今日は体調不良の教師に代わって結衣子のクラスで教鞭をとっていた。
せっかく桜が綺麗だから。
そんな理由で桜にちなんだ和歌を紹介しだした澪の解説は、とてもわかりやすかった。凜とした声は受け取りやすく、挟まれる豆知識もためになる。和泉と血縁関係にあるのも頷ける、そんな授業だった。
「はい。じゃあここまでで質問のあるひと」
教卓に両手をつき、澪がクラスを眺め渡す。
佐倉をはじめとした男子生徒が見惚れている──そんなところまで、和泉と似ていた。
(……そうだよね)
数ヶ月前、夜の街で泥酔した澪さえ綺麗だと思った結衣子には、彼らの気持ちが手に取るようにわかった。さらさらの黒髪に整った顔立ち。細身のたたずまいからは清楚な印象を受けるのに、実際に口を開く彼女は明るく豪快で。そんなギャップも生徒たちの心を掴むのに一役買っているようだった。
「質問はない? ないのね? だったら次行くよー」
ほかにも桜を詠んだ和歌はたくさんあるのだと、澪は楽しげに教科書をめくった。桜。ずっと昔の人たちにも愛された春の花。好きなのよね、と彼女は朗らかに笑っていた。
「どうだった? 澪の授業」
その日の放課後。いつものように理科準備室を訪れた結衣子に和泉が尋ねてくる。あと十分ほどで、咲喜も来る予定だった。
「聞いたよ。夏目先生の代理だったんだよね」
「はい。いろんな和歌のお話してくださって、面白かったです」
「ふーん。あいつの授業なんて脱線しまくりそうだけど……大丈夫だった?」
「………………えっ……と」
……脱線、はしていたなと思った結衣子が固まってしまい、和泉が思わず吹き出す。
「ふ、ははっ、七瀬さんって本当嘘つけないよね。心配だなあ」
言いながら、湯気の立つマグカップに口をつける。彼はブラックだったけれど、結衣子にはミルクと砂糖入りのコーヒーを出してくれていた。
「……っでも、ためになる脱線でしたよ。実は源義経は生き延びてたとか。上杉謙信は女性だったとか、あ、伊達政宗は両目見えてたとか」
「……それは本当に脱線しすぎでしょ」
無駄とまでは言わないけど。と、あきれの混じった顔で和泉が微笑む。
「澪が担当じゃなくてよかったね。なんていっても、夏目先生のほうが全然ベテランだし」
「……夏目先生もわかりやすいですけど、澪先生の授業も楽しかったですよ……」
「七瀬さんは優しすぎ」
くすくす笑った和泉が、もう一口、コーヒーを含む。
それから、ぽつりと言った。
「あーでも、やっぱり残念だなあ」
「?」
「担任。今年はおれが受け持ちたかった」
瞬きをした結衣子に、和泉が柔らかく両目を細めた。
「そうしたら、七瀬さんのこともっとサポート出来るでしょ」
「…………あ」
「今年も中島先生なんて、ずるい」
中島先生もいい先生だけどさ、と和泉はわずかに唇をとがらせた。
(私も少し……ううんだいぶ、先生が担任だったらなって思ったけど……)
実際はクラスは持ち上がりで、担任もクラスメイトもニ学年時と同じだった。進路別で分けられているから、仕方のないことでもあったけれど。
──春。押し出されるように進級して、結衣子はとうとう最高学年に達した。高校生活は、あとたったの一年しか残されていない。そしてそれは同時に、和泉と過ごせるタイムリミットも意味していた。
「受験頑張ろうね。応援する」
「……はい」
校庭に植えられた桜は満開で。でもそれはほんのひとときの風景で。
「ありがとうございます……よろしくおねがいします」
花の色はうつりかわってしまう、雨が降っている間にも。ぼうっと過ごしている間にも。──そう歌を詠んだ千年前の女性は、だから一分一秒を大切にしようと思ったのかもしれない。
「もちろん。こちらこそよろしく」
さわさわと風が吹く。
開け放した窓から舞い込んだひとひらの花弁が、結衣子のノートを彩った。
綺麗な薄紅色をしていた。
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