退行
母が幼児退行を起こした、その事態を私が知ったのは大学から帰ってきた午後3時半であった。
正確に言うと、寄り道をしてきたので大学から帰ってきたというよりも寄り道先であるショッピングモールからの帰宅、と言った方が良いのだろう。
四時くらいに家に着くように調整して若干失敗した私が自宅で目にしたものは、幼児退行を起こし"見知らぬ場所"でパニックになってグズグズ泣いている母の姿であった。
それを目にした私の感想を率直に言うのならば、度肝を抜かれた、である。
私の姿を見てまたもやパニックになる母をなんとかなだめすかし、まともな話を聞くことができたのは帰宅から30分ほどの時間を要した、長いか短いかはわかりかねないが、コミュ障の私にしてはよくやった方であろうと自分を褒め称える。
落ち着いた母が開口一番に発した言葉は。
「おばちゃんだれ?」
で、あった、老けているのは自覚しているのであまり気にしない。
この状況下で母が正気ではないことは言うまでもないので、私のことがわからなくても気にならなかった。
「ここの家の住民。あなたは?」
とりあえずそう問いかけてみる、この時点で何らかの記憶障害が起こっていることは明白だったので、本人の認識を確認する必要があった。
「……ーーー」
母は自らの名前を名乗った、ただし名字は旧姓だった。
記憶喪失じゃなくて退行だな、とこの時点で確信する。
泣きじゃくっていた時点で単なる記憶喪失ではないと思っていたが。
「ーーさん、住んでいる県が何処か言える?」
「……◼︎県」
◼︎県は母の実家だ、少なくとも母が実家を出た18歳よりも退行していることになる。
「……えーっと、ここ×の⚪︎△市なんだけど、なんでここにいるかわかる?」
「……わかんない」
これは予想通り、それじゃ次の質問だ。
「今、何才?」
「9歳」
「……了解……うんうん……退行ですなー」
半ば現実逃避に呟く私を母は不思議そうな顔で見ていた。
「……えーっとね? 私の知ってるあなたは47歳のはずなんだけど? わかる?」
「……おばちゃんなに言ってんの?」
あ、うんうんわかんないよねー、そうだよねー中学生くらいだったらまだわかったかもしれないけど小学生だもんねー。
「……とりあえず、こっちにカモン」
「……?」
目にハテナマークが浮かぶ母(というのが辛くなってきたので、次から彼女と呼ぶことにする)の手を引き、洗面所の鏡の前に。
「ここに写ってるのが私、おk?」
鏡に写る自分の姿に指を突きつける。
彼女がこくりと頷いたので、その隣に写る彼女を指差す。
「それで、これがあなた、わかる? 子供には見えないでしょ?」
しかし鏡を見つめる彼女はキョトンとしていた。
ううむ……これは。
「……あなたには、子供の姿に見える?」
「うん」
首肯一回、ああ、やっぱダメだこりゃ。
認識がねじ曲がってる、これは何を言っても無駄だ。
「……了。じゃあ一回戻ろうか」
彼女を引き連れてリビングに逆戻る、さて、どうしようか?
