雨降りの魔女
土砂降りの夜。
一台の黒いセダンが雨を跳ね返し、水を跳ね上げながら走る。
「思ったより遅くなった。着替えて晩飯くらい、食えると良いが。……どうかな」
時計に目をやった彼は時計の隣に表示された外気温の表示に目をとめる。
上着もネクタイも要らない季節とは言え外の気温は20度無い、
――最近は目に見えて視力が落ちたな。まだ30も中盤だから老眼と言う事でも無いだろうが、特に乱視が酷くなっているようだ。
だが眼鏡をかけるのは趣味じゃない、だいたい私に眼鏡は似合わない。
彼はそう思いながらワイパーの切りとったウインドスクリーン越しの景色に目をこらす。
「そう言えば山田くんは雨の日の夜、運転するときだけ眼鏡をかけると言ってたな」
そう高いものでも無く、店によってはほんの小一時間で出来上がるのだ。と、若くして乱視の非道い部下がそう言っていたのを彼は思い出す。
彼の目が悪くなったとは言え、今日に関しては雨が非道すぎた。
もう半日降っているが、こう言うのもゲリラ豪雨とか言うのだろうか。
彼はぼんやりと考えながら、それでも体は勝手にブレーキを踏みウインカーをあげ、右手はハンドルを回して地元の人間しか知らないいつもの近道、新興住宅地への取付道路へとクルマを向ける。
クルマはまだ開発中の区域に入る。
舗装はされているものの両サイドには外灯も家もなくなり、一部には藪が茂り、雨は更に勢いを増しつつあった。
ワイパーが拭き取ったガラスの向こう側、高機能型に取り替えてあるはずのヘッドライトとフォグランプが必死に照らし出す道路は、しかし滲んでぼやけてロードペイントも判然としない。
そう言う状況で、外灯も途切れた住宅街の端で道路に落ちていた物。
それに気が付いたのは幸運以外の何者でないだろう。
「……! なっ!」
ブレーキを目一杯踏み込む。断続的で控えめなスキール音、遅々として落ちない速度。
ガガガガっという耳障りな音と共に、右足にABS作動の反応が返り、インパネのABS表示灯が点滅する。
物体が視界の下へと姿を消したところでクルマは止まった。
「ふぅ、ギリギリセーフか。とっさの時はハンドルで逃げる、なんて簡単に出来るわけ無いな。……。全く、こんなデカいもんを! 何処のトラックだ、くそったれ!」
――ここは県道と市道どっちだったっけ。連絡しておかないと、危ないよな。警察でも良いのかなこう言うのは。彼はそう呟きながらハザードをあげると自分のクルマの無事と、落ちていた物を確認するため、土砂降りの中クルマを降りる。
「工事現場のゴミかなんかか? 全く適当なんだよ。ちゃんと絞らないからヒラボディから落っこち……。え!?」
何かのかたまり、と見えたのは人間で。しかも長い黒髪と盛り上がった胸、肩に掛かった小さなバッグ、スカートから見える足。妙齢の女性である事は一目瞭然。
胸の部分が周期的に動くのが見える、そして血の流れた形跡もない。呼吸はしている、表面上怪我もしていないようだ。
そこまで見て取ると彼はほんの数歩を駆け出す。
「もしもし! しっかりして、大丈夫ですか! 取りあえずこんな所に寝てたらダメだ。……どうしたんですか、聞こえますか!」
「……生きているのですか? 私は」
「莫迦なことを! ……立てるかい? 先ずはクルマに乗ると良い。――おっと、大丈夫かい? トランクに営業で余ったタオルがあるはずだからちょっと待って」
約5分後。
ずぶ濡れの女性を助手席に乗せた黒いセダンは、車内温度28度を目指してヒーターを全開にしながらコンビニの駐車場の隅の方に止まっていた。
「コーヒー、ブラックで良かったかな? あと、大きいタオル売ってたから」
「すみません。私のような者に気を使って頂いて、本当に……」
申し訳なさそうにコーヒーの入ったカップを受け取るその顔は、一回りとは言わないが彼より間違いなく若い。
そして明らかに美人の範疇に含めて構わない器量。
「気にしない、先ずは落ち着いて髪を拭くと良い。警察に連絡が必要だと言うなら私がしよう。――それより本当に救急車とか要らない? 大丈夫なんだね?」
「……はい」
一応タオルで拭いたとは言え長い髪はぺったりと頭に張り付き、白いブラウスは乾かないままピンクがかった下着が透けて見えるその姿。いかにも劣情を誘う。
……いかんいかん。と彼は一瞬立ち上がった妄想を打ち消し彼女の体から目をそらす。
「でも本当は何処か具合が悪いんじゃないか? 言い辛いのかも知れないが持病とかさ。誰にも轢かれなかったから良かったものの、あんな所に倒れていては……」
「いくら三日食事を取っていないとは言え、雨に打たれているだけであれ程消耗するとは。目的地で手首を切る前に意識が遠くなっていつの間にか道路の真ん中に……」
「おい! キミは自殺する気だったとでも言いたいのか!?」
