第28話 試作椅子と現実の値段
翌日の夕方、俺は金獅子亭の昼営業を終えると、リリアと一緒にオーウェンの工房へ向かった。
昼の女性席は今日も忙しかった。冷やし果実酒と蜂蜜果実焼きは少しずつ評判になり、エミリアが連れてきた商家の女性たちも何度か顔を見せるようになっている。リリアの接客も日に日に良くなっていた。最初は緊張で声が硬かったのに、今では客の好みを覚え、自然に「今日は軽めにしますか?」と聞ける。
その成長を見るたびに、胸の奥が熱くなる。
俺は、ただ店を作りたいわけではない。
人が育つ場所を作りたいのだ。
前世の夜の店で、女の子たちが数字に追われて疲れていく姿を何度も見た。売上を作れと言われ、客の機嫌を取り、嫌な言葉を飲み込み、笑顔で席に戻る。もちろん全てが悪い店だったわけではない。誇りを持って働く人もいたし、努力が報われる瞬間もあった。
だが、守られていない子もいた。
だから今度は違う形にしたい。
そう思うほど、今日見に行く椅子が重要に感じられた。
椅子一つ。
たったそれだけ。
だが、その一つが働く子の姿勢を変え、客との距離を変え、店の空気を変える。
酒だけでは店にならない。
リリアが学び、オーウェンが作り、マルクが現実を見て、バルドが商売を読む。
俺の夢は、少しずつ俺一人のものではなくなっていた。
◇◇◇
オーウェンの工房に着くと、軒先に昨日の椅子はなかった。
代わりに、工房の奥から木を削る音が聞こえてくる。
一定のリズム。
刃が木を薄く削り、乾いた香りが夕方の空気に混ざっていた。旧商業区の裏通りは日が傾くと少し暗くなる。建物の影が石畳に伸び、遠くから荷車の車輪の音が聞こえた。
「入れ」
中から声がした。
俺たちは顔を見合わせ、工房へ入った。
作業台の前に、オーウェンが立っていた。
その横に、椅子があった。
まだ完成品ではない。塗装もされていないし、細部の磨きも足りない。だが骨組みは出来ていた。脚はやや太く、座面は少し広め。背もたれは緩やかに曲がり、全体として低く安定している。
派手ではない。
だが、強い。
見た瞬間、そう思った。
「これが試作ですか」
「ああ」
オーウェンは短く答えた。
「客用だ。まずは男が座る椅子から作った」
「女の子用ではなく?」
「客が落ち着かなければ、店は始まらん。だが客が落ち着きすぎても困る。そこを見る」
言葉はぶっきらぼうだが、目は真剣だった。
俺は椅子の前へ立つ。
木目は素直で、節も少ない。脚はやや外へ開いていて、倒れにくそうだ。背もたれは高すぎず、肩まで預ける椅子ではない。あくまで、会話をしながら座る椅子。
「座れ」
言われるまま、俺は腰を下ろした。
瞬間、少し驚いた。
安定している。
昨日の軒先の椅子よりも、さらに重心が低い。座面は硬いが、体重を受ける位置が自然だ。背もたれに軽く寄りかかると、だらしなく沈むのではなく、背中を支えられる感覚がある。
長く座れる。
でも、眠くなるほど緩くない。
「……すごい」
思わず呟いた。
オーウェンは鼻を鳴らした。
「まだ試作だ」
「でも、方向はかなり良いです。会話向きです」
「酒を飲むなら?」
「強い酒をゆっくり飲む席に合います。騒ぐ席ではなく、落ち着いて話す席です」
「なら、重さは?」
俺は少し立ち上がり、椅子を動かそうとした。
思ったより重い。
だが動かせないほどではない。男なら簡単に動かせるが、片手で軽々振り回すには向かない。重心が低いせいで、持ち上げにくい。
「暴れる客が振り回すには重い。でも店側が動かすことはできる」
「そう作った」
オーウェンは淡々と言った。
「ただし、女が動かすには重い」
「そこは客用だから?」
「ああ。女用は別に作る。あっちは軽くする。ただし逃げやすく、倒れにくく、足に引っかからない形にする」
リリアが隣で目を輝かせていた。
「私も座っていいですか?」
「これは客用だ。だが座れ」
リリアが慎重に腰を下ろす。
最初は少し緊張していたが、座るとすぐに表情が変わった。
「落ち着く……けど、ちょっと大きいです」
「女には大きい。客用だからな」
「でも、話す相手がここに座っていたら、安心して見えます」
その言葉に、オーウェンがわずかに反応した。
「安心して見える?」
「はい。ふらふらしない感じがします。酔っても、椅子ごと倒れにくそうです」
俺は内心で頷いた。
それは大事だ。