「しゃーない……病院に行こう……」
腕を組んでウロウロと考え込んでいた私のつぶやきを耳聡く聞いた彼女が再び先ほどと同じ調子で泣き始めた。
「……病院……やだ……お家帰りたいよう……」
泣き出した彼女を慌てて宥める、さてどうするか。
嘘をついて病院に行ってもいいが……
というか、この事態を私一人で抱えるのは重すぎる、一旦誰かに話して整理したい。
というわけで、一度母の実家に電話を掛けることにした。
ちょっと待っててと話を聞かれないように家を出る、玄関の窓がしまっていることを確認した上で、少し離れた場所からスマホで電話を掛ける。
幸い、2コールで電話が繋がった。
「もしもし……ちょいとご相談したい事が……実は……お母さんが幼児退行を起こしまして……」
通話先の祖母に私はこれまでの出来事を話す。
「……と言うわけで……今うちにいるの私とお母さんだけで……お父さんと弟はいない……してない……お父さんは出張中だし多分でないし……弟は番号とメアド知らない……」
どうしよう、と私は呟いた、途方に暮れていたのだ。
どうしようもないと諦め気味の私が言った。
「うん、うん……病院嫌がられた……家に帰りたいって……どうしよ……」
祖母は呆然としている私を気遣いながら、私の代わりに今後の提案をしてくれた。
そして祖母との話し合いの末、明日母を連れて母の実家に赴き、しばらく実家で母を静養させる、という事に話がまとまった。
大丈夫かと私は数回問うたが、大丈夫と一点張りされた。
本当は全然大丈夫ではないということはわかっていたけど、甘んじてその言葉を間に受けさせてもらうことにした。
私は9歳の母にとって他人も同然だ、そんな他人といるよりも、実家に戻った方が幾分ましだろう。
今後の行く末が決定したので、祖母に幾つかの頼み事をして、私は家に入った。
「今あなたのお母さんに電話したよ」
リビングでおとなしく待っていた彼女にスマホを差し出しながらそう言った。
「……これ、電話?」
疑問形で問われて、そういえば母が9歳の頃どころか、私が9歳の頃にもこんな代物はなかったということを思い出す。
「うん、電話だよ。都会の電話はこういうものなんだ」
都会の物だからということでごり押すことにした。
「……そうなんだ」
納得した表情で彼女は電話を受け取って耳に当てた。
数分彼女は通話先の祖母と会話し、こちらにスマホを差し出した。
受け取った私は祖母と数回言葉をかわし、感謝と謝罪を最後に通話を切った。
「……さてと、お母さんから聞いたと思うけどあなたには今夜一晩だけうちに泊まってもらうよ? 今日送ってあげたいんだけどもう電車がないから」
「うん」
彼女は素直に首肯した。
「明日の朝、ここを出て電車と新幹線で◼︎県のあなたの家に行くよ、多分明日の昼には家に着くはずだから、安心してね」
「……」
無言で首肯、多分祖母がうまいこと話してくれたんだろう。
「そういえば私の名前、名乗って無かったよね? 私の名前は田中千代、あなたのお母さんの知り合いだよ。一応19歳の大学生だったり。まあ、一日だけどよろしくね?」
「……よろしくお願いします」
こくりと首肯、というかお辞儀かこれ。
19歳大学生っていうのは本当だけど、実は名乗った名前は偽名だったりする。
一応狂言の可能性も捨て切れていないのであえて偽名を名乗ってみた。
「今日は私のお父さんは帰ってこないけど、えーと……7時くらい? に私の弟が帰ってくけど、あんまり気にしないでね」
「……うん」
……とこんな感じで一応話がまとまった。
私はもう一度家の外に出た、今度は夕飯を買うためだった。
徒歩三分のところにあるコンビニで三人分の弁当を買って、帰宅。
家に入らず今度は父に電話をかけて見たが、案の定繋がらなかった。