「はい、私は魔女ですから。この世界にはもう、居場所がないのです」
「……は? えーと取りあえず、だ。私が発見、保護した以上今日は死ぬのを禁止する。良いね?」
「……はい」
黒いセダンはコンビニ前から場所を変え、住宅地の真ん中に整備された公園の前に止まっていた。
相変わらずエアコンは暖かい風を全力で車内に送り出している。
彼がさっき、追加で買ってきた紙パックの牛乳を持ってホットドックを頬張る彼女に目をやる。
視界の隅の外気温度計の数字は15度まで下がっていた。
「しかし。……何処まで信じたら良いんだろうな、その話」
「どう思って下さっても結構です」
「死にたい理由には弱い気もするが……」
「私には大問題なのです」
彼女が語った話は大まかにはこうだ。
自分は魔女である。だがもう魔力を失いつつある。そして人間として暮らして行く自信も無い。
だから死にたかったが、自分が完全に死ぬのかどうか。それも自信が無い。
だから先ずは絶食し、その後藪の中で自刃しようと思っていたが移動の途中で意識を失った。
彼はその直後に彼女を引きかけたものらしい。
……デンパさん、か。
彼はその類のヤツにはあったことが無かったが、
――これがデンパってヤツなのか。エラいものを拾っちまったな。彼は顔に出ないように苦労しながら彼女の横顔を見る。
――30、にはならないよな。いっても26、7、ってところか……。
「でも、あなたに優しくして貰ったのでちょっと決意が揺らいでしまいました。明日以降仕切り直しです」
そこまで簡単に語ると、彼女はさして刃渡りはないがいかにも高そうなナイフをバックから取り出してみせる。
――コレは本当は血印を結ぶ時に使うものなのですが。手首と太ももを切れば多分死ねるのでは無いかと思って持ってきたのです。スラリ、と抜いたその刃先はいかにも切れ味が良さそうである。
「危ないから閉まっておけよ、そんなもの。あぁ、いや。その大事なものなんだろ?使わないのだから刃がこぼれないように今はキチンと仕舞っておいた方が良い。――キミが魔女だという話を信じるとしてだ、……携帯とか持っているか?」
「携帯、……携帯電話ですか? 持っていません、電話をする必要が無いので」
「じゃあ、戸籍とかそう言うモノも無いのか?」
「……? それはもちろんありますよ。一応形の上で人間として暮らせなければ魔女としての意味がありません」
「そう言う、ものなのか?」
「高校に入学するとき住民票というのですか? それを市役所に買いに行きました」
「なるほど。……ちなみに住民票な、アレは買うのでは無く、貰うって言った方が良いぞ。意味が違って聞こえるから」
「小さい頃から私は師匠でもあるお婆さんと二人で暮らしていました。魔女としても人間としても、お婆さんが表向きのことを全てしていたので正直に言えばよくわからないのです。人としての役割も、魔女としてのあり方も」
「ならその婆さんに……」
「亡くなりました。2週間前のことです。私に魔女の理を教え、力を継承する。と言ってくれた矢先でした」
一応高卒とは言え“人間界”の名のあるお嬢様学校卒ではあるようだが、一般の学業以外は友だち付き合いもせずにただひたすら魔法の訓練をしていたらしい。
衣食住、全てはそのお婆さんが面倒を見てくれていたのだ、と彼女は言う。
……だから生活力も常識も無い、か。変に辻褄が合うのが凄くイヤな感じだ。
と彼は彼女の方を見る。
何故かそこで彼を見つめる、潤んだ瞳の彼女と目が合う。
「こんなに良くして頂いても、私からは見返りにあなたにさしあげるものが何も無い……。どうせ明日には死ぬ身です。好きになさって下さい、よろしければ、ですが」
「え? いや、好きにって……」
「言葉の通りにとって頂けたら……」
――お察しのとおりです。恥ずかしいことに、男性との接点などこれまで皆無ですけれど。
――でも、男性は本能的に女性の体を求めるものだ、とは私も知っています。
――但し、私の身体にそこまでの価値が有るのか。と問われるともうそこはわからないのですが。
――知っている事と言えば具体的には中学の時、保健体育の授業で習ったことくらい。
――だから私から何かをして差し上げることは出来ないのですが。
――自分で出来るのは服を脱ぐ事、くらいでは無いかと、そう思うので。
「だから言いだしておいてなんなのですが、果たしてお礼として見合っているのかどうかさえ、実は私には判断が……」
そう言いながら俯いて頬を赤く染め肩を抱く彼女。
――マジか! と一瞬思ってしまった彼は、その事を恥ながら再度妄想を頭の中から追い払う。
困っている人間につけ込んで何が楽しい、私は正義の味方だ。そう頭の中で自分を怒りつける。
「常識が無いのは追々何とかするとして、女性が簡単に体を差し出すもんじゃない。場合によっては命より大事にする時だってある」
