2月14日(2)
それから一週間と少しの時が流れた、2月14日。
──バレンタインデーの日のこと。
心なしか、朝から学校全体はざわついているような気がした。女子も男子も、どの学年の生徒も。意中の人から貰えるか、ちゃんと渡せるか。期待と不安でいっぱいになっているようだった。
結衣子だって、その一人だったけれど。
「はい、咲喜」
「わ、ありがとー! って、めちゃくちゃ可愛い。……ホワイトデー、期待しててよ」
「うん。おいしいの待ってる」
咲喜とチョコレート交換しようと約束していた結衣子は、昼食時、忘れないうちにと用意していたそれを手渡した。ピンク色のパッケージが可愛く、ほぼ一目惚れで決めたのだけれど、チョコの老舗メーカーの品だから味は心配していない。それに、咲喜も気に入ってくれたみたいで良かったと安堵する。
と、隣の席から低い声が聞こえてきた。
「……いいなー。それ、友チョコってやつ?」
「そうよ。なに? 羨ましいの?」
隣に目を向けた咲喜が、ふふんと微笑む。すると声の主──弁当をつついていた佐倉は、素直にうなずいた。
「うん、羨ましい」
「え? 佐倉くん貰ってないの?」
彼ほどの人気があれば紙袋が必要なくらい貰えると思い込んでいた結衣子は、思わず声をあげる。
「……今んとこ【野球部のマネージャー一同】からだけ。……小学校の頃はもっと貰えてたんだけどなぁ」
おかしいなぁと眉をひそめた佐倉に、咲喜が呆れた声をあげる。
「言っとくけど、足が速いだけでモテるのは小学校までだからね。特に佐倉は誰にでもいい顔するから諦められるんじゃない?」
「誰にでもいい顔なんてしてねえよ」
「じゃ、この前【ユカ】に振られた理由は?」
「…………あれは、『ほかの女の子のアドレス全部消して』って言われて。『そんなの無理』って言ったら……泣かれて。そのまま……」
「でしょ? ……まぁ、あの子にも問題があるっちゃあったと思うけどさ。それでもさ、あんたに不安にさせる要素があったからそんなこと言わせちゃったんでしょ」
「……えー、……俺、付き合ったら彼女一筋なのに」
交わされる友人二人の会話に、結衣子はなるほど、という思いを抱いた。
(誰とでも仲がいいのは、いいこと……だけど、佐倉くんの彼女が不安になる気持ちも、わかるな)
佐倉の友人が多いのは今にはじまった話ではない。小学校の頃から男女問わず人気者だったし、それは間違いなく彼の長所だ。
(でも、それが好きな相手だったら)
やっぱり【誰とでも】、特に異性と仲良くされるのは、不安になってしまうものじゃないだろうか……。たとえ一筋だと言われたとしたって。
「難しいね、付き合うって」
ぽつりと呟いた結衣子に、佐倉と咲喜の視線が集まる。
「なに、七瀬本命いんの」
「ちょっと、好きな人出来たら教えてよ。応援するから」
「い、いないいない! ただすれ違い……? みたいなのってあるんだなって」
慌てて否定した結衣子に、二人は同時に眉をよせる。
「あー、まあ。ちゃんと話せばわかるんだろうけどな」
「その話し合いが、怖くなる時はあるよね」
佐倉は交友関係が広く、咲喜には年上の彼氏がいる。だからか、二人の言葉は自然と結衣子の心に沁みた。
(……話せば、わかる)
それは、相手が大人でも?
