0.誕生
No.0 神
「名前一つで笑ってくれてよかったと、僕は思う」
今日は白い。
世界が乳白色に染まり、空と陽光だけが鮮やかに色づいていた。埃の匂いがする森の中、真っ白な森の中、目の前の人間は私に尋ねた。というよりかは、独りでに結論を述べてはにっこりと笑う。
「僕はもうすぐ死ぬんでしょう。ええ、存じておりますとも」
『……どうして、そう思ったんです?』
私は不思議に思って彼にそう訊く。色のない塑像のような彼の姿は、美醜の判別がつかない私でも何となく綺麗だと感じた。
彼は不思議だった。
私にはわからない要素がひとつの華奢な体躯に詰め込まれて、今にも破裂しそうなのに静寂を保っているのだ。時々見せる笑顔も、泣き顔と大差ない。だから興味が出たのかもしれない。
「僕、ひいてはこの体の総人口に影響があると思ったから。転ぶときと同じです。この体が死ねば、この体の住人が消滅しますしね」
厄介だ、と口角を上げる。
『貴方の……個人のお名前を、お伺いしても?』
「はい。僕は朔と申します」
よく微笑む人だ、と私は思った。死の間際、これほど穏やかに笑うだろうか。寿命でもなく、誰かに看取られてるわけでもなく、ましてや心の方は重量を超えた腐った橋同然なのに。
彼は壮絶な怒りを感じている。そして、己の生涯を深く嘆いている。もう橋は木屑を零し、危なっかしい軋み音を立てている。
途端、彼は私の目を見た。
「貴方はきっと、死神ですね」
『あの……』
「存じておりますよ。僕だけは、貴方のことを知っています。何もない空っぽで空虚な貴方には、まだ理解しえないものの方が多いでしょう。しかしそれでいいんです。何も知らなくていいんです。知ると、辛くなりますよ」
__空虚?どうして。
私は恐らく彼よりも長く生きているはず。数多の物語を……いや、死人の記憶を眺めてきた死神だ。多重人格とはいえ、まだ幼いであろう彼の言葉が理解できずに私は戸惑った。
そうだ、彼は一体いくつだろう。
きめ細かい肌に、力のない瞳。たまに柔らかく垂れる睫毛も絹のような白さだ。短く切った髪はセンターで分けている。体格は女性に近く、腕も私が触れれば折れそうなほど細い。背は……さほど高くはない。160センチ代。私の目が確かなら、この子は16歳ほどだろう。まだ若いのに、十分生きたと思わせる相貌。
私は彼のことを理解しなければならない。そんな使命感が腹の奥から這い上がって来る。相対的に、恐怖に似た強い圧迫感が喉を委縮させた。
木漏れ日が白い椅子を照らす。まだ話を聞きたかったので、彼にはちょうど良く、私には小さすぎるその椅子に腰かけた。
白の小さな机の向かいに、彼は笑って座っている。
『……貴方は、学業以外に何かしておられましたか』
「ええ、小説を書いていました。誰も読まない、僕だけの小さな物語です」
『……嘘ですね。貴方はひとつの世界を造り上げていました。壮大で、悲しい御話を』
いつの間にか彼は黒いシャーペンを握り、手帳にペンを滑らせていた。紙とシャー芯の触れる音が耳に心地良く、しばらく黙ってその様子を眺める。
そうして三年経過し、朔は顔を上げた。一度も日は暮れず、時間は経過せず、小鳥は永遠に歌ったまま月日だけが三度巡ってしまった。
彼はもう笑っていなかった。目尻だけが微笑むような真似をして、薄い瞳が細められる。
「……随分と時間が経ってしまいましたね。貴方はずっと見ていたのですか?」
『ええ。それが死神の務めですので、どうぞお気になさらないでください。私は、貴方と会話するのが好きなのです。言葉はありません。目も合いません。それでも、無限に語らう時間があるという、そんな今が楽しいと思うのです』
彼の瞳に映る私は、石灰のようなローブを纏う闇だった。目深に被ったフードの奥に、およそ人間らしき形はない。
すると、朔は寂しそうに口角を上げた。
「貴方は……僕の傍にいるのですね。ごめんなさい。僕では力不足なようでした」
その言葉に、私は何故か突っぱねられたように感じた。違う。何らかの齟齬を来しているのか。その違和感を、私が寂しさに変換してしまっただけだ。そんな私の心情を知ってか知らずか、彼は遠い目をして目を逸らす。
