1 怪異のはじまり
風太が前を通りすぎたコーヒーラウンジは、表通りのゆるいカーブに沿った横に長い造りで、すべての席から外の景色が見えるようになっていた。
その入口の左側にキャッシャーを兼ねた売店があり、ショーケースの中に美味しそうなケーキや焼きたてのパンが並んでいる。
客足が途切れたためか、スタッフらしい若い男女が二人、ショーケースの前に立って話していた。タキシードを着た男とホールサービスの制服を着た女だ。男は二十代半ばぐらい、女は二十歳そこそこだろうか。
タキシードの男は髪をきれいに撫で付けており、どちらかといえばイケメンだが、口元にやや締まりがない。
女は髪をいわゆる『おだんご』にしていて、そのせいなのか、男とは逆にキリッとした顔に見える。
「おれがルームサービスの夜勤をしていた頃の話だけどさ」
「えー、また、市川キャプテンお得意の怖い話ですか」
女がちょっとイヤそうな顔をすると、市川はニヤリとした。
「まあまあ、そんなに怖い話じゃないから」
疑わしそうな目つきの女にかまわず、市川は続けた。
「相原くんは、ウチのホテルの部屋番号に欠番があるのを知ってるかい」
「はい。入社研修の時に教わりました。42番でしょう。言葉の響きが縁起悪いって、気にする人がいるから」
「そうだね。例えば、九階だと941号室の隣は943号室になってる」
「ええ」
市川は、ちょっと芝居がかって、遠くを見るような目つきをした。
「あれは、ちょうど今日みたいに、妙に蒸し暑い日だったな。深夜、ルームサービスの受付で電話番をしていると、客室直通の電話が鳴った。直通電話には部屋番号が表示される。無意識に番号をメモして、オーダーを受けた。ボソボソした声で、ちょっと聞き取りにくい。電話を切った後、メモを見ると942と書いている。てっきり番号を見間違えたか、書き損じたかと思ってフロントに問い合わせた。ちょうど同期の広崎がいて、当日の宿泊者名簿を調べてくれたが、941号にも943号にも宿泊者はいないという。居眠りでもしたんじゃないかと笑われたけど、そんなはずはない。どうしようかと思っていると、また、直通電話が鳴った。やはり番号は942と出ている」
市川は、目を見開いて聞いている相原の反応に、またニヤリとした。
「迷ったが、電話は鳴り止まない。思い切って受話器を取った。さっきと同じ声で、ボソボソと催促された。しかたがない。覚悟を決めて厨房(=調理場)にオーダーを通し、出来上がった料理を持って九階に上がった。エレベーターを降りて、部屋の番号を確認しながら廊下を慎重に進んだ。何度見ても941号室の隣は943号室で、間には壁しかない。あきらめて帰ろうとした、その時だ。後ろから、誰かの声が」
市川は言葉を切り、ムンクの『叫び』のようなポーズをした。
「ど、どうなったんですか?」
我慢しきれずに聞いてきた相原に、市川はしゃがれたような声色で応えた。
「でー、んー、わー、がー」
また言葉を切って、相原の反応をうかがい、少し早口に続けた。
「壊れてました、すみませんって、ファシリティ(=施設管理係)のおっちゃんが追いかけて来てたんだ」
相原はみるみる真っ赤になって「もうっ」と市川をぶつマネをした。
「へへへ。番号表示の故障だったのさ」
「だまされちゃった。でも、ちょっと面白かったです。加山マネージャーにも話してあげたらどうですか」
「いやあ、あの人、鬼瓦みたいな顔して、案外臆病だからなあ」
その時、店の奥から、「おい、私語をするな」という声がした。
二人に近づいて来たのは、三十代前半ぐらいの、やはりタキシードを着た男だった。
あっさりした顔立ちの市川と対照的に、眉と髭剃り跡が濃く、目がギョロリとしている。
わざとらしく、市川が腕時計を見た。
「加山マネージャー、そろそろ十時ですね」
加山と呼ばれた男も自分の時計を確かめた。
「ああ、そうだな。ラストオーダーを聞いて、閉めるとするか」
「お願いします」
加山は店内に戻りかけ、ちょっと振り返った。
「相原くんはそろそろ上がりの時間だろう。少し早いけど、もういいよ。気をつけて帰りなさい」
「ありかとうございます」
うれしそうに笑って帰る相原を見届けて、加山は表情を引き締めて市川の方を向いた。
「市川、もし、このあと新規のゲストが来られたら、閉店時間の説明をして丁重にお断りしてくれ。いいか、丁重にだぞ」
「イエッサー」
笑顔で敬礼のマネをする市川を軽く睨んで、加山は店内に戻った。
閉店間際なので、ゲストは多くない。三十ほどあるテーブルのうち、入口に近い数卓にまばらに何名か座っているだけだ。
この時間になるとスタッフの人数も少ないため、目が行き届くよう、なるべく手前側にゲストを誘導しているのだ。
加山は店内に残っているすべてのゲストに、ラストオーダーを聞いて回った。特に食べ物のオーダーはなく、飲み物の追加のみだった。
細長い店の中央には常設のサラダバーがあり、その前後に厨房への出入口がある。加山は手前側の入口から中に入った。
厨房にオーダーストップを伝え、ホールに戻った加山はギクリとした。
先ほどまでゲストがいなかったはずの一番奥のテーブルに、誰か座っている。
(新規のゲストじゃないか。市川め、どうして入口で止めなかったんだ。それとも、サボって、どこかに行ってるのか)
シェフにはすでにオーダーストップを告げてしまっている。
(市川のヤツ、若い女の子とチャラチャラしてばかりで、まったくしょうがないな)
加山は断るため、窓側を向いているゲストに近づいた。
ジーンズに白っぽいTシャツ、頭には野球帽をかぶっている。若い男、というより少年に近い。
(こんな遅い時間に、高校生だろうか)
「お客様、恐れ入りますが、閉店時間となりました」
こちらをふり向いた若者は、異様に青白い顔をしていた。何もしゃべらず、無表情にこちらをじっと見ている。
(うす気味悪いな。しかし、このままでは店が閉められない)
「まことに申し訳ございませんが、またの機会にご来店ください」
一旦深々と頭を下げ、再び顔を上げた瞬間、加山は悲鳴をあげた。