勅使河原 希の希望
本編とは別の、サイドストーリーです。
勅使河原、をテシガワラと読める人は少ないです。いつも読み方を聞かれては説明して、すごく申し訳なくなります。弟の蕪はそんなことで謝る必要はない、と私を叱りますが、相手に迷惑をかけてしまっている気がして、つい、謝ってしまうのです。
「ったく、そんなんだからダメなんだって」
蕪は私を心配してくれている。本当にごめんね。出来の悪いお姉ちゃんだからかな、やっぱり謝っちゃうんだ。
幼稚園のころから謝ることが癖になっていて、いつの間にか私の回りには誰もいなくなってしまった。誰のせいでもない、私のせい。謝ってばかりの人と居たって、楽しくないものね。わかってはいるんだけど…。
芯が無い私は、いつも嫌なことがあると、パパの書斎に逃げ込んだ。本に囲まれた薄暗い部屋の、どっしりと重く、落ち着いた木の机の下に隠れて、泣いてばかりいた。
ある時、泣きつかれてそのまま寝てしまったことがあった。目が覚めたとき、そこにはパパがいた。日も暮れて真っ暗な書斎。普段なら怖がっていたかもしれない、だけど、その時から私はこの空間に安らぎを感じていたとおもう。
パパは私を起こさないようにしてくれたのか、電気をつけずに、ただ、待っていてくれた。
「おはよう、希」
「パパ…」
パパはなにも言わないで、頭を撫でてくれた。大きな手に込められた優しさが伝わってきて、私はずっと泣いていた。でも、その涙は、悔しいとか、悲しいとかじゃなくて、もっと別な涙だった。
「あのね、パパ。わたし、かなちゃんみたいになりたいの」
「かなちゃん?」
「かなちゃんはね、いっつも元気で、友達もいっぱいで、わたしもそうなりたいなって、そしたら、さくらちゃんたちと遊べるのになって」
泣きじゃくりながら話した言葉はどう考えても言葉足らずだったのに、パパは真剣に聞いてくれていた。
「大丈夫だよ、希。今の優しい希のままなら、きっと良い友達が沢山出来るようになる」
「ほんとう?」
「あぁ。だから、希は希の思うまま、いろんな人に優しくしなさい。そして、友達ができたなら、その友達を大切にして、絶対忘れないようにするんだ。
この書斎の本には、優しい人たちのお話も沢山あるんだ。希が読めそうなのを、今度貸してあげよう。」
「うん!」
「でも、今度はちゃんと、ママにここにいることを言うんだぞ?いいかい?」
「うん!」
それから私は、家に帰るとパパの書斎にばかりいた。パパの貸してくれた本には、本当に沢山の主人公が、多くの人を助けて、命を落としたり、お姫様と結ばれたり、時には地位も名誉も捨てて、村の女性と結ばれることもあった。私はその冒険潭に憧れ、思いを巡らせ惹かれていった。でも、現実の私は物語のようには上手くいかず、よくパパに泣きついていた。口下手ですぐ謝る癖は未だに治せてない。でも、それでもね、パパが教えてくれたことを疑う気持ちなんてこれっぽっちもないの。
「えっと、勅使河原さん。大丈夫?」
不意に見えた景色は、白い天井だった。だけど、あの時はそれよりも、苗字で呼ばれたことに驚いたな。
「えっ、どうして?」
「いやー、廊下歩いてたらさ、倒れてるのを見つけちゃって、驚いたよ。先生は貧血だって言ってたけど、本当に大丈夫?」
「あ、ごめんなさい。はい、大丈夫、です。」
どうやら、放課後の委員会活動が終わった後に倒れてしまったみたい。外はもう日も落ちて…、あれ?