酔った客は姿勢が崩れる。椅子が軽いと、体重を預けた瞬間に傾いたり、立ち上がる時に引っかけたりする。転倒すれば周囲も巻き込む。女の子が隣にいる店では、そういう小さな危険を減らす必要がある。
「リリアの感想は重要です」
俺が言うと、オーウェンは黙って頷いた。
「次は女用を作る。座るのはお前だ」
「はい!」
リリアが真剣に返事をした。
その姿を見て、少し笑いそうになった。
彼女はもう、完全に店作りの一員になっている。
◇◇◇
オーウェンは作業台に図面を広げた。
昨日俺が持ってきた粗い図面の上に、赤い線や黒い印がいくつも書き加えられている。
「勝手に直した」
「助かります」
「入口から奥が見えすぎる。衝立を置くなら、ただ隠すな。客が入った瞬間に店の全体が分かりすぎると安く見える。だが隠しすぎると入りにくい」
「なるほど」
「ここは半分だけ見えるようにする。灯りを置けば、奥に興味を持たせられる」
俺は息を呑んだ。
灯り。
視線。
期待。
それは前世の夜の店でも重要だった。入口からすべて見える店は、安心感はあるが特別感に欠ける。逆に見えなさすぎる店は怖い。少しだけ見せて、少しだけ隠す。そのバランスが客を引き込む。
「オーウェンさん、店の演出まで考えられるんですね」
「家具屋を何だと思っている」
怒られた。
だが、声には少しだけ誇りが混じっている。
「店の椅子や棚を作るなら、人がどこを見るかも考える。見られ方を考えない家具は、ただの木の塊だ」
その言葉が胸に残った。
俺は酒と接客から場を見ている。
オーウェンは家具と視線から場を見ている。
違う道から、同じ場所に向かっている気がした。
「このカウンター」
オーウェンが図面を指差す。
「お前は黒服が立つ場所と言ったな」
「はい」
「なら高すぎるな。酒を出すだけなら高くてもいい。だが店を見るなら、視界を遮る高さにするな」
「確かに」
「中に立つ者の足元も考えろ。長く立つなら床板を変える必要がある」
「床板まで?」
「足が疲れれば目が鈍る。目が鈍れば危ない客を見落とす」
リリアが感心したように呟く。
「本当に全部つながってるんですね」
「そうだ」
オーウェンは短く答えた。
「店は一つの道具だ」
店は一つの道具。
それは強い言葉だった。
店を作るということは、大きな道具を作ることなのかもしれない。酒を出し、会話を生み、危険を防ぎ、人を帰す。そのための巨大な道具。
ならば、設計を間違えれば人を傷つける。
家具が人を傷つける道具になったように、店そのものも人を傷つける場所になり得る。
だからこそ、慎重に作らなければならない。
◇◇◇
ひと通り説明を聞いた後、オーウェンは試作椅子の横へ戻った。
「で、作るなら金がかかる」
来た。
現実だ。
夢と理念と椅子の話をしていても、最後はそこへ戻ってくる。
「はい」
俺は頷いた。
「試作は俺の勝手だ。金は取らん」
「それは助かります」
「だが本番は別だ。客用椅子、女用椅子、カウンター、酒棚、衝立、控室の戸、場合によっては床板。まともに作れば銀貨どころじゃ済まん」
オーウェンは木板に数字を書き始めた。
材料費。
加工費。
運搬費。
追加の職人の手間。
古い家具の撤去。
床の補修。
見ているだけで頭が痛くなる金額だった。
俺は商売の数字を見るのは好きだ。
だが、支出の数字は胃に来る。
「……高いですね」
「安く作ることもできる」
オーウェンは言った。
「だが、お前の言う店にはならん」
その一言は重かった。
安く済ませる方法はいくらでもある。古い椅子を集め、修理し、布をかけ、見た目だけ整える。最初はそれでも営業できるかもしれない。
だが、俺が作りたいのは「守る店」だ。
危険客に備え、働く子を守り、客が安心して会話できる店。
そこを削れば、理念が最初から嘘になる。
「分かっています」
俺は答えた。
「でも、今の俺には全部を一気に払う資金はありません」
「だろうな」
オーウェンは当然のように言った。
少し傷つくが、その通りだ。
「だから段階を分けます」
俺は羊皮紙を引き寄せた。
「最初から全席を完成させるのは無理です。まずは昼席と夜の試験席だけ。客用椅子は最低限。女の子用の椅子を優先。カウンターは改修程度。酒棚と衝立は簡易で始める」
オーウェンが俺を見る。
「続けろ」
「開店前から完璧にするのではなく、収益を出しながら改善します。ただし、安全に関わる部分は最初から削らない。控室の鍵、逃げ道、危険客を見られる配置、女の子用の椅子。そこは優先します」
言いながら、前世の店を思い出していた。