思い出すのは、あの夜の光景。綺麗な女の人とタクシーに乗り込んだ和泉の横顔だ。
──……私、あれからずっと、もやもやしてる。
和泉に恋人がいたところで、結衣子にはなんの関係もないはずなのに。あの夜から、結衣子は理科準備室に通うことが出来なくなっていた。授業中も、廊下ですれ違う時も、前みたいに自然と話せなくて、目をそらしてしまう。
(失礼すぎるよね)
今までたくさん世話になってきたのに。
鞄に潜めたもう一つのチョコレート。感謝の気持ちを込めたそれをどうするか──結衣子はまだ、それでも、決めかねていた。
(そもそも、たくさんもらってるだろうしなぁ……先生のことだし)
そしてやってきた放課後。
部活に向かった咲喜たちを見送ったあと、塾までの空き時間を結衣子は図書室で潰していた。広げた数学のノートを眺めつつ、問題集を解きにかかる……けれど、集中できない。
結衣子はひとつため息をこぼすと、ポケットからスマホを取り出し、画面をタップした。そうして頻繁に使っているメッセージアプリを開く。
(……今日は、来てない)
──和泉からのメッセージは、あれからも何通か届いていた。
『今日はいつでも大丈夫』とか。
『こないの?』とか。
『わからないとこなくなった?』とか……。
最後に届いたのは三日前。『根を詰めすぎないように』という労いの言葉だった。結衣子がそれに『ありがとうございます』と返していて、それでおしまい。
べつに用事もないのだからそれはそれでいいはずなのだが。
(このままやりとりもなくなって、前みたいに戻っちゃうのかな)
ただの生徒と教師の関係に。
そう思えば、心は自然と沈んでいった。結衣子にとって、和泉との時間は大切なものになっていたらしい。
「……変なの」
何度目かのため息がこぼれて、けれどそもそも、結衣子と和泉はただの生徒と教師だったと思い直す。それに考えて見れば、この数ヶ月が異常に親密すぎたのだ。
送ってもらったり、看病してもらったり、個別指導してもらったり。
(そうだ。だから私、先生のこと知ったつもりになってたんだ……。)
なのにあの夜、知らない和泉の一面を見てしまって、驚いて……苦しくなった。
「……」
その苦しみの正体に気付きたくなくて、結衣子はそっと目を伏せる。考えたくないけれど、たぶん、自分は────。
「──おれ、数学も得意だよ」
不意に耳元でした静かな声に、はっとした。
振り向けばすぐ後ろから、和泉にノートを覗き込まれていた。近くて──怖い。
「ここで詰まってるの? さっきから止まってたけど」
声がでない。あんまり、急すぎた。
「…………七瀬さん?」
「…………先生も、図書室にくるんですね」
「……まぁ調べ物には便利だからね」
言いながら、和泉が椅子を引いて隣の席に座る。今日は白衣は着ておらず、グレーのゆったりしたセーターを身に纏っていた。よく似合っているけれど、恋人からの贈り物なのだろうか。思えば、ずきんと胸が痛んだ。
「で、ここがわかんないの? ここはね」
「あの、大丈夫です。自分で出来ます」
「でも」
「ほんとに大丈夫ですから」
頑なに言った結衣子に、和泉が数秒黙り込む。そして、そっと口を開いた。慎重すぎるほどのささやくような声で。
「おれ、なにかした?」
「……」
「七瀬さん、急によそよそしくなっちゃったでしょ。気に障ることしちゃったかなって、ずっと気になってて。でも、理由がわかんなくて。……知らないうちに嫌な思いさせちゃったなら謝りたいんだ」
和泉はなにも悪くない。結衣子が勝手にプライベートを知って、勝手に傷ついた。それだけだ。
「……なんでも、ありません」
「なんでもないことないでしょ。教えて」
言えるわけがない。
でも、このままでは和泉も引き下がりそうになかった。彼は少し、強引なところがある。だから結衣子は、視線を逸らしつつ、別の理由をでっちあげる。
「先生、忙しそうだし。頼り過ぎるのはやめようって、それだけです」
「そんな……気にしなくていいのに」
「それに、塾の模擬試験の結果が、よかったんです」
「……え?」
「こないだCからB判定に上がってて。だから……もうだいじょ」
「それ、ほんとに?」
とたん、あふれんばかりの子供みたいに無邪気な笑顔を向けられた。
「おめでとう」
まるで自分のことみたいに喜んでくれるその姿に、結衣子の心臓はぎゅっと締め付けられる。
「七瀬さん毎日頑張ってたもんね。ほんとうによかったね」
──あぁ。