「……あのとき仰ったとおり、僕は幽玄な物語を書いておりました。僕は俗世と相容れない、厄介者だったんです。社会不適合者といいますか、その表現は好まない人も多かったのですが……貴方は違いますね」
『ええ。私は人間ではありませんので、彼らが形成する社会に左右されるのは精々仕事場くらいですよ』
「ふふっ……そうでしょうね。僕も、そうなりたかったんですよ。だから貴方が無知で自由で、そしてこれから苦痛のしがらみに囚われると知っている」
初めて聞いた彼の笑い声は、どこか気品のある晴れ晴れとした声だった。
やはり、人は楽しいと笑うのだ。楽しい時には心は楽しい状態にあり、ほんの一瞬羽のように軽くなる。そのとき、思わず笑うらしい。
しかし、彼は今度こそ表情筋を解き死人のように無表情になった。
「……少し、昔話をしましょう」
僕は、普通の人間でした。人の仔でした。純粋無垢で、愛嬌があり、多少お転婆な人間。今では人間という愚かな造形物にしかみえませんが。
僕は普通の家庭で、普通ではない過程を経て育ちました。
両親からの愛を信じて疑わぬ可愛らしい子です。
愛されている、僕は幸せだ。ずっとこのまま生きてゆくのだ。
温かい家で、温かく美味しいご飯を一日三食頂き、規則正しく生活し、日光を浴び公園で遊ぶ。そして帰宅し、多少の娯楽と本を嗜み、柔らかく暖かなお布団にくるまって寝るのです。ええ、太陽の香りがしました。今でも覚えています。
そんな平凡で満ち足りた毎日が続きました。
そして、僕は成長し自我が芽生え始めました。
人の言うことに、異を唱える様になります。
規則に疑問を感じる様になります。
それは勿論両親にもです。その頃、僕は知りませんでした。親もまた人類の末裔であり、ただの人間であることなど。
ええ……そうですね、諍いや衝突が増えました。
母は暴言を吐き、父は言葉の一つにも耳を傾けませんでした。
与えられてばかりの僕は、欲しいものを何一つ貰えませんでした。
彼らに歯向かえば、罰を与えられました。
自我を殺して生きてきました。
夜に独りで泣きました。涙を出すと、楽になるからです。暑苦しい夜でした。蝉と蛙が煩いんです。
そして中学の時、僕は存在を否定されました。詳細は割愛しますが、その頃に悟ったのです。
ただ、義務で育てられたのだと。
色々ありましたが、大雑把に言えばそれを契機に、僕は対人恐怖症になりました。
愛を忘れ、恋心を失い、悲しみを捨て、心を圧縮し機能停止させました。
人前に出ると、喉が委縮し脳内は白紙に帰結します。それを甘えだと叱られたので、口角が上がるよう努めました。
人間は今でも嫌いですよ。煩わしいことこの上ない。
しかし、不思議ですよね。こんな些細な裏切りなら、僕はここまで重症化しなかったでしょう。ですが、僕は少々教養がある人間でしたので、不朽の名作と呼ばれる数々を幼き頃に咀嚼していました。ことに、親がホラーばかり見ていたものですから、そういったマイナーな発想も立派にできるわけです。
ある人は親からの虐待に耐え切れず、幼少期に妄想の国を作りました。国の住人は幼い少女を愛し、そして成長するごとに忘れられました。そしてあるとき、彼らは姿を現し、愛しい彼女を喰らおうとしました。彼女はひとりを包丁で刺しました。それが愛のカタチでした。
またある人は、世界を愛し慈しむ神でした。神は世界の綻びを繕う度に、自らが傷つきましたが、世界を愛していたので構いませんでした。しかし、あるとき神は疲れてしまいました。なので、世界を破壊することで不死身の己から存在価値を奪い、死のうとしました。神は世界の住人である我が子に殺され、また新たな神が世界を愛し始めました。
世界の住人は第一の神__そして母でもあった者を手にかけたことで、悲嘆に暮れました。
__ああ、バレてしまいましたか。そうです。神の御話は、僕が創った世界の話です。
僕は歪んでしまいました。これ以上ないほどに。
だから、僕は一度死にましたよ。そしてまた生き返ったのです、僕として。
生まれついた名は朔ではありません。これは自分で与えた、唯一己で手に入れたものの一つです。
……自分の人生に自分が囚われることが苦しかったので、”彼女”は死にましたよ。ホスト人格としての冠を脱ぎ、僕に渡すと、そのまま廃人となってしまいました。これ以上は耐え切れぬ生き地獄だったのでしょう、仕方ありません。死ぬことでしか生きられなかった。機会があれば目を覚ますでしょう。
