16, 彼女の「愛について」
少し長くなってしまいました。
クレイスという少女にとって、「愛している」という言葉は絶望だった。
それは彼女がまだ幼く、物事の全貌を把握しきれない時のお話。
少女はたった一人の母親と共に、ある大陸の様々な国を旅して暮らしていた。
来る日も来る日も、心休まることがないまま、少女は母親の手を握って歩いた。
時にはひどく寒い吹雪の中、たった一つのランプと共に歩いた。
時には宿で一息つく日もあった。
時には砂漠を、水を求め続けながら歩いた。
時には、綺麗な星空の下で眠る夜もあった。
少女は何故、自分たちがこうして暮らしているのかわからなかった。
母親はいつも何かに怯えるようにしていた。物音がするとすぐに飛び起きた。
お金は常になかった。誰かに食料を分けてもらったり、母親がどこからか稼いできた少量のコインで食い繋いでいた。少女はいつもお腹が空いていた。
ある日、少女は一匹のウサギを捕まえた。赤い瞳の、柔らかな生き物だった。
それは少女によく懐いた。少女はウサギを連れて旅をした。
「すっかり貴女に懐いたのね」
母親は微笑んで、少女の頬を撫でた。
「この子も、もう私たちの家族よ」
少女は家族、という言葉を初めて知った。
母親は、家族。ウサギも、家族。自分も、家族。
母親は少女とウサギを抱きしめて毎日言うのだった。「愛しているわ」と。
そうして二人と一匹で歩き続けるうち、次の街に着いた。
そこはある国の金持ちの領土だった。いつものように、目立たず、ひっそりと門をくぐろうとした時。
「止まりなさい」と、野太い声が響いた。
母親は少女を抱き寄せると、俯いて立ち止まった。
少女は訳も分からずに、ウサギをしっかりと抱きしめて声の主を見た。
それは男の声だった。見るからに裕福で、でっぷりとした腹と綺麗に整った口髭を持っていた。
彼はじっと少女の手元を見つめると、唐突に「おい」と声を張った。
「そのウサギ、この辺りのものではないな。どこから獲ってきた?」
「…北の、銀麗の山の麓です」
とってきたんじゃない。一緒に来たのだ。そう思うよりも先に、母親が答えていた。
裕福そうな男はそれを聞いてニコニコと笑うと、手を差し出してこう言った。
「それを買い取ろう。金貨10枚をやるぞ。いい品物だ」
少女は、その男の言っている意味がわからなかった。
品物?このウサギは、品物?違う、家族だ。愛している、家族だ。
いやだ、と言いたかったが、少女は男が急に恐ろしくなり、ウサギを抱きしめて足を引いた。
それを見た男は、さらに笑みを深くすると、野太い声で笑った。
「いいぞいいぞ、では金貨15枚だ。ん?それでもいやか。ならば20枚やろう!これで手打ちだ!」
いやだ。このウサギは金貨じゃない。金貨と一緒じゃない。なのに、母親は少女の背を押した。
はっと見上げると、母親は無理矢理に笑った顔で、こう言うのだ。
「よかったわね、その子もきっと新しい飼い主のところで幸せになるわ」
「どういうこと…?」
「愛しているわ、貴女も、その子も。だから…ごめんね」
母親はそう言うと、そっと少女の手からウサギを取り上げて、男に手渡した。
男は満足げに頷くと、金貨を袋に入れて母親に渡した。
「やあ、これで娘にいい誕生日プレゼントが買えたぞ」と、男は笑って去って行った。
あのウサギは、プレゼントになった。家族じゃなくて、金貨20枚のプレゼントに。
母親は少女の手を引いて街の雑踏に身を隠した。少女はジャラジャラと音を立てる母親の持つ袋をじっと見つめていた。愛していた。あのウサギを、愛していたのに。母親も、自分も。そう言いたかったが、母親の頑なな背中に、少女はついに何も言うことができなかった。
その日、二人は宿に泊まった。母親は少女の髪を梳かしながら言った。
「…ごめんなさい、クレイス。貴女はあのウサギを大切にしていたのに、奪ってしまって」
「おかあさま、どうしてウサギは金貨と交換されたの?あの子は家族でしょう?家族って、金貨と交換できるものなの?」
「いいえ、いいえ違うわクレイス。あの子は大切な家族よ。それは今も同じなの…家族は、お金では買えないのよ。愛し合ってはじめて家族なの。おかあさまも貴女も、ずっとあの子を愛しているわ。そうでしょう?」
「…でも、あの子はプレゼントになってしまったわ」
「あの人達にとっては、そうかもしれないわね…。だから忘れないでクレイス。おかあさまが今日してしまった事を。そして、あのウサギを愛する心を。そうすれば、あの子はずっと私達の家族よ」
少女はわかった、と頷いた。
けれど、本当はまださっぱりわからなかった。
母親が“してしまった”と言った理由、心にできた大きな穴、そして後ろから聞こえるすすり泣きの意味。
どれもこれも、わからないことだらけだった。
ただ一つ、あのウサギがいなくなってしまったのは、きっと自分のせいなのだと思った。
その夜、少女は考えた。何故、自分たちはこんな暮らしをしているのだろうと。
物心ついた時には既に旅をしていた。母親は理由を教えてくれない。
教えてくれないのは、きっと少女に原因があるからだと考えた。優しい母親は、自分のせいならばきっと少女にそれを伝えて、謝るだろうから。
じゃあ、自分の何が原因なんだろう?