数回試したところで都合良く我が弟が帰ってきたので、軽く手を振ってかなり訝しげな顔をしている弟に事情説明を開始した。
「と、いうわけで、お母さんは私達のことを綺麗さっぱり忘れてる」
「………」
弟は無言で唸っていた。
「……認識もねじ曲がってる、無理に本当の事を話してパニック起こされると怖いから、話合わせてね?」
ね? と軽く弟を威圧する。
癇癪持ちですぐにブチ切れる弟に対してこういう言動は避けたかったのだが、腹は背にかえられまい。
「………」
弟は未だ無言。
「……とりあえず、私の名前は田中千代、お前は田中ヨロズだ。本名は名乗るな……もし狂言だったらそれで判別がつく……と言っても、あれはガチの幼児退行だと思うけど」
「……本当に?」
「本当だ、見ればお前も受け入れざるを得ないだろう……くれぐれも刺激してくれるなよ」
「お父さんは」
「出張、電話も出ない」
「……わかった」
「覚悟はできたか? ならうちに入ろう、整理したいなら少しここにいても構わない」
「……平気」
「了」
家のドアを開き、ただいまと私は言った。
「これ、この名前、誰?」
コンビニ弁当を食べ終わった後、彼女が差し出してきたのは私の本名が書かれたダイレクトメールだった。
「あなた、田中さんだよね? なんで苗字違う人の手紙が来るの?」
「えーっと……」
うーん……見つかってしまったか……どうしよう。
下手なことを言って怪しまれるのは避けたいが……
「……本当は田中さんじゃないの」
と、睨まれる、あまり引きずると面倒なことになりそうだな。
「……まあ、そうなるね」
「……なんで」
「その名前は確かに私の本名だ、ただ私はその名前が嫌いでね。だからよく偽名を使うんだ」
とっさに誤魔化せなかったからもうどう誤魔化しても無駄だろうと、本当のことを言ってしまうことにする。
聞かれた直後に間違って入っていた手紙だとか、前に住んでいた人当ての手紙だとか説明していたらよかったんだろうけど、その説明をするには遅すぎるし。
「……?」
「都会じゃ良くあることさ」
真っ赤な嘘でゴリ押しする、無茶があるのはわかってるけど。
「私は私の本名が嫌いだ、特に名前に入っている『優』という字が気に食わない。優しくもなければ優秀でもないのにこんな字が自分の名前に使われているかと思うと吐き気がする。ついでに言うなら画数が多くて名前を書くたびいちいち面倒だ。試験の時も時間がもったいない。どうせならもっとシンプルかつ意味のない字を使って欲しかった」
と、一息に話す、彼女は若干引いているようだったが、そうなんだと小さくぼやいた。
「そういうわけだから、今まで通り田中と呼んでくれると嬉しい」
「……わかった」
「恩に着るよ」
「ところでこの名前ーーって読むんだよね?」
と、彼女は私の本名を読み上げる、読み方はそれであっていたのだが、私はあえて首を横に振った。
「いや、違う。よく間違われるんだがそれは『ゆう』じゃなくて『ゆ』と読む、そういうところも含めて嫌いなんだよね」
間違われるのは本当だったりする。
「そう……」
と、彼女は私にダイレクトメールを差し出した。
それを受け取ると同時に彼女から再び質問される。
「なんで田中千代なの?」
一瞬何を問われたのかわからなかったが、すぐにどうしてその名前を名乗っているのを聞かれていることに気づく。
「……ああ、田中はわかると思うけど本名の1字違い、千代は中学の頃使ってたハンネ……まあ、あだ名みたいな物だ」
千代は現在進行形で使ってる垢名だったりする、彼女が正気に戻った時に垢バレしたらいやだなと思いつつも結構いる名前だから大丈夫だろうとも思う。
最悪変えれば済むことだし。
一晩立って翌日となった。
予想していたが結局父とは連絡がつかなかった、留守電はあえて入れなかった。
大丈夫だから学校に行けと命じた弟はもう学校についているだろうか?