先生はやっぱりいい人だ。
結衣子は何度目かの確信に、鼓動を高鳴らせる。ダメだと警鐘が鳴っているのに、もうごまかすことは出来なかった。好きだと、想った。
「けどさ、七瀬さん。それでおれをお払い箱にしたの?」
「……4月から塾のコマ数も増やしますし。それに、先生ほんと忙しそうだし。あ、でも、ちゃんとお礼は言おうと思ってたんですよ」
言いながら、結衣子は鞄から水色の包装紙で包まれたチョコレートを取り出した。
「ありがとうございました、ほんの気持ちです」
「……これ、もしかしてチョコ?」
うなずけば、また笑顔を向けられる。
「そんな。いいのに」
言いつつ、好物だからか、和泉は抵抗することなく受け取ってくれた。
「ありがとう。大切に食べるね」
「……今日はたくさん貰えましたか? チョコレート好きなんですよね」
「うん。みんな優しいよね。わざわざ用意してくれて。おかげで春までは持ちそう」
「よかったですね」
「ん、賞味期限は注意しないとだけど」
「お腹、壊さないように気をつけてくださいね」
結衣子は胸の痛みを堪えて笑った。
──和泉を好きだと自覚したところで、待っているのは苦しい現実だけだった。和泉はふわふわしているように見えて、線引きだけはしっかりとしている。それに、彼には。
「あー、いたいた」
放課後の図書室のまばらに席が埋まっているなかを、一人の女性が歩いてきた。さらさらの黒髪にぱっちりした瞳の美人──結衣子は思わず目を見開く。
それは、あの夜の女の人だった。
女性が和泉のそばで立ち止まると、ひそひそと話し出す。
「涼夜くん突然消えちゃうんだもん、びっくりしたぁ」
「案内は終わったでしょ。一人で帰りなよ」
「いや、案内のお礼に飲みに連れてってあげようかなと思って」
「それはお礼って言わない」
いやに冷たい和泉が珍しくて、目を丸くした結衣子を、女性が覗き込んだ。そうしてにっこりと微笑まれる。
「こんにちはー」
「こ、こんにちは」
「4月から赴任予定の和泉澪です。よろしくね。担当は古文」
「……は、はい。よろしくお願いします」
新しい先生なのか、と思うと同時。和泉と同じ名字だと気付く。
「……あの」
結衣子の疑問を察したのだろう。和泉は疲れたようにうなずいた。
「遠縁の親戚なんだ。ちょっとうるさい奴だけど……まぁ教員免許は持ってるから」
「親戚……」
はっと結衣子は瞬く。
「それでこの前、一緒だったんですか?」
「え? なんで知ってるの?」
「……塾の帰りに、たまたま見かけて」
「……もしかして、タクシーに乗ってるところ見た?」
そうです、と肯定すれば、和泉──澪の方が、恥ずかしそうに頭をかいた。
「ああ、あの日は久々に涼夜くんに会ったからさぁ。楽しくてついつい、飲み過ぎたんだよね。……えへへ」
いつもはあそこまでないのよ、と弁解するように言い募り、そそそ、と後ずさる。
「じゃー今日のところはとりあえず、他の先生誘ってみるわ。うん。交友も深めないとだし。じゃね、涼夜くん」
「迷惑かけないようにね」
「はいはーい」
ばつが悪いのか。澪は嵐のように図書室を去って行った。
(……親戚……ってことは)
残った結衣子は、ぼんやりと和泉を見上げる。
「七瀬さん。良かったら準備室行く? 塾までまだ時間あるでしょ? 教える」
「……迷惑じゃ、なかったら」
「迷惑だったら声かけないって。ほら、行こ」
立ち上がった和泉について、結衣子も図書室をあとにする。
その廊下の途中。周囲に誰もいないことを確認して、結衣子は口を開いた。
「私てっきり、先生の彼女かと思ってました」
「……え? …………澪のこと?」
「はい」
とたん、ひどく怪訝な表情で見下ろされて、結衣子は少し笑ってしまう。和泉の新しい顔を、またひとつ、知ってしまった。
「ないないあいつはない。酒癖悪いしすぐ叩いてくるし、おれには無理」
「でも、澪先生綺麗だから、すごくモテそうですよね」
「大事なのは内面でしょ」
そうか。先生は内面を重視するのか。
結衣子は心に刻むように、言葉を味わった。
「七瀬さんも見た目に騙されちゃダメだよ」
「……はい」
うなずいた結衣子に、和泉が柔らかな笑顔を返す。
「さ、どうぞ」
たどり着いた理科準備室。扉を開かれた結衣子は「お邪魔します」と一歩を踏み出した。
安心する薬品の香りに包まれて、ほっと胸をなで下ろす。
いつの間にかこの場所も、好きになっていた。
読んでくださってありがとうございました。