「じゃあ、僕はとりあえず先生を呼んでくるね。あんまり無理しちゃダメだよ?何かあったら手伝うからさ、何でも言ってね?」
涼ヶ原くんはそう言うと、静かに保健室を出ていった。私は慌てて時計を見る。針は夜の五時を指していた。放課後からは大体二時間は経っているのに、どうして彼は保健室に居てくれたの?そんなことを考えていると、保健室の扉が開き。先生がやってきた。
「ごめんね、席を外していて、起き上がれる?」
「あ、はい。大丈夫です」
「そう。頭とかは打ってないみたいだから、病院とかはいく必要はないけど、しっかり栄養とるのよ?」
「すみません…」
「いいのいいの!希ちゃんはお住まいどこら辺だっけ?」
「常盤町です」
「りょーかい。ちょっと待ってね」
先生は踊るように出入り口まで行き、首だけ廊下に出して誰かと会話している。
「うん、どうやら涼ヶ原くんもそこら辺らしいから、あなたたちは一緒に帰りなさいな。最近変質者も出てることだし」
「いえ!流石にそれは申し訳ないので…」
「でも、多分涼ヶ原くんが引き下がらないわよ?あの子、あなた抱えてやってきて、ずっと看病してたんだから」
「えっ」
「職員会議休もうと思ったんだけど、あの子が看てるから大丈夫ですってきかなくてね。折角サボれると思ったのにねー」
先生はそう言って、タハハ、と軽く笑った。
「とにかく、一緒に帰んなさいな。相手だって迷惑と思ってないんだから、あなたが恐縮に思うこともないのよ」
「でも…」
なおも渋る私に対して、先生は聞く耳を持たず、私を荷物と一緒にせっせと追い出してしまった。
しん、と静まり返った廊下。まだ10月なのに、その日はすごく寒かった記憶がある。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい、すみません…」
「謝らなくていいよ、好きでやったことだし」
「すみません…」
街頭だけが灯る道を二人で歩く。この時間は帰宅部も部活動の生徒も帰る時刻じゃないから、まったく人気がない。
「変質者ってさ、どうしてこの時期に出てくるんだろうね。寒いのに」
涼ヶ原くんが何気なく話をふる。わたしたちの通う中学校の帰り道に、コートだけを羽織った変質者が出たらしい。確かに毎年この時期に問題になっている。
「…どうして、だろうね」
「寒いときは家で眠ってたいなぁ。勅使河原さんは普段何をしてるの?」
「えっ?」
「同じクラスだけどさ、あんまり話したことなかったしさ」
「えっと、家では、ずっと、本を読んでます」
「へぇー、どんな本?」
「小説とか、特に、好き嫌いはありません」
「すごいなぁ。僕は文字を読むとすぐに眠くなっちゃってねー」
「…あの」
「ん?どうしたの?」
「…どうして、ずっと、看ててくれたんですか?」
「え?」
「私のこと、先生に任せて、帰ることもできたはずです。なのにこんな時間まで残っててくれて…」
勇気を振り絞って出した言葉。その言葉に対して、彼はいまいち理解できていないような顔をした。
「んっと、僕は先生と話があって職員室にいて、そこから帰ろうかなーって思ってたら、勅使河原さんが倒れてたんだ。それで、何かあったら大変だから、保健室まで連れていったんだけど…嫌だったかな?」
「いえ!そう言うことじゃなくて、どうしてそこまでしてくれたのかなって…そんなに話したことなかったのに」
「え?だって倒れてたから…ね?」
本当に事も無げに、彼はそう答えた。その時、涼ヶ原くんが、私の読んでいた本の主人公に見えた。一切の打算がない、優しい、でもその優しさに自分が気づいていないくらいの純粋さ。その姿に、息を呑まれた。
「…凄いんですね、涼ヶ原くんって」
「え?」
「…今日は、本当にありがとうございました」
「えっと、どう、いたしまして…?あ、いや、家まで送っていくよ。変質者のこともあるし」
「いえ、ここから家まではすぐ近くなので、大丈夫です」
「でも…」
「それに、いざとなったら、どこにいたって助けに来てくれそうですしね」
私の言葉の意味が伝わらなかったらしく、彼はきょとんとしていた。これ以上、迷惑をかけてはいけないと、私は別れを告げて、走って帰路につく。
あの日のことを、私は絶対に忘れない。作り話ではなく、目の前で起きたあの優しさを、私は今でも、誰かにできたらと思うから。
目が覚めると、私は空を見ていた。曇天の空。今日も湿った雰囲気をこの街は纏うのだろう。そんなことを考えていると、空を眺めている異常性にようやく気づく。
――私はなぜ外で寝ているのか?
「あら、起きたの?」
咄嗟に体を起こして声の方へ向こうとするも、立ち上がるときに足を引っ掻けて尻餅をついてしまう。どんくさいなぁ、私。痛む腰をさすっていると、笑い声がした。
「なんだ。ワタシのくせして随分ノロマなんだね」
声の主を見たとき、目を疑った。ケラケラと笑うその姿は、どこからどうみても、私そのものだったから。