昨日ほとんど会話をせずにボロを出さなかった弟が衝動的に自殺したり事故を起こしていないことを祈ろう。
今日は火曜日、偶然大学の講義のない曜日で助かった。
都会の様子に目を回す彼女を引き連れいざ駅へ……とは行かずにまずは銀行に向かい、二人分の交通費を引き出した。
その後駅に向かう、何度か乗り換えて東京駅に到着した。
人混みに目を回す彼女を引き連れ新幹線の切符を大人二枚、自由席で買った、クッソ高いな。
新幹線に乗る前に、一応乗務員に正しい車両であるかを確認する、割と乗り間違えることが多いので念のため、だ。
新幹線に乗り込んで、自由席の窓際に彼女を座らせる、私はその横の廊下側の席に座って、隣の彼女に宣言した。
「今から私は寝る」
元々乗り物に乗ると睡魔が襲ってくる性質を持っているので、本気で寝るつもりだった。
起きていても会話が続かないだろうという理由も大きいが。
鞄に入れてあったヘッドホンを鞄のポケットに入れてあったiPodにつなぎ、ヘッドホンを装着した。
「……と言っても完全に寝るわけじゃないからーー駅につけば気づくし、着く5分前に目覚ましかけてるから心配しないで。眠かったらあなたも寝てて」
彼女が首を縦に降るのを確認してそれじゃあおやすみと目を閉じた。
「……ねえ」
某電子の歌姫が歌う少し前に流行った曲の合間にそんな声が聞こえてきた。
半ば沈んでいた意識が現実に浮かび上がり、私はうっすらと目を開く。
「……何? トイレ?」
ならばどこうと立ち上がろうとするが、違うと遮られる。
「……じゃあ、何」
一応、iPodを一時停止させてヘッドホンを外した。
「……昨日、田中さんのお母さんに会わなかったけど、どうして?」
あぁそれを聞いてくるかてめーが私のお母さんだよと寝ぼけた勢いで言いそうになるが、欠伸を咬み殺すふりをしてとどまる。
「……もういないから、それだけ」
「……いないの?」
「いないよ、昔はいたけど」
「どんな人だった?」
少し考えて答えた。
「……不幸な人」
「……不幸なの?」
寝起きで掠れる視界から彼女を外しながら答える。
「うん。まず結婚相手がダメだった、未だになんであの二人が結婚したのかわからん。見合いかと思ったらそうじゃないらしいし……デキ婚だったのかなって、何年か前から思ってる」
別に堕ろしてくれても構わなかったのになあ、とうっすらと笑った。
「……」
デキ婚の意味も堕ろすの意味もわからなかったのだろう、まあ中身9歳児にはわかるまい。
意味を教える気もなかった。
「……生まれた子供も二人揃って出来損ないだしね、運が悪い人だったよ。まあ、そんな感じ」
彼女は何も言わなかった。
「話、終わりでいい?」
問いかけとともに視線を向ける、首肯したのを確認して再びヘッドホンを装着し、iPodの一時停止を解除して目を閉じる。
ヘッドホンから響くアラーム音に目を開く、隣を見ると彼女は寝ていたので肩を叩いて起こした。
寝ぼけ眼の彼女の手を引いて新幹線の出口に向かう。
出口前で数分待機、窓の外で風景が流れる速度が遅くなり、完全に止まった。
開いたドアから駅に降りる。
改札を出ると、すぐに祖母と叔母の姿が見えた。
「お母さん」
横を歩いていた彼女が祖母に走り寄る、私はゆっくり歩いて彼女の後を追った。
「お久しぶりです」
と、祖母に頭を撫でられている彼女の横に立つと、叔母が無言で私の頭を撫でた。
「久しぶり……田中さん」
祖母が私の本名を言いかけて慌てて訂正した、実はその必要がほとんどないことを伝えておくことを、そういえば忘れていた。
「はい……本当に久しぶりです……」
祖母に右手に持っていた母の着替え一式が入っている荷物を手渡しんながら、よろしくお願いしますと囁いた。
祖母は力強く首肯してくれた、任せ切りになってどう仕様も無いくらい申し訳ない気持ちになった。
「では、私はこれで」
一歩、彼女達から身を引いた。
どうせならうちで昼食を食べて行ったらどうかと言われたが、丁重に断った。
「それじゃあ、また」
軽く一礼して踵を返す。
またねー、と無邪気にいう母の声に振り返らずに右手を上げて答えた。
ホームに逆戻りした私は椅子に腰掛け、新幹線を待ちながらつぶやいた。
「記憶が戻ったら、また会いましょう……戻ってくる気も起きないだろうけど」
あんな家が嫌だったから、幼児退行なんてものを起こしたのだろうし。
朝から機内モードににしっぱなしだったスマホをオンラインに切り替えると、父からの留守電が数件入っていた。
今更だよ、と思いつつ、私は電話をかけ始めた。