4, 笑顔の練習と「暖かさ」
「はい、さん、に、いち」
「あーいーうーえーおー」
「はいもう一度」
「あーいーうーえーおー」
「…何をしていらっしゃるのですか…?」
声をかけるのを躊躇った俺は悪くないだろう。
メイド長とクレイスが向かい合って、クレイスは何故か呪文のように母音を唱えている。
異様な光景すぎる。
「殿下。クレイス様の笑顔の練習です」
「こ、これがですか」
「ええ。まずは死んでいる表情筋を生き返らせるところからです。クレイス様、もう一度」
「あーいーうーえーおー」
もう何も言うまい。メイド長がそう判断したのだ、彼女に従うべきだろう。
一瞬部屋を出ようとして、慌てて戻った。
クレイスを呼びに来たのを忘れていた。
「クレイス様、仕立て屋が来ています。ドレスの最終調整をするそうです」
「わーかー…り、ました」
不覚にも可愛く見えた。
何故俺がクレイスを迎えに行ったかと言えば、ドレスと合う礼服を見立てるためだ。流石に緑色を着こなす自信が無かったので、仕立て済みの服から選ばせて欲しいと事前に店に頼んでおいた。
俺は俺の服を、クレイスはクレイスの服をとするのが普通だろうが、生憎此方は普通の姫ではない。
正式なドレスの試着も初めてとのことで、俺も立ち会うことになってしまった。
誕生日パーティーの時に着ていたではないかとナディアに抗議したが、あれはクレイスの母親が着ていたドレスを、ナディアが軽く手直ししただけのものだったらしい。
だがいくら婚約者とはいえ、未婚の女性の下着姿を見るなんて、少なくとも俺は無理だった。
そのため俺は壁を向き、その後ろでクレイスが人形のように着せ替えられるというシュールな図が出来上がってしまった。
だがこれも、終わりまで我慢していればいいだけだ。
そう思っていたが、甘かった。
「クレイス様は本当に華奢ですわね。コルセットをいくら締めても大丈夫だなんて…」
「それは大丈夫ではない!!クレイス様!!きちんと適切な締め具合を指示してください!!」
「…は、い…」
「きゃああっ、クレイス様!?今緩めますので、お気を確かに…!」
というところから始まり。
「クレイス様、お袖を通していただきたいのですが」
「どうすればよろしいのでしょう」
「ル、ルーン殿下!申し訳ございませんが、私共では姫様のお体に触れられないのです…!」
「わかった!クレイス様、お手をお貸しください、私は極力見ませんので…!」
「はい」
となっていき。
「クレイス様、裾を調整いたしますので、ドレスを持って、手を腰につけてください」
「はい」
「クレイス様、もうちょっと上です」
「…すみません、重くてこれ以上…」
「殿下ぁ!」
「わかった!!!」
と、結局着付けのほとんどを手伝わされてしまった。
極力見なかったが全く見えなかったわけではない。
しっかりと彼女のそれなりな胸元が目に焼き付いてしまった。それだけではない。顔と同じく、白く透明な肌。暑さでほんのりと色づいた指先。
何を考えているんだ俺は!と心の中で自分を殴りつけた。現実には頬を抓るに留めたが。
そんなこんなでげっそりしていたが、着終わったクレイスの姿を見ると、今までの苦労が報われた気分になった。優しく、どこか清涼な雰囲気の鮮やかな緑に、金の刺繍がよく映えている。
服の趣味に疎い俺でも、美しいと思えるドレスだった。
成る程、流石は王家に引っ張りだこの店長なだけはある。
クレイスのためだけにあるような、彼女が着るが故に光るドレスだ。
「どうでしょう」
「とても良くお似合いです。クレイス様」
「そうですか」
クレイスもこのドレスには何か思うものがあったらしい。
じっと鏡を見て、目をパチパチとさせていた。
彼女に対し、俺の服はアッサリと決まった。
ユイルの方からこれにしろというお達しがご丁寧に届いていた為だ。
クレイスの隣に立っても遜色ない、しかし控えめな彩度の低い緑の生地に、お揃いの金の刺繍。
これならまあ着られないこともないかと渋々承諾すると、さっさと試着して裾をあげて終わった。
クレイスはこんなに早く終わるものなのですかと驚いていたが、男の礼服なんてこんなものだ。
特に今回は決まった装飾だったので、ユイルに頼んでおけば間違いない。
そういうわけで後は任せ、クレイスを再び笑顔の練習部屋へと送っていくだけとなった。
「しかしあんな練習で、本当に笑顔ができるものでしょうか」
「わかりません。ですが、表情筋を自由に動かせないと、王家の者としては未熟だと、彼女に教わりました。わたくしも、そうだとおもいます」