自分の手を見つめる。幼い少女のものとは思えないほど痩せ細っていて、細かい傷がたくさんある。この手のせいだろうか?自分の足を見つめる。同じく痩せていて、汚れていて、足の指にはたくさんの傷跡がある。この足のせいだろうか?
自分のいろんなところを見たが、原因はわからなかった。
その日から、少女は自分のどこが原因なのかを考えるようになった。
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いくつかの季節が過ぎ、少女はだんだん物事の区別がつくようになっていった。
人の物を奪ってはいけない。人を傷つけてはいけない。人に怖いことをしてはいけない。人を悲しませてはいけない。偏見を持ってはいけない、馬鹿にしてはいけない、苦しませてはいけない。
いけない事をすると、悪い人になる。悪い人は罰を受ける。
少女はもうわかっていた。きっと自分は悪い人なのだ。何故かはわからないけど、悪いことをしてしまったのだ。だから母親は何も言わないし、こんな辛い旅を続けなければならないのだ。
二人は、南の地を旅していた。ウサギの金貨は、ほとんど手付かずのまま残されている。
南の地は厳しい土地ばかりだった。砂漠も多いし、とにかく暑い。食物の値段は高く、宿に泊まっても質素な食事しか出されない。もう慣れていたが、かといって平気なわけではない。
少女はやはりいつも、お腹をすかせていた。
そんなある日、とある街に着いた。
そこは南の地にしては華やかな場所だった。海があるから裕福なのだと、少女は地図を見て一目でわかった。
母親はいつものように、少女を連れて宿を探した。だが生憎とどこも満室で、二人は困り果てた。
とにかく何か食べようと、港の近くのパン屋に入った時。運命の音がした。
チリン、と。
「いらっしゃいませ!って、大丈夫ですか!?とても顔色が悪いですよ!?」
店主らしき男性が母親に駆け寄った。少女は驚いて母親を見上げる。
それがきっかけだったのか、母親は男性の腕に倒れ込んでしまった。
「おかあさま!」
少女が悲鳴をあげると、男性は素早く母親を抱えて、こっちにきて、と少女を呼んだ。
どうすることもできず、言われるまま着いて行くと、そこは男性の居住スペースのようだった。
狭い部屋に、ベッドと机、クローゼットが詰め込まれた小さな部屋。
男性はベッドに母親を横たえると、大きな手を彼女の額に当てた。
「すごい熱だ…!お医者様を呼ばないと!お嬢ちゃん、お名前は?」
「く、クレイス」
「よし。クレイスちゃん、ここでお母様と待っていてくれるかい?僕はお医者様を呼んでくるから」
「おかあさま、どうしたの?」
「きっと流行りの風邪にかかったんだ。急いで薬を飲まないと、どんどん悪くなる」
男性はそう言うと、エプロンを置いて外へ飛び出していった。
少女はどうしていいのかわからずに、母親の手を握った。
悪くなる。それは悪い人になるのではなく、健康で無くなると言うこと。
旅人が健康でなくなったらどうなるか。少女はなんとなくだが理解していた。
「おかあさま…!お願い、目を覚まして!」
必死にお願いしても、母親はぐったりと目を閉じたまま、動かなかった。
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少女の記憶はここで一旦途切れている。
その後、きっと彼女は快復したのだ。そうでなければ、母があのパン屋の主人の恋人になり、キーリスが生まれている筈がない。ただ、その間に何があったのか、何を思ったのか、思い出せないのだ。
その代わりに彼女に刻まれているのは、激しい足音と誰かの叫び声、そして伸びてくる無数の手。
断片的に記憶しているそれだけでも、クレイスの恐怖を駆り立てる。
何が起こったのか、どうしてその結末になったのか。わかるのはただ一つ、自分の罪がついに露見したのだろうという事。全ての原因が自分にあった。
