紫煙とチョコレート
喫煙シーンが出てきますが、推奨するものではありません。
「校内禁煙ですよ」
いくら学級委員とはいえ。
教師に注意するはめになるとは、夢にも思わなかった。理科準備室の狭い空間。夕暮れ。吹奏楽部がパート練習をしている音と、野球部の掛け声、バットがボールを打つ。回れ回れと、知った声が叫んでいる。──健全なはずの放課後。
結衣子は、勇気を振り絞って白衣姿のその教師に声をかけた。
窓辺の棚に行儀悪く腰掛け、外を眺めていたその教師が、ゆっくりと振り向く。色素の薄い柔らかな猫毛。垂れた目尻は緩く、真っ黒な眼球は何者も映してはいないかの様だった。教師は口元を覆うようにタバコを挟んでいた手を、のんびりと下ろす。
「ごめんごめん。我慢出来なくて」
紫煙を吐き出しながら、缶コーヒーの中に半分残った吸い殻を落とした。
「もうしないから、内緒にしててくれないかなぁ」
若いことと、課題が少ないこと、怒らないこと。そんな幾つかの理由が合わさって、教師は生徒たちからひどく慕われていた。──舐められている、とも言い換えられるのだろうけれど。ともかく彼は、その甘い顔も相まって、特に女生徒からの人気が高かった。先生先生と。彼の白衣に絡み付く同級生の姿は、結衣子も何度も目にしたことがあった。結衣子自身には、教師の良さが少しもわからなかったけれど。
「ダメ? 校長先生に言う?」
どちらでも構わないと、教師は思っているみたいだった。無頓着、無関心。だから彼は生徒に怒ったりしない。出来た分だけ褒めて、聞かれたことにだけ答える。ふわふわとして掴みどころのない、煙の様な人。稀に耳にしてしまう女生徒との不埒な噂も、本当かもしれない。
だとしたら、進路の妨げになる。関わるべきじゃない。
「今回だけ、見逃します」
でも次はありませんと、結衣子は集めてきたクラス分のノートを作業机に置いた。
「ありがとう。無職になっちゃうところだった」
くすくすと笑った教師は、棚から降りると、結衣子に近づいてきた。タバコが香って、教師を見上げる。
「職員室に戻る前に、消臭した方がいいですよ」
「はは」
教師は目を細めて微笑う。
「優しいんだねぇ七瀬さん。ノートも、佐倉君の代理で持ってきてくれたんでしょ? ありがとう」
言って、デスクの上にあった未開封の板チョコを結衣子に差し出した。
「いつも一生懸命授業も聞いてくれてるよね。あれ、教師側としてはめちゃくちゃ嬉しいんだよ。だからこれは、えーと、お駄賃」
「賄賂は受け取れません」
「……ええ。お駄賃だってば」
「いりません」
「真面目だなぁ」
「先生が不真面目過ぎるんです。見つけたのが北島先生だったら、本当に無職になってましたよ」
「あぁ。おれ、目つけられてるもんねぇ」
またどうでもよさそうに笑って、教師はノートの山の一番上を手に取り、ぱらぱらとめくった。その穏やかな顔。
「見つかったのが七瀬さんでよかったよ、ほんと」
首の皮一枚。と冗談めかした教師と視線がかち合う。
校舎も廊下もグラウンドも。全てが橙に染まる放課後。結衣子は、もうこんなことがありません様にと祈りながら、狭い準備室を後にした。
読んで下さってありがとうございます。
少しずつ追加できたらいいなと思っています。