「今は、どちらの場面なのでしょう? ……私には判断が、出来ません」
「私が悪いヤツだったらどうするつもりだ。……状況問わず、基本的には好きな男以外には差し出さないの。――それにだ」
「なんでしょう?」
肩を抱きつつ彼を振り返る彼女の顔を見た彼は。
頭の中に“勿体ない”の文字がグルグル回るのを更に追い払う。
「明日死ななくても良いじゃ無いか。魔女でなくなったから、とさっきキミは言ったが。……だったら力が戻ればキミは死ななくても良い理屈だろ? そこを何とかすれば良い。何故魔女としての力を無くしたのか、理由は見当が付いてるのか?」
――魔女でなくなったから死ぬ。
確かにそう言ったはず。
ならばそこを解決できれば、彼女は死ななくて良い道理ではある。
「わかりませんが、お婆さんから力を分けて貰っていたのだと思います。……亡くなった直後からどんどん目に見えて力が抜け初めて、今やたった一度、精神系の魔法を使ったら魔女としての私は終わりです。多分その程度が私の本当の力だったのです」
彼女はそこまで言うと顔を伏せて泣き始めてしまった。
一瞬躊躇した彼はそっと彼女の肩に手をやる。
透けなくはなったものの、まだブラウスは湿気っている。
「……魔女としては、もう再起不能なのか?」
「お婆さんが、力の継承を出来ずに。亡くなったのが原因だとすれば、多分そうだと思います。……もっとも力が戻ったところで、何をして良いのかさえわからないのですけれど」
「ならば一つ提案だ。キミは常識が無いだけで人間としては至極真っ当、どころか凄く魅力的な女性だと私は思うのだが、……人間として。生きてみてはどうだ?」
「私に、……出来る、でしょうか?」
「やってみて、ダメならその時もう一回考えれば良い」
俯いたまま静かに泣く彼女とその肩に手をかける彼。そのまま数分間が過ぎる。
「……本当に私に出来るでしょうか?」
「何でもやってみなくちゃわからないものだよ。私も出来る限りの協力はする」
俯いたまま彼女の唇が小さく動き、そして顔を上げる。
「もう、それしか道が無くなったようです。……たった今、力を使い切りました」
「なら、決まりだな。自殺なんて気軽に口にするもんじゃない、人間でも良いじゃ無いか。私なんかは人間以外になった事が無い。いずれ死ぬよりは生きてる方が良い」
彼はそう言って時計を見る。レイトが始まるまであと一時間。劇場までは15分。
「キミは映画は見たことが、――いや、良いや。さっきお礼を、と言っていたが、だったらちょっと映画に付き合ってくれ」
「映画、とは? あの、いったい何の話を……」
――結局夕飯はポップコーンにコーラ、か。
エアコンの設定温度を24.5度に戻すとパーキングブレーキをリリース、セレクタをPからDに入れ、ブレーキを離す
。
「私の好きな監督の最新作なんだが、いかんせん今回は何を考えたかベタベタの恋愛映画でね。おっさん一人で見に行くにはちょっと抵抗があったんだ。キミにも人間の男女間のあり方について、ちょっとは参考になるだろうさ」
「おっさんなどと、自分で言うものではありません」
「キミから見てもそう見えるってことか、ちょっとショックだな」
「え……? わ、私は決してそのような。――そんな、聞いて下さい! あの……」
走り始めた黒いセダンはウインカーをあげると、少しずつスピードを上げ、小高い住宅地から駅前の繁華街へと進路を取る。
「あと、当面行くところが無いなら私の部屋に来ると良い。どうせ独り身だし部屋も開いてる。何かを盗ろうにも、名作シリーズの安売りDVDとテレビくらいしかないし。……あ、別にキミに対しては何もしないぞ? だいたい私はだな……」
「わかっています。ふふ……。あなたはきっとお婆さんと同じように、困っている人を無条件で助けてしまうような、損な性分を生まれつき背負った方なのでしょう。むしろあなたに私が何を出来るか、それを本気で考えなくてはいけません」
漸く乾いた髪が、彼女が喋るのに合わせてサラサラと揺れる。
「そこまでお人好しなつもりもないがね。――明日の午後に半休を取るから先ずはキミの戸籍と、それから住んでいた家の様子を見に行こうか。……ところでさっきキミは力を“使い切った”と言ったな? 何か魔法を使ったと言う事なのか?」
クルマが増え、少しずつ人も多くなる。
赤信号で止まったウインドスクリーンの先、横断歩道を行く人達は傘を閉じ始める。
彼はワイパ-を間欠に切り替える。
「もはや魔法でさえありません、ほとんどお呪いのようなものでした。いや、呪いなのかも。――でも、私の最後の魔法は、どうやら上手く発動したようです」
「……いったい、何を?」
――この人と、一緒に居られたら。
そう呟いた後、赤くなって横を向いた彼女は、駐車場に着くまで。
あとは一言も話さなかった。