2月14日(1)
「──そうそう、ここはその式を使って」
「──あ、そこは暗記しておいた方が早いよ」
「──すごい。こっちの問題全部あってた。花丸つけとくね」
笑顔で、振り向かれる。
────2月上旬、とある放課後の理科準備室で。
その日も結衣子は、和泉からの個別指導を受けていた。
(簡潔明瞭、しかも褒め上手……)
採点してもらったばかりの問題集を受け取りつつ、結衣子はその顔を仰ぎ見た。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。ほかは? 大丈夫?」
「はい。今日はもう」
言いながら、手の中の問題集を握りしめる。前ほど緊張することはなくなったけれど、それでも、二人きりという空間に慣れることはなさそうだった。
テキストを片付けつつ、結衣子はちらと和泉の横顔を盗み見る。
(……迷惑じゃないかな)
いつも通りの穏やかなその顔からは、本心を読み取ることは出来ない。
「……」
だからこぼれたのは、小さなため息。
(…………どうしてあんなこと言っちゃったんだろ)
──結衣子は、一月前の自分の発言を思い出していた。
『少しだけ、教えてもらってもいいですか』
居眠りしていた和泉を起こしたあとのこと。
【つい】授業での不明点を尋ねてしまった結衣子に、和泉はけれどひどく丁寧に対応してくれた。嫌がることも、面倒がることもなく。そうしてその指導があまりにも的確でわかりやすすぎて。以来結衣子は和泉の誘いに乗って週に一二度、こうして理科準備室を訪れるようになっていた。
おかげでこの頃は苦労していた化学式もつっかえることなく解け始めている。
(でも)
そのことには感謝しつつも、結衣子はやはり頼りすぎ……もとい迷惑になっているのではないかと、少しだけ不安になりかけていた。
(……先生は、やさしすぎる)
受け持ちでもない自分なんかにも、こんなに親身になってくれて。
(お母さんとのこと知られちゃったから、かもしれないけど──)
それにしたって、和泉は親切すぎた。
入学当初は、その適当にも思える話し方や、やんちゃな生徒たちとも友達のように接する姿に苦手意識を抱いてしまっていたけれど、今は違う。ここ数ヶ月、様々な偶然が重なり関わるようになって、和泉を深く知って、そのイメージはすっかり覆っていた。
結論。
──先生は、いい人だ。
そう、結衣子は確信していた。彼の纏う穏やかな空気や、ほどよく保ってくれる距離感が心地よくて、ついつい頼ってしまうほどに。
そして同時に結衣子は、和泉が生徒たちから慕われる理由も理解した。そう、和泉はやさしいのだ。誰にでも。
「和泉ー! いるー?」
「ちょっと相談があんだけど」
と──結衣子の思考を霧散するかのように、理科準備室の扉が勢いよく開かれた。
現れたのは二人の男子生徒。どちらも和泉の受け持つクラスの生徒で、生徒会のメンバーでもあった。結衣子は話したことはないけれど、朝礼や全体集会で壇上に立つ姿を何度か見かけたことがあったから、顔だけはなんとなく覚えていた。
「ん? どうしたの?」
「あ、いたいた。よかったぁ」
「あのさ、生徒会の先輩たちに寄せ書き作ろーってなってんだけど、先生たちからもコメント集めたくて」
「協力してくんね?」
矢継ぎ早に用件を述べる男子たちに、和泉はあっさりとうなずく。
「うん、いいよ」
「さんきゅ。……でさ、出来たら追い出し会も盛大にしたいんだよ。ぱーっと花火とか使って、食べ物持ち込んで」
「んー花火かぁ……」
「……やっぱだめ?」
「和泉の力でなんとかしてくれない?」
「おれにそんな権力あると思う?」
そう苦笑する和泉の肩を、男子のうちの一人が「そこをなんとか」と揉みにかかる。
(距離、近い……)
その仲の良さに結衣子が目を丸くしていると──
「って、あれ? 七瀬さん?」
そこでようやく、彼らは片隅にいた結衣子の存在に気が付いたようだった。
二人から同時に、「なぜここに?」といわんばかりの不思議そうな瞳を向けられて、結衣子は思わず肩をこわばらせる。同級生とはいっても、話したこともない他クラスの生徒は、他人も同然だった。
「あ、あの、わからないところがあったから、教えてもらってて」
「えー、和泉なんかに? 七瀬さん頭いんだからほかの先生のがいいって」
「そうだよ。こんな男といたらのんびり菌が移るよ」