最初から完璧な店など少ない。
多くの店は、営業しながら直していく。
ただし、後回しにしてはいけないものがある。
安全。
信用。
従業員の扱い。
そこを削ると、後で必ず高くつく。
オーウェンはしばらく黙っていた。
やがて、低く言った。
「悪くない」
「本当ですか?」
「全部を安くしろと言う若造なら、ここで帰していた」
危なかった。
俺は内心で冷や汗をかく。
「金がないなら、優先順位をつける。それは悪くない。ただし、自分に都合のいい優先順位にするな。使う者の順番で決めろ」
「使う者の順番……」
「まず働く者。次に客。最後に見栄だ」
その言葉に、俺は思わず黙った。
まず働く者。
次に客。
最後に見栄。
夜の店では、逆になりがちだ。
まず客に見せる派手さ。
次に売上。
働く子の使いやすさは後回し。
それでは駄目だ。
オーウェンは家具職人だが、店作りの本質を突いている。
「覚えておきます」
俺は深く頷いた。
「本当に覚えろ」
「はい」
リリアも真剣な顔で頷いていた。
「私も覚えます」
オーウェンは少しだけ目を細めた。
「お前が言い続けろ。男はすぐ見栄を張る」
「はい」
リリアが力強く返事をする。
俺は苦笑した。
否定できない。
◇◇◇
工房を出る頃には、外は薄暗くなっていた。
試作椅子はまだ工房に残してある。女の子用の試作椅子は、明後日までに骨組みを作ると言われた。俺たちは次に来る時までに、店の初期段階で必要な家具の優先順位を書いてくることになった。
宿題が増えた。
だが、不思議と嫌ではない。
むしろ楽しい。
考えることが増えるほど、店が現実に近づいている気がする。
リリアは歩きながら、何度も自分の足元を見ていた。
「どうした?」
「椅子の高さとか、足元とか、今まで考えたことなかった」
「普通はそうだよ」
「でも、働くなら大事なんだね」
「うん」
「私、もっと気づけるようになりたい」
リリアの声は真剣だった。
接客を学び始めた頃の楽しさとは、少し違う。
今は、自分が働く場所を自分でも考えようとしている。
それが嬉しかった。
「リリアはもう気づいてるよ」
「そうかな」
「二階の控室に窓があった方が落ち着くって言っただろ。あれは俺じゃ気づかなかった」
「本当?」
「本当」
彼女は少し照れたように笑った。
「じゃあ、これからも言う」
「頼む」
旧商業区の通りを抜けると、中央区画の灯りが見えてきた。
夕方のルミナスは、昼とは違う顔をしている。仕事を終えた者たちが酒場へ向かい、商人たちは店を閉め、冒険者たちは依頼の成果を語りながら歩いている。通りの灯りが一つ、また一つと点き始め、街に夜の気配が降りてくる。
夜。
俺がいつか支配したい時間。
いや、支配という言葉は少し違うかもしれない。
俺が作りたいのは、夜を安全で楽しいものにする場所だ。
酒に怯えず、金に潰されず、働く子が笑えて、客も少しだけ本音を出せる場所。
そのために、今日は椅子一つの重さを学んだ。
◇◇◇
金獅子亭に戻ると、夜営業の真っ最中だった。
店内には冒険者たちの笑い声が響き、肉の焼ける匂いと酒の香りが濃く漂っている。昼の女性席の柔らかさとは違う、熱のある空気だ。
マルクは忙しそうに動いていたが、俺たちを見ると顎で奥を示した。
「終わったら話を聞く」
「分かりました」
俺とリリアはすぐに手伝いへ入った。
氷入り蒸留酒。
冷やし果実酒。
肉料理と小ジョッキのセット。
金獅子亭の営業は、以前より複雑になっている。だが従業員たちも慣れ始めていた。最初は戸惑っていた氷の扱いも、今では手順ができつつある。
店は変わる。
人も変わる。
最初は異物だったものが、少しずつ日常になっていく。
それを見ていると、自分の店もいつか作れる気がした。
営業後、俺はマルクとバルドに今日の話をした。
バルドはまた当然のように現れた。
もう驚かない。
「試作椅子か」
バルドは興味深そうに言った。
「オーウェンがそこまで動いたなら大きい」
「資金の話も出ました」
俺は数字を書いた羊皮紙を広げる。
マルクが覗き込み、すぐに渋い顔をした。
「高いな」
「はい」
バルドは落ち着いて見ていた。
「だが妥当だ。むしろ腕を考えれば安い」
「これで安いんですか」
「良い職人の仕事は高い。安く買おうとすれば、信頼を失う」
バルドらしい言葉だった。
「では、資金をどうするかだな」
その一言で、場の空気が少し変わった。
避けていた現実。
俺の店を作るには、金が足りない。