「メイド長のメリル婦人は、厳しいですが無茶を言う人ではありません。取り敢えず、言われる通りにやって見ていてもいいかもしれないですね…」
「はい。精進いたします」
チラリと顔を見ると、気合の入った無表情だった。
これは先が長そうだと、内心で苦笑した。
++++++++++
いよいよ明日がお披露目の日となった。
準備の為に、皆が忙しくしている。
俺も下見や当日の段取り、兵の配置の確認などやることは山積みだ。
一つずつ、丁寧に片付けていきつつも、やはり気になってしょうがないことがある。
クレイスの笑顔問題だ。
ドレスの試着の日から数日経ったが、一向に彼女の表情は動く気配を見せない。
正直甘く見ていた。婚約の儀の時、あまり良いとは言えないが苦痛の表情はできていたので。
練習すれば笑顔くらいなんてことないだろうと。彼女を過信していたとも言える。
ナディアの「感情がない」と言う言葉を軽く捉えていたのかもしれない。
祝い事のお披露目の時は、国民にめでたいことだ、嬉しいことだと印象付けるのが第一となる。
その為に、二人で並んで笑って手を振るという、それだけのことがかなり重要になる。
誰だってそうだろう。笑っていない姫を見て、めでたいなんて思えるわけがない。
早く彼女の元に行きたい。
だが、やらなくてはならない事が俺にもある。
一つずつ、間違いのないよう、丁寧に。
そうして城に戻れたのは、もう夕食を済ませた後だった。
「ナディア、クレイス様は」
「ルーン殿下!お帰りになられたのですね」
「遅くなってすまない。彼女はどちらに」
「お部屋でずっと、落ち着かない様子です…」
聞けば、クレイスはお披露目前の会食を欠席したらしい。
表向きの理由は俺がいないのに出るわけにはいかないとのことだったが、
本当の理由は違うと、彼女も俺も、ナディアもよくわかっている。
ナディアに簡単に食事を作ってきてもらうように頼み、彼女の部屋の前に立つ。
ノックをする前に、戸が開いた。
そこには、覇気のない無表情のクレイスが、ぼんやりと立っていた。
これは尋常ではないと即座に理解し、部屋の中に入る。
ベッドと、簡単な机と、本棚、衣装ケース。それだけの部屋に。
「…大丈夫ですか」
「…大丈夫とは言えない状況です。笑わなければと思えば思うほど、体が冷たくなっていくのです。胸が締め付けられているようになって、顔が動かなくなってしまうのです。これは、何故ですか。わたくしは何故、笑えないのでしょう」
そう言って俯き、胸元で両手を握り締めるクレイスの肩を、そっと抱いた。すると彼女が小刻みに震えていた事がわかり、その痛ましさに顔をしかめる。
彼女の中の感情を、そっと掬い上げるように。静かに声をかけた。
「クレイス様、それはきっと、不安だからです」
クレイスが顔を上げた。
ほんの少しだけ驚いた表情で、唇を震わせる。微かな声が、ふあんと言葉を紡いだ。
「わたくしは、不安なのですか?」
「ハッキリとはわかりません。でも、こうして貴女は震えています。こういう心地は、私も覚えがあります。少し、話を聞いてはくださいませんか?」
「はい」
彼女を寝台に腰掛けさせて、俺は椅子に座る。流石に未婚の女性のベッドに座る勇気はない。
顔を合わせると、クレイスは生真面目な表情でどうぞと言った。
「あれは私がまだ成人する前のことです。その頃はまだ、パルキアは隣国との衝突が起こっていて、戦争とは言わずとも、小規模な戦いが起こっていました」
「存じております。しかし被害が少なく、婚姻をもってして和平が結ばれたと」
「その通りです。ある時、私は休暇を過ごす為、隣国との国境付近の地を訪れていました。その時、丁度通った道の近くで戦いが起こってしまったのです。私は兄上と共に、護衛に連れられて森の中に隠れていました。見つかったら身の安全は保障されません。私達は数日を森の中で過ごしました。私は、いつ襲って来るかわからない敵に怯えました。胸が苦しい程締め付けられて、息苦しくて、体が動かなくなって。…今のクレイス様よりも、酷かったかもしれませんね」
「それは、そうでしょう。命の危機は、私は体験した事がありません」
「けれど、似ています。クレイス様は不安なのだと思います。見知らぬ土地で、俺なんかとの婚約を、初めて大勢の前で披露するのです。不安にならないわけがありません」
クレイスは俺の言葉に、納得したようだった。