絢爛豪華な一室で、複数人の男性に取り囲まれて、諭すように囁かれた。
──守りたければ、従え。
──お前の態度次第だ。
──お前は逃げ出してはいけない。
頷くしかなかった。それ以外の選択肢を知らなかった。そんなものが存在していなかった。
言い訳はなんでもできるが、結果はどうあがいても変わらない。少女は受け入れてしまった。それが破滅への道だとわかっていながら、家族を守るという大義名分のためだけに。それが、自分にとって大事なものなのかすら理解していなかったくせに。
こうしてクレイスはモルドリアの名を手に入れた。
大人達に言われるがままに机上の駒を動かして、戦争を行った。勝利すればするほど、要求は厳しくなる。それに応える為に己を研ぎ澄ました。動かした駒が消えることを考えず、勝利のためだけに、まるでゲームをしているように、次々と策を生み出した。相手の駒を潰し、己の駒も潰す。何度も何度も。
それがどういうことなのか、考える時間はあったのに。気づくタイミングはたくさんあったのに。全てを無視してしまった。
自分がどんどん醜悪になっていくことを、自覚しようともしなかった。
そして何十、何百もの戦いがひと段落した。戦争はモールドル国が華々しく勝利を飾った。周辺の小国を全て手に入れ、国力は何倍にも跳ね上がった。
クレイスは何も感じなかった。ただの結果としか受け取れなかった。
けれど、これでもう家族に危害が及ぶことがないと安堵できた。自分は結果を出した。これ以上は何もない筈だ。元の生活に戻れる筈だ。そう信じていたのに。
現実は残酷だった。クレイスは真実を知ってしまった。
己の実父は、モールドル国の王であること。自分のせいで、戦争が起こってしまったこと。数多の命が消えていったこと。
母が、キーリスもろとも監禁されていたということ。
自分は何も守れていなかった。それどころか、幾つもの罪を重ねてしまった。
全身にその罪は絡みついて、もう身動きを取れなくなってしまっていた。
自分のせいだ。
自分のせいだ。
自分のせいだ。
もうそれが解るようになってしまった。今まで目を背けていた現実が、全て襲いかかってくる。
お前のせいだ。お前が全てを狂わせた。お前が全てを失わせた。
もう、どうしていいのかわからなかった。
がむしゃらに何度も何度も、バルカ王に頼み続けた。元に戻して。家に返して。もう自分の役目は終わったのだから、解放して。何度も…そう、何度も。
結果を考えず。自分の立場をわきまえずに。
それから数日後。父になってくれた人の処刑が決まった。
呆然としている深夜、母がクレイスの元を訪ねてきた。自由の身になったのかと聞くと、違うと言われた。
「これから、あの人のところへ行くわ」と母は言った。それが、今殺されそうになっている、あの優しい男性であることは考えずともわかった。止めることができないことも、わかった。
だから黙り込むしかなかった。自分が何か言えば、母が要らぬ重みを背負ってしまう。
「キーリスを…お願いね、クレイス。おかあさまは行かなくてはいけないの。ここに戻ってくることは、もうないでしょう。でも誤解をしないで。おかあさまは決して貴女とキーリスを嫌いになったわけではないのよ。どうしても連れていけないだけの。わかってちょうだい、クレイス」
「はい、疑ったりしません。おかあさまがそうしなければならないのなら、私は止めません」
「クレイス……心配しないで。きっとあの人を助け出すわ。いつかきっと、また家族で住めるようになる。その時までの辛抱よ。だからいい子でいてね。王から目をつけられないように、おとなしくして」
「はい」
「クレイス、貴女を愛しているわ。心から、貴女のことを愛してる。私の可愛い子、どうか忘れないで。おかあさまは、貴女と出会えて、とても幸せだったわ」
「…はい」
「さようなら。…ごめんなさい」
何を謝っているのだろう。母は何も悪くない。悪いのは自分だ。
クレイスは部屋の窓から姿を消した母を追いかけることもせず、ただ立ち尽くした。
