小さな兆し
風邪が治った結衣子のお話です。
「じゃあ、今日はここまで」
授業の終わりを告げるその鐘が響いて、教卓に手をついていた和泉が教科書を閉じた。
板書をとるふりをしつつ、結衣子は、その端正な顔を盗み見る。
もちろん、目が合う、なんてことはない。
「起立、礼。──ありがとうございました」「ありがとうございました」
日直の号令とともに結衣子も立ち上がり、礼をする。
教壇を降りた和泉は振り返ることなく、ゆるりとした足取りで教室を出て行った。
────【あの夜】からちょうど、一週間目のことだった。
「どしたの結衣子……食欲ない? まだ体調悪い?」
「え? ……ううん、違うの。さっきの小テストで気になるとこ思い出しちゃって」
くっつけた机、真向かいから声をかけられ、結衣子は慌てて首を振った。
いっしょに昼食をとるのは、このクラスになってから出来た友人、間宮咲喜だった。
明るくて活発な咲喜は、佐倉と並ぶクラスのムードメーカーだった。
いつもふざけていて、運動神経がよくて、でも勉強がとても苦手で、よく結衣子に泣きついてくる。
大切な友人だった。
「なんだ。結衣子なら大丈夫だって」
言った咲喜は、とたん笑顔になって弁当をつつく。
おいしそうな焼き肉弁当だった。
「だいたい、ちょっと間違ったくらいどってことないよ。和泉のテストだし」
「うん。だといいな」
うなずきつつ、結衣子もおにぎりのテープを切った。
咲喜の言う通り、多少テストの結果が悪くても、和泉が声を荒げることはない。
むしろ「もう少しがんばろっか」とか「ここわかりにくかった?」と声をかけられて、喜ぶ女子もいるくらいだった。
そう。和泉はあまり怒らない。気にしない。
親切ではあっても、深入りはしない。
だから。
だから【あの夜】、結衣子は彼に助けをもとめてしまった。
端的に言って、なかったことにしたい夜だった。
──いつでも頼ってくれていいよ
熱があったくせに、あの夜の、やさしい和泉の声や顔はしっかりと記憶に残っていて。
結衣子は思い出すたびに、恥ずかしくてたまらなくなっていた。
(いくらお腹が空いてたからって、なんで和泉先生に……)
私の馬鹿。
和泉が帰った翌日。
熱も引き、平常にもどった結衣子は、ことのすべてを思い出して───
(ここに……先生が……いた?)
『……っ!』
ひとりリビングで倒れ込んだ。
文字通りに。体中から力が抜けたからだ。
掃除も満足に出来ておらず、荒れに荒れた部屋に招きいれたのだ。
しかもお粥まで作ってもらって。
おそるおそる覗いたキッチンは、流しにため込んでいた湯飲みや食器まできちんと洗われていた。
あぁ……。
「ほんとにどしたの、結衣子」
「……ううん。なんでもない」
気を抜けばすぐに【あの夜】を思い出してしまい、結衣子はそのたびに顔色を悪くしていた。
咲喜が心配してくるのも、無理はないことだった。
「もー、そんな小食だからダメなんだよ。肉食べな、肉」
言いながら咲喜が、自分の弁当を差し出してくる。
「いいよ、咲喜のがなくなるよ」
「いいからいいから。あたしには菓子パンもあるからさ」
にっと笑った咲喜の好意に甘え、結衣子は焼き肉をひときれわけてもらった。
甘辛くて、とてもおいしい。
「ありがとう。……と、そうだ」
休んでいた間のノートを借りていた結衣子は、忘れないうちに、と咲喜へ返す。
「ノートありがとう、見やすかった」
「どういたしまして。ま、結衣子の綺麗なノートには負けるけどね」
「そんなことないよ、要点が赤丸してあって、すごくわかりやすかった」
結衣子は笑って、咲喜のさっぱりしたノートを褒めた。
しかし咲喜は謙遜して首を横に振ってくる。
「それは結衣子の真似をしてるだけ。そもそも、最初にノート借りたのはあたしの方なんだからさ」
それは数ヶ月前──二年にあがって最初の定期テスト期間のことだった。
その直前、咲喜も風邪で数日学校を休んでしまい、結衣子がノートを貸したことがきっかけで、ふたりはこうして話すようになったのだ。
あのとき、「お節介かな」と不安になりつつも、ノートを貸そうかと声をかけてよかったと、結衣子は顔をほころばせる。
あのときの勇気のおかげで、こんなに素敵な友人を得ることが出来たのだから。
「それじゃ、また明日ね」
「うん、部活頑張ってね」
「おう」
握りこぶしを作った咲喜がバレーボール部の仲間と体育館へ行くのを見送って、結衣子は小さくためいきをついた。
(……賞味期限がきちゃう)
ここ最近、毎日隠し持ってきている紙袋を取り出し、うなる。
和泉への礼のお菓子だった。
──【あの夜】。結局和泉はお金を受け取ってはくれず、翌々日、登校した際にも授業で一瞬目を合わせ、(結衣子の見間違いでなければ)微笑んでくれただけで。
二人きりで話してもいないし、礼もきちんと言えてはいなかった。
授業終わりにつかまえることも考えたけれど、以前のように佐倉に聞かれたり、和泉と仲の良い女子たちに変な勘ぐりをされるのはまずい。
昼休みは会議やほかの生徒といることが多いし、かといって放課後もどこにいるかなんてわからない。
そして、そうこう悩んでいるうちに月曜日が過ぎ、火曜日が過ぎ、とうとう一週間──今日になってしまったというわけだった。
これ以上日が開けば、お礼ではなくなってしまう。
(よし)
結衣子は意を決して鬼門とも言えるメッセージアプリを開いた。とたん『おやすみ』という和泉からのメッセージが目に入って、また羞恥がこみ上げてくる。
けれど。
『七瀬です。すこしお時間いただけませんでしょうか』
震える手で、文字を打った。
すぐに既読がついて、返信がくる。
『いいよ』と。可愛らしいスタンプつきだった。
「文章かたくない?」
くすくすと笑った和泉が、理科準備室のデスクチェアに座ったまま振り返る。
白衣が今日も似合っていた。
「社会人かと思った」
「……すみません、急に」
「べつにいいけど。どうしたの?」
「先日はありがとうございました」
もう一息に言ってしまおうと、結衣子は言いながら紙袋を差し出した。
「なに? これ」
「お礼です。あの……すごく迷惑かけちゃったから」
「あぁ……べつによかったのに──って言っても、七瀬さんは気にしちゃうか……」
和泉は困ったように笑いながらも、紙袋を受け取ってくれた。
「ありがと。ここのお菓子、すごく好きなんだ」
そうして【あの夜】みたいに穏やかに微笑んでくる。
「元気になってよかった、安心した」
その。向けられた笑顔に。結衣子の心臓が知らず早鐘を打つ。
座ったままの和泉を見下ろす形になっていて、いつもと見え方が違うからだろうか。ともかく、見られていることが恥ずかしかった。
「……はい、あの。本当にありがとうございました」
言いながら、ゆっくりと後ずさる。
「失礼します」
この落ち着かない気持ちはなんだろう。
結衣子は逃げるようにして準備室をあとにした。
でも。それでもまだ、鼓動はうるさく鳴り響いていた。
学校を飛び出したあとですら。うるさく鳴り響いていた。
読んでくださってありがとうございます。