だが、一拍おいて、軽く首を振る。
何か気に入らなかったかと見ていると、クレイスはしっかりとこちらに目を合わせた。
「確かに、わたくしは不安だったと思います。つい先程まで、ルーン様が仰っていたものと同じ心地でした。ですが、今は違います。貴方がいらっしゃって、お話を聞いたら、もう元通りになりました。これは、貴方のおかげだと考えるべきでしょう」
「そうですか、それは良かったです」
「わたくしが落ち着いたことに、ルーン様が大きく影響しているのだとしたら、ルーン様はわたくしにとって、良い存在だと思われます。ならば、ルーン様との婚約には不安を感じるはずがないのです」
「そ…そうですか」
なんだか照れる。嬉しいようなくすぐったいような。
だが、根本的な解決にはなっていない。落ち着いたのは良かったが、そこから先をどうするべきか。
情緒の育たなかった少女。これまで俺がはっきり見た表情は、苦痛、困惑、驚き。いい意味のものがない。
けれど、掬ってきた感情には、良いものがあったじゃないか。
「クレイス様、嬉しい気持ちを、思い出して見てください」
「嬉しい…あの暖かな、お腹いっぱいな心地ですか」
「はい。ゆっくりでいいのです。思い出して、再現してみてください」
クレイスは目を閉じた。両手を胸元で握り合わせ、じっと。
ここには時計もない。時間の流れなんて、いつもは感じないのに。
何故だろう。彼女とのこの時間が、空間が、もっと長く続けばいいのにと思った。
だがそれも終わる。クレイスは瞼を開けた。
美しい緑が、光とともに俺を映し出す。
「思い出せました。あの時のように、胸が暖かくなりました」
「では、笑えそうですか?」
「それは…」
言葉に詰まった彼女に、一瞬だけしまったと思う。
水を差してしまった。なんとか挽回しなくてはと、咄嗟に立ち上がった。
彼女の頬に両手を伸ばし、触れる直前、本当にいいのかと躊躇した。
だが、彼女の瞳を見て、覚悟を決めた。
むにゅっと。
効果音があればそんな感じだったのではないだろうか。
痩せているが、クレイスの頬は柔らかかった。
「…これは、なんでひょう」
「自力でなんとかできないのなら、他の力に頼ればいいのです。
自らの手ではなにもできなかった、あの時の私のように」
あの森での数日間。何もできずただ怯えているだけだった俺を、助けてくれたのは、兄上だった。
お前も一国の王子だろうと、自分も震えているくせに、ずっと励ましてくれた。
手を握り、引っ張ってともに逃げてくれた。
今はあの時ほど切迫していない。彼女の不安も解消された。俺自身も不安ではない。
けれど、一人ではなんともできないのなら、誰かを頼ればいい。
それを知らない彼女に、伝えたかった。
「貴女は一人ではありません。私がいます。それに、ナディアも。私の家族だって、貴女を気に入っています。クレイス様、笑えないのなら、こうして頬を上げればいいのです。うまくできない時は、私がお手伝いいたします」
「…」
クレイスの手が、俺の手に重ねられた。
少し不格好だが、今彼女は確かに笑っているのだ。
「…ルーン様の手は、暖かいですね。わたくしは、笑いたい時、この暖かさを思い出せばいいのですね」
「はい、ぜひそうしてください」
「いつか、誰かの手を借りずとも、笑える日が来るのでしょうか」
「…それは、難しいかもしれませんね」
そう言って微笑むと、クレイスは目をパチパチとさせた。
悪い意味ではないのですと言ってから、手を離す。彼女の手はそのまま、頬を持ち上げていた。
「一度知ってしまったら、戻れなくなるものがあるように。誰かの手の暖かさを知ってしまったら、きっともう忘れることはできません。貴女は、笑う度にきっと、暖かさを思い出すでしょう。だから、自分だけの力で笑うことは、難しいと思います」
「そうなのですか。…誰かの暖かさは、忘れる事ができない」
クレイスは吟味するように、自分の頬をこねていたが、やがて納得した様子で頷いた。
「確かに、ナディアがわたくしの為に、テーブルマナーの本を買って来てくれたあの時のことを、忘れた事がありません。きっと、わたくしはその時にも、暖かさを感じていたのでしょう。初めて贈り物をいただいた時のように」
一度知ると、忘れられないもの。
俺から贈ったそれが、暖かいものでよかったと、そう思った。
クレイスは何度か手で口元をこねて、その度に俺に見せてはどうでしょうと聞いた。
それにもっとこう、もっとこうと答えるうちに、彼女はしっかり手を使えば笑えるようになっていた。