壊れてしまった。もう何もかもが遅かった。
もう二度と、あの幸せな時間が帰ってくることはない。そんなこと、自分でもわかる。母が気づいていない筈がない。そして、それがクレイス・モルドリアのせいであることも、わかっていただろう。
それでも彼女は、「愛している」と言った。「幸せだった」と。
受け入れられなかった。受け入れてはならないと思った。母の人生をめちゃくちゃにして、父になってくれた人の運命を絶望へと導いた、自分が、愛されてはいけない。許されてはいけない。
胸が、これ以上ないほど締め付けられた。立っていられずに、その場に座り込む。涙が後から後から流れ出てきて、上質な寝巻きにぽたぽたと染みを作った。
叫びたかった。苦しかった。凍えてしまいそうな寒さを感じた。震える体を抱きしめて、蹲った。
「私は…わたしはっ…!」
懺悔の言葉がこぼれ落ちる前に、口を閉じた。歯を食いしばって、嗚咽に耐える。
悲しむ権利なんて、ない。もう母には会えない…その原因を作ったのは自分だ。全て自業自得だ。
けれど、どうして。どうしてあの人なのか。どうして母なのか。
何故、自分は断罪されない?
叱って欲しかった。憎んで欲しかった。愛されなくていい。もう家族でなくてもいい。そう思っていたのに。
母は全てを許して、行ってしまった。愛していると残して、行ってしまった。
娘を愛するが故に、彼女は去っていった。
自分を愛する全てが、自分が愛する全てが、絶望を呼び、消え失せてしまうのなら。
「私は…愛しては、いけない」
ウサギの時に、ちゃんと理解しておくべきだった。
罪深い自分が愛するということは、その者にとっての破滅なのだと。
母も、あの人も、自分が愛してしまったがために、その運命を狂わせられたのだ。
「私は、愛されては、ならない」
愛されてしまったら、愛してしまう。もう二度と、誰かを絶望させたくない。
自分を守る為に、そして大切なものを守る為に。少女は心の奥底に鍵をかけた。
愛は、絶望を呼ぶ。もう誰も愛さない。誰からも愛されない。
そう、しなくては。そういう者にならなければ。
そして数日後。母と彼の死を聞かされた。
クレイスは自らを押し殺した。優しさを全て拒絶した。
感情を切り捨て、何もせず、何もさせず。塔へと監禁されても、文句の一つも言わなかった。
情を感じるようなものは何もかも捨てた。世界を自分から切り離し、孤独であろうとした。
効果はあった。キーリスは無事に成長し、姉達も兄達も平和に過ごしていた。
家族にならなければ、愛が生まれることもない。少女は厄介者の立場から動くことなく、一人静かに、息を潜めて生きた。
少女は孤独な女性になった。そして物事の全貌を知り、絶望を知った。
クレイスという少女の話は、ここで幕を降ろす。はずだった。
それから数ヶ月後。一人の少女がクレイスの元へと訪れた。
その日から、再び運命の歯車は回り始め、新たな話が生み出された。
クレイス・モルドリアの、新たな運命の話が。
++++++++++
クレイスは、絶望の運命をルーンに辿らせたくなかった。
彼にだけは、憎まれたくなかった。
だから愛さないように、愛されないように、そう思っていたのに。心はどんどん揺れ動き、染められていく。
そしてやはり、クレイスという人間はルーンを絶望へと誘っている。
どうして。どうして、自分はいつも間違ってしまうのだろう?
これが罰だというならば、もう自分に出来ることは一つだけ。
受け入れてはならない。彼を遠ざけ、また孤独に戻るしかない。
たったそれだけなのに、それすら心が拒絶する。
考えるだけで苦しくて、胸が張り裂けそうで、怖くてたまらない。
ルーンが去っていくような気がした。母のように、何もかもを許して。
もう、置いていかれたくなかった。
クレイス様の内面を書くのは初めてでした。難しかったです。
果たしてルーン様は、クレイス様を説得できるのでしょうか。
次回に続きます。