62 【魔王side】そのころの魔王城⑥
がしゃん!
シシオウは実験室のようになっている部屋に置いてあった培養槽を打ち破った。
培養液らしき淡い空色の透明な液体がばしゃー……と、床に広がるが、そんな物には目もくれず、その中でまどろんでいた生き物を引きずり出す。
「っ……ごほっ、げほっ……こほっ」
べしゃり、と突然魔界の外気に引きずり出され、床へ投げ捨てられた天使がむせる。
「え……あ? シシ、オウ……ですか? ……ごほッ、ごほっ」
床にへたり込んだままの天使が目を擦りながら自分を見上げている。
「ふむ、何じゃ? 記憶が有るのか? ……なるほど、あの状況で転生魔法を使えたのは驚きじゃが、どうやら不完全だったようじゃな、ルシーファ」
シシオウは、足元でうずくまる小さな天使に向かって、つい先日、魔王の手によって殺されたはずの堕天使の名を呼びかける。
この培養槽は以前、ルシーファがカイトシェイドと同じ『分身体』を創り出そうとして自身の魔導クローンの培養をはじめたものの、イマイチ成長が遅く使えないと放置していたものである。
だが、先だってルシーファが魔王の手により殺された際に、記憶と知識の一部をこのクローン体に転生させることに成功していたのだ。
シシオウの気配を感知する能力は並外れて高い。
何故かこの部屋からは、死んだはずの堕天使の気配が漂い、しかもそれが、ほんの少しづつ成長している……
シシオウが不審に感じたのも無理はない。
……とはいえ、引きずり出した天使のレベルは0。
漆黒だったはずの翼はすっかり真っ白に脱色され、その体つきも幼い子供のもの。
ルシーファと呼ばれた天使は、不安気に周りを見回し、しきりに目を細めている。
シシオウは、ふと、あの堕天使はメガネをかけていたから、この天使も視力が弱いのだろう、と考えた。
室内に置き去りにされていた予備らしきメガネをかけさせてみたが、ときおり、苦し気にせき込む以外は、まだ意識がハッキリしないようだ。
転生は魔法の中でも習得難易度が最上級クラス。
一言二言会話を投げかけても「カイトシェイドに謝らないと」とか「ごめんなさい、これから……やります」とか「誰々様のなんたらかんたら」とか訳の分からないことを呟く程度でイマイチ会話が成立しない。
最初にシシオウの名を呼べた事が奇跡だったのだろうか?
「ふむ……ワシはとある御方の指示で、西の魔王・サタナスの部下から使えそうな輩を引き抜く計画だったんじゃが……」
「あぐぅっ……!」
ぐいっと乱暴に首を持ち上げられたルシーファが苦痛に眉を歪ませる。
一時は己と互角の戦いを繰り広げた堕天使とは思えない脆弱さとひ弱さだ。
「やれやれ。ここまで弱体化してしまっては意味がないではないか……」
「……ごほっ、ごほっ……」
しかも、レベルが低い純粋な天使の身体は、瘴気交じりの魔界の空気に肺を焼かれているらしく、むせ返る咳に、僅かに血が混ざっている。
これでは、このままここに放置しただけで、遠からずこの天使は息絶える。
この男の魔力量とその制御操作能力は中々のものだったのだが、この状態では堕天させるまで生命力が持つとも思えない。
堕天使に戻るかと思い、試しに真っ白な片翼を握り潰してみたら、最初こそ悲鳴を上げてもがいたものの、すぐにぐったりと無反応になってしまった。
「無駄足じゃったか」
シシオウはつまらなそうに天使の身体を投げ捨てた。
ヴゥン……!
だが、床か壁にぶつかって、ぐしゃりと肉が潰れる音を想定していた耳に、不可解な魔導術式の発動音が響く。
「ん?」
見れば、投げ捨てたはずの天使の身体が消えている。
「……転移トラップか」
転移罠とは、今の場所から何処か別の所に強制的に瞬間移動させられてしまう罠のことだ。
一度発動してしまったら、自動消滅するので、本来は消えた仲間を追うことも出来ない悪質なものだ。
まぁ、あの惨状ではどこに移動したところで、死という結果は同じだろう。
「となると、やはり狙いはあの小粒にしか見えなかった男……か」
シシオウはぺろり、と己の尖った牙を舐めた。