マグカップに転生したら、毎朝、体に熱い液体を注がれて動揺してるけど、これコーヒーだから!変な意味じゃないから!
気がついたら、マグカップになっていた。
いや待って。今なんて言った?もう一回言うね。マグカップになっていた。
前世の記憶は多少残っている。名前は葉月、二十八歳の会社員で、部屋は散らかり放題、洗濯物は床に積まれ、食器は一週間放置され、ゴミ出しは月一回。ある日、寝坊して駅の階段を駆け下りて、転んで、頭を打って、死んだ。
救いようのないバカだ。異世界転生ものの主人公って、トラックに轢かれて死ぬのが定番じゃない?私は階段。階段で転んで死亡とかダサすぎる。しかも転生先が勇者でも聖女でもなくマグカップ。神様、私なにかしましたか?
今、私は雑貨屋の棚に並んでいる。周りには花柄、ドット柄、キャラクター柄のマグカップたち。私は白い無地。一番地味な量産品。398円。
視界はある。なぜか360度見渡せる。聴覚もある。でも、動けない。話せない。チート能力どころか、基本スペックが置物と同等。
三日間、誰も私を手に取らなかった。
いや分かるよ。私が客でも、この地味なマグカップは選ばない。隣のスヌーピー柄のほうが可愛いもん。
四日目、男性が私を手に取った。三十代前半、黒縁メガネ、ジーンズにセーター。きれいな指をしている。
「これ、シンプルでいいな……たしかあの子も柄物は嫌いって言ってたっけ」
この場所にも飽きてきたところなので買ってくれるならありがたい。私をレジに持っていく彼。398円。うん、やっぱり安い。
彼の部屋はワンルームマンション。六畳くらい。でも、異様にきれいに片付いている。本棚には本がジャンル別に並び、デスクには何も置いていない。床には、ホコリ一つ落ちていない。
前世の私の部屋とは真逆だった。こういう几帳面な人、なんか懐かしい気がする。
彼は私を洗って、食器棚に置いた。
「よろしくね」
優しい声だった。よろしくされた。マグカップとして。
翌朝六時、彼は私を食器棚から取り出した。コーヒーメーカーで淹れたコーヒーを、私に注ぐ。
熱い液体が、私の中に入ってくる。
……いや待って。今の表現、誤解を招きそうだから言っておくけど、これコーヒーだから。普通にコーヒー。私はマグカップで、マグカップの中にコーヒーが入るのは当然の現象だから。変な意味じゃないから。
彼は私を持って、窓辺に座った。両手で包むように持つ。温もりが伝わってくる。
コーヒーを一口飲むたびに、彼の唇が私の縁に触れる。
……だから変な意味じゃないってば!マグカップで飲み物を飲むとき、唇が縁に触れるのは物理的に不可避でしょ!?私の意思とか関係ないから!
でも、なんだろう。悪い気はしない。むしろ、心地いい。彼の手は温かくて、大切に持ってくれている感じがする。
飲み終わると、彼は私を洗った。指が私の内側をゆっくり、やさしく何度もなぞる。
…………。
いやだからコレは食器を洗う行為であって、それ以上でもそれ以下でもないの!衛生的に正しい行動なの!なんで私こんなに動揺してるの!?
それからの朝は、いつも同じだった。六時に起きて、コーヒーを注がれ、窓辺で彼の手に包まれ、空になって洗われて、また棚に戻る。
前世の私なら「毎日同じルーティンとか息苦しくない?」と言っていただろう。でも、マグカップの私は、この規則正しさがなぜか心地よかった。
そして、気づいてしまった。
彼が私を両手で包むたび、胸が——いやマグカップだから胸ないけど——なんかこう、キュッとなる。この感覚に名前をつけるなら、たぶん『好き』なんだろう。
マグカップが人間に恋愛感情を抱いていいのかは知らない。倫理的にどうなのかも分からない。というか前例がない。でも好きなものは好きなので仕方ない。
ただ、一つ問題がある。
私はマグカップだ。告白できない。デートに誘えない。手も繋げない。というか手がない。仮に関係が進展したとして、どうなる?彼氏がマグカップ?クリスマスにマグカップとディナー?結婚式で「マグカップさんを妻として迎えますか」?無理がある。物理的にも社会的にも無理がある。
……まあいいか。マグカップに未来設計とか関係ないし。今が幸せならそれでいいじゃん。
そう思っていた矢先だった。
ある日、彼が誰かと電話をしていた。相手は友人?らしい。
「いやー、全然ぼっちだよ。新しい彼女とか、そういうのはいいかな」
「まだ、引きずってるのかもなあ。前の子のこと」
「名前?葉月って言ってた」
……は?