++++++++++
お披露目の日の朝。
俺は一足先に現地に到着していた。
礼服にも着替え、準備は全て終えている。
今は近くの宿の一室にて、出番待ちだ。
クレイスは城で全ての準備をしてから来ることになっている。
ナディアにおまかせくださいと自信満々に言われた為、心配はないと思うのだが。
それでもソワソワしてしまうのは何故だろうか。
落ち着かずにいると、部屋にじいやが入って来た。
「ルーン様、全兵の配置も完了し、会場の準備は万端でございます」
「わかった。クレイス様の到着は?」
「もうすぐでしょう。ご心配なさらずとも、向こうにはメリルもついております」
「ああ…。心配はしていないんだが、どうも落ち着かなくてな」
そう言うとじいやは少しぽかんとした後、ふぉふぉふぉと笑った。
「いやはや、ルーン様も大人になられましたなあ」
「どういう意味だ?」
「なんでもございませんよ、ふぉふぉふぉ」
楽しそうな様子に文句は言えず、そのまま見送る。
しかし楽しそうということは、このざわつく心は悪いものではないのだろう。ならばどういう意味なのだろうかと、首をひねる。
だが答えを見つける前に、クレイスが到着したと連絡を受け、迎えに行くこととなった。
部屋を出て、彼女のいる馬車へと向かう。
一歩踏み出す度に胸のざわつきは大きくなり、最終的にはひどく高鳴っていた。
もしや、俺は緊張しているのかと思い至るのと、馬車の扉が開くのは同時だった。
「…!」
息を呑んだ。
そこにいるのは、確かにクレイスだった。いつもの緑色の瞳。いつもの無表情。
だが、その容姿は、いつもの控えめなものとはかけ離れた、とても美しいものだった。
普段は少女らしさが残る彼女が、化粧によって魅力的な大人の女性に変わっている。緑のドレスが非常に映え、首元を飾る赤い宝石が眩しく見えた。
くらりと視界が回りそうになる。
それをなんとか堪え、手を差し出した。
「クレイス様、お手を」
「はい」
まばたきひとつすらも、今の俺には魅惑的に見えてしまう。まるで別人の様だと思いながら、彼女の手を握り、引いた。
ふわりとドレスが舞う。ただ馬車から降りただけなのに、それにもくらっとした。
放心しかけた時、クレイスが唐突に頬に手を添えたので、動転して逆に我に返った。
「ルーン様、体調が優れないのですか?」
「い、いえ。良好です、問題ありません」
「そうなのですか。お顔が赤いので、熱があるのかと思いました」
言われて、顔に熱が集まっている事に気付いた。
暑いのでなどと適当なことを言いつつ、慌てて手で仰ぐ。クレイスに心配させるなど、何をしているのだ。
平然としているが、クレイスの方が穏やかでない筈だ。気を取り直し、会場へとエスコートする。
途中、クレイスが両手で頬を持ち上げるのを見て、少しだけ和んだ。
「静粛に!これより、ルーン・パルキスタン・クロア第三皇子殿下と、クレイス・モルドリア姫様の、婚約のお披露目を行います!我がパルキア国のさらなる繁栄を祈り、皆様、拍手での祝福を!」
近衛騎士隊長の声掛けが終わると同時、割れんばかりの拍手の音が鳴り響いた。それに、思わず顔が綻ぶ。
この婚約を、他の誰でもない、この国の民達が祝ってくれている。歓迎してくれている。
それが嬉しかった。
クレイスの顔を覗き見る。どこかぎこちなくも、ちゃんと笑顔になれていた。
「さあ、行きましょう」
「はい、ルーン様」
頷き合い、広場へと二人で歩いた。
姿を見せると、さらに拍手が大きくなる。
「おめでとうございます!」
「殿下〜!」
「なんて綺麗な方なの!」
「あれがクレイス姫様か!」
「素敵です!」
「ルーン殿下!おめでとうございますー!!」
様々な声が降り注ぐ。
並んで彼等に手を振ると、何人もの民が手を振り返してくれた。笑顔が溢れている。
こんなにも祝福されているなんて、幸せなことだ。
「ルーン様」
「なんでしょう?」
「わたくし、不思議な心地です。おそらくわたくし自身より、民の皆様の方が喜んでいます。それがなんだか、もやもやするのです」
「もやもや?」
「はい。くすぐったいような…頬のあたりが、もやもやします」
それはきっと。
その感情の名を告げ、お揃いだと言うと、クレイスはほんの少しだけ、目元を緩めていた。
それがとても綺麗で、可愛らしく見えて、俺はどきりとした自分を誤魔化すように、再び民へと視線を戻してしまったのだった。
ぺろっ、この気持ちは…?