ビールの利益はある。
氷入り酒の収益も増えている。
冷やし果実酒と菓子も順調だ。
だが、それでも店舗契約と改装費には届かない。
「借金はできる」
バルドが言った。
「私が出すこともできる」
マルクが腕を組む。
リリアが少し不安そうに俺を見る。
俺はすぐには答えなかった。
バルドから金を借りる。
それは最も現実的だ。
だが、同時に最も危険でもある。
金を借りれば、関係が変わる。
協力者から債権者へ。
商売の世界で、金の貸し借りは主導権に直結する。
「条件を聞いても?」
俺が尋ねると、バルドはわずかに笑った。
「冷静だな」
「怖いので」
「良いことだ」
彼は指を組んだ。
「今すぐ全額を貸すこともできる。だが、それでは君のためにならない」
「というと?」
「自分で資金を作る経験が必要だ。店を作る前に、客から金を集める力を証明しなければならない」
「つまり?」
バルドの目が商人のものになる。
「開店前会員を売れ」
一瞬、空気が止まった。
「開店前会員?」
マルクが眉をひそめる。
「店もないのに客から金を取るのか?」
「正確には、未来の席を売る」
バルドは静かに言った。
「レン君の店ができた時、優先的に入れる権利。限定酒を飲める権利。名前を記録する権利。そういうものを、今のうちに売る」
俺は息を呑んだ。
前世で言えば、会員権や先行予約、クラブの初期メンバー制度に近い。
店がない段階で、未来の価値を売る。
リスクはある。
だが、強い。
「……それ、使えます」
俺は呟いた。
「金獅子亭の常連、女性客、商人、冒険者。今のうちに応援してくれる人を集める。単なる借金ではなく、最初の顧客を作る」
バルドは満足そうに頷いた。
「そうだ。資金調達と顧客作りを同時に行う」
マルクが感心したように唸る。
「えげつねえが、面白いな」
「ただし、信用が必要です」
俺は言った。
「店ができなければ詐欺になる。特典も明確にしないといけない」
「その通りだ」
バルドは笑った。
「だから慎重に設計する必要がある」
リリアが小さく手を上げた。
「あの……それって、女の人も入れる会員にするんですか?」
俺はリリアを見た。
大事な質問だった。
夜の店の会員と言うと、男客を想像しがちだ。
だが今の流れなら、女性客も巻き込める。
昼営業、冷やし果実酒、菓子、落ち着いた席。
「もちろん」
俺は答えた。
「昼の女性会員も作る。夜だけの店にはしない」
リリアはほっとしたように笑った。
バルドが目を細める。
「それなら、客層を分けた二種類の会員が考えられるな」
「昼会員と夜会員」
俺はすぐに羊皮紙へ書き込む。
昼会員。
女性客、商家向け。
冷やし果実酒、菓子、落ち着いた席、商談利用。
夜会員。
酒好き、商人、冒険者上位、会話席、限定酒。
さらに特別会員。
高額。
優先席。
限定ボトル。
名前を記録。
前世の知識が一気に動き始める。
指名制度。
ボトルキープ。
会員ランク。
限定イベント。
ただし、今の段階でやりすぎると危険だ。
まずはシンプルに。
信用を壊さない形で。
「やります」
俺は言った。
「開店前会員を作ります」
マルクがにやりと笑った。
「いよいよ店らしくなってきたな」
バルドは静かに頷いた。
「まずは案を作りなさい。金額、特典、人数制限、返金条件。曖昧にするな」
「はい」
リリアが少し興奮した様子で言う。
「私も手伝う。女性客に聞いてみる」
「頼む」
こうして、新しい課題が生まれた。
家具の資金。
店舗契約。
開店前会員。
夢はまた一歩、現実に近づいた。
だが同時に、危険も近づく。
未来の店を売るということは、未来に責任を持つということだ。
失敗すれば信用を失う。
成功すれば、開店前から常連を持つ店になる。
俺は羊皮紙の上に、最初の文字を書いた。
――創設会員制度。
その瞬間、胸の奥で何かが震えた。
ビールを出した時とは違う。
氷入り酒を売った時とも違う。
これは、店そのものを売る第一歩だった。
まだ存在しない店の価値を、人に信じてもらう。
それこそが、俺が本当に試される商売なのかもしれない。
翌日。
俺は金獅子亭の常連たちに向けて、初めて「未来の店」の話をすることになる。
それは、後に異世界初の高級夜店の伝説として語られる、最初の創設会員募集だった。
お読みいただきありがとうございます。
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