私の中のコーヒーが、急速に冷えていく気がした。いや気温は変わってないはずだけど、体感温度が絶対零度。
葉月。私の名前。その瞬間、霧が晴れるように記憶が蘇った。
「もう一年以上前になるけど……付き合って二ヶ月くらいだったかな。まだお互いの部屋にも行ったことなくて、連絡先はスマホだけでさ」
待って待って待って。
「ある日突然、LINEも電話も全部繋がんなくなって。ブロックされたのかと思った。振られたんだろうな」
それは違う。死んだんだ。
「めちゃくちゃずぼらな子でさ。でも、それが可愛かった。俺が几帳面すぎるから、あのくらい適当な子といると、バランス取れて良かったんだよね」
この人、私の前世の彼氏だ。
思い出した。マッチングアプリで出会って、付き合い始めて二ヶ月。まだ関係は浅かったけど、すごく惹かれていた。
私が死んだあの日の朝、彼からLINEが来ていた。「今度の週末、うち来ない?」って。嬉しかった。浮かれきった私は返事をする前に、階段から落ちた。
つまり彼は、私に既読無視されたと思っている。部屋に誘って振られたと思っている。
違う。振ってない。死んだだけ。死んだだけなんだってば。
「また会いたいんだけどな。謝りたいんだ。俺が几帳面すぎて、窮屈にさせちゃったのかなって」
違う。窮屈じゃなかった。むしろあなたの几帳面さ、好きだった。私がずぼらすぎるから、バランス取れて良かったの。お互いに。
でも、私はマグカップで、何も伝えられない。声も出せないし、動けない。「私です」と叫ぶことも、「ごめんね」と謝ることも、「好きだった」と伝えることもできない。
泣きたかった。でも、マグカップに涙腺はない。
それから、毎日が複雑になった。彼の手の温もりを感じるたびに幸せで、同時に切なくて、でもやっぱり幸せで、感情が渋滞している。
好きな人に毎日たくさん触れてもらえる。でも私だと気づいてもらえない。これは幸せなのか不幸なのか、哲学的すぎて分からない。
一ヶ月が過ぎた。
ある朝、事件が起きた。彼が私を洗っているとき、手が滑った。
私はシンクに落ちた。ガチャン。陶器が割れる音。持ち手が取れて、本体には大きなヒビが入った。
「あ、やっちゃった」
彼が私を拾った。指でヒビをなぞる。
「ごめん。もう、使えないな」
彼は、私を持ち上げ、ゴミ箱の方向に歩き出した。
あ、これって...ちょっと待って。捨てるの待って。
こんな急に終わるのは嫌だ。ここで彼との時間も終わってしまうのか。
でも、彼の足が止まった。
「いや、待てよ」
彼は私を見つめた。ヒビの入った私を、じっと。
「捨てるの、もったいないな。このマグカップ、やっぱ好きなんだよな。シンプルで、飾り気なくて」
彼は私を棚に戻した。
「修理、できるかな」
翌日、彼は金継ぎのキットを買ってきた。
割れた部分を、漆で繋いでいく。丁寧に、時間をかけて。指が私の表面を撫でる。痛みはない。むしろ、心地いい。
「葉月とも、こうやってやり直せたらよかったな」
彼がつぶやいた。
「もしかしたらスマホを無くしたとかだってあるし、連絡先、一つじゃダメだった。もっとちゃんと、繋がっておくべきだった」
……泣かせないでよ。泣けないんだから。マグカップだから。
金継ぎが終わった私は、金色の線が入った、不完全なマグカップになった。ヒビの跡が、金色に光っている。
彼が微笑んだ。
「これ、前よりさらに好きになったな。完璧じゃない方が、美しい」
その言葉で、私は気づいた。彼は、完璧じゃない私を愛してくれていたのだと。前世で、私はそれに気づけなかった。もっと深く繋がる前に、階段から落ちた。バカだ。本当にバカだ。
でも、今の私は彼のそばにいる。マグカップとして。毎朝、彼の手に包まれて、彼の唇に触れて、彼の温もりを感じられる。
これって、ある意味では前世より近くにいるんじゃない?
……いやそういう問題じゃないんだけど。人間に戻りたいかと聞かれたら戻りたいんだけど。でも、彼のそばにいられるなら、マグカップでも悪くないかもしれない。
数日後、彼は私にコーヒーを注いだ。金継ぎ後の乾燥が終わり、修復された私に、初めてのコーヒー。
「おはよう」
そう言って、窓辺に座った。両手で包むように持って、一口飲む。
彼の手の温もりを感じる。彼の唇が私に触れる。
これを「幸せ」と言い切る勇気は、私にはまだない。でも「不幸」とも言いたくない。だからとりあえず、今は…悪くない、と思っておく。
〈了〉