「……ちょっと二人とも、さすがに酷くない?」
和泉が傷ついたとばかりに哀しげに言って、男子たちが「冗談だって」とその肩を叩く。
そんな様子を、結衣子はまるで壁一枚隔てた場所から見ているような気分になった。
和泉は、たくさんの生徒から慕われている。男女関係なく。
(それは、そうだよね……)
教え方はうまいし、話しやすいし、相談には乗ってくれるし……。
和泉の善意に触れた結衣子には、みんなの気持ちがよくわかった。結衣子だって、そんな【和泉を慕う大勢の生徒】のうちの一人に過ぎないのだということも。
「先生」
じゃれ合う和泉たちを邪魔してしまうのは気が引けたけれど……結衣子はそっと声をかける。
「すみません。お先に失礼します」
「あぁ、今日も塾なんだよね、気をつけて」
「はい、ありがとうございました」
和泉に頭を下げて、準備室を出る。
「ばいばーい、七瀬さん」
「今度は俺たちとも勉強しよ!」
「あ、うん……」
曖昧に返事をして、廊下に出ても、男子たちと和泉の楽しそうな会話は聞こえてきて。
結衣子はそれを少しだけ、羨ましく思った。自分もいつかは、あんなふうに和泉と打ち解けられる日がくるのだろうか。今は、想像もつかないけれど。
それから、数時間後のこと。
「……B、判定?」
「ああ、よかったな」
塾の講師に渡された模擬試験の結果に、結衣子は顔をほころばせていた。ずっとCとDの間を彷徨っていた志望大学の予測判定が、ワンランクアップしていたのだ。
原因は疑うべくもない。和泉の、おかげだ──。
(先生にもお礼言わなくちゃ)
結衣子はその日の授業を揚々と終えて、帰路についた。
バスを待つ間、母にこの結果を伝えようかとスマホを手に取ったが、今夜も残業だと思い出してメッセージを打つ手を止める。仕事の邪魔をしたくなかった、のは建前で、本音は、無反応が怖かったからだ。
(でも、先生なら)
思い、結衣子は縋るように和泉へのメッセージを作りにかかった。
『おめでとう』とか、『よかったね』とか。きっと和泉なら、なにかしらのリアクションを返してくれるに違いなかった。
またお礼しなくちゃと、緩む口元をそのままに、メッセージを打ち込む。
時刻は、午後十時を過ぎていた。
人通りはまだまだ多く、周囲は結衣子と同じだろう塾帰りの学生や、仕事終わりの大人たちであふれていた。
「ちょっと、大丈夫……?」
「だいじょーぶだいじょおおぶ! まだまだ飲めますよう」
(すごい、酔っ払ってる……)
なかには、そんな風に泥酔している人もいて。
結衣子はメッセージを打つ手を止めて、自分もいつか彼女みたいに酔ったりするんだろうか、と未来に思いを馳せた。──と。
「……っ!」
──そこにいたのは。
「っていうか涼夜くんはどーしてそんな涼しげなの? ……あたしより飲んでたくせに」
「おれは自分の限界知ってるから。ほら、タクシー乗るよ」
「はぁい」
綺麗な女の人だった。
さらさらの黒髪に、真っ白なコートが映えて。でも、その足下はおぼつかなくて。だからだろう、そばで和泉がその肩を支えていた。放課後の男子たちと比べるべくもない、親密さ。
「…………」
歩道にはほかにもたくさんの人が歩いて、話をしていて、車の騒音だって絶えないのに。どうしてか結衣子の耳は、和泉とその女性の会話だけを正確に拾っていた。──胸がいやにきしむ。
「よっし、もう一件行きますよおおおおー!」
「行きません。ほら、帰るよ。ちゃんと乗って」
「ええええ、じゃあ涼夜ちで飲むぅ」
「わかったから、乗って」
和泉のそんな困ったような顔は、初めて見た。
プライベートの顔だ。
結衣子はスマホを握っていた手を、そっと下ろした。
二人を乗せたタクシーが、ネオンのなかを走り去っていく。
恋人……だろうか。
立ち尽くした結衣子はどくどくと鳴る心臓をおさえて、冷たい空気を吸い込んだ。
(……そう、だよね)
和泉は大人で、仕事だってしていて、なによりあんなに【いい人】なのだから。普通に考えていない方が不思議なくらいなのだ。
なのにどうして自分は、こんなにも動揺しているのだろう。
邪魔になってはいけないと──邪魔にすらならないかもしれないけれど──結衣子はメッセージを送るのをやめて、スマホをポケットにしまう。
ここ数ヶ月で和泉を知ったような気になっていたけれど、実際はなんにも知らなかったのだと、思い知らされたような気分だった。