まぁ、そういうわけです。誰かの都合で生まれた命はこうも間違って、人間から逸脱した何かに昇華されました。これは偶然でも必然でもありません。
偶然によって必然が引き起こされ、その全てが全くの偶然だった。そしてそれも、必然の因果関係に則っているのです。
僕は人間の心を捨てました。人間として生まれつきながら、人であることを剥ぎ取り、友人に人間かどうか真剣に疑われるほど巧妙に、人間に紛れました。
僕に人間という生は、負荷が重過ぎたんです。
僕は人外になりました。いつしか自分を人間と認識できなくなり、生物学上親である二つの人間に殺意と憎悪のとぐろを渦巻かせながら笑顔を張り付けて過ごしました。
殺したかった。死ねばいいのに、死なせたかったのに、全てを奪い血に汚れ嘲笑してやりたかったのに、僕は自分の腕に一生傷を作って終わった。
思い出したんですよ、殺せば法が黙っていないと。
もう、やりきれなかった。やるせなかった。生きる意味を尋ねました。空に、誰にでもなく、独り言ちました。
何故生まれたのか。
生かされながら、この世に反抗心と悲嘆、苛立ちばかりが募りました。
もうどうでもいい。それなら、僕が世界を作ってしまえばいいだけの話。僕が、僕は、僕を、全てを、醜悪に育て美を読解するのです。
……ええ、大丈夫ですよ。少々興奮してしまったようで。腕も、痛くありませんよ。傷は深いですが、まぁ見てくれだけです。
僕は醜い内面を持ち合わせています。人間と同じ赤色がこうして溢れるのも、その所以でしょう、性でしょう。
僕は、ええ。世界を作りました。僕はその世界が大好きでした。初めて愛すことができました。愛しくて堪らなかった。悲しかった。その愛しさが脆く見え、怖くて、悲しくて、希望の光が無限に溢れ出てきたのです。
その小説は、僕の人生の同伴者です。
僕は言語化能力を磨き、己の全てを、生まれ落ちた因果を、最大の熱量を持って世界に落とし込みました。
彼らは仲間です。人外です。死と隣接していながら、弱者は淘汰されるものの強者は死から遠ざかる世界。
初めから、醜くして生まれてきた美しいモノ達。
初めから、何も持っておらず愛されなかったモノ達。
初めから、傷つけられ皹しか知らないモノ達。
初めから、終わりまで信じることができる存在を得るモノ達。
羨ましい、そう思える存在が成立したのでしょうね。後に分析してみれば、彼らの要素の端々に僕の本音が現れていました。これが創作の良い処。僕は本当に人間でも人外でもないのだなと、早晩気づく羽目になります。
「……彼ら人外を描く中で、僕は気づいたのですよ」
私は黙って彼の興味深い話に耳を傾けていた。まるで物語の続きをせがむ幼子のように、世界観に引き摺り込まれて虜になっていたのだ。彼はそんな私に苦笑し、ペンを置く。
カタン、と冷たい音がしても私は少しも高揚が抑えきれなかった。
「……彼らは、死ぬ意味を捜している。生きる意味など発想に無いんです。半ば不死身の彼らは、死ななければ明日が来るんですから。未来に予定がある、可能性がある、それを捨てる理由もない。彼らは言いますよ、『何で死ぬんだ』と。死ぬ意味がない、だから生きる。人間とは真逆で……同じように重く醜く、悍ましい感情の渦巻くところでした」
朔は瞼を閉じ、その思い描く色を味うように徐々に笑みを深める。
「ええ、ええ……美しいと思います。……ところで、紅茶を持っていますか?」
『はい、勿論淹れて差し上げます。続きをお聞かせ願えますか』
私の言葉に、彼の表情は微動だにしなかった。ただひとつ礼を述べると、不慣れな私の手つきを見守るように話してくれた。
「……僕は人格が分かれました。理解を深めるために、自らを理解不能なほどに異様な存在へ仕立て上げたんです。それはまた、僕を守るための防衛反応とも言えます。僕は滅多に表に出ないように、隠れました。本当の友情が煩いから。僕はもう、人間関係が疎ましくて仕方がなかった。疲れてしまったので、小説にその節を落とし込みました。いつしか、人間が実験台にしか思えなくなったのです」
話が中断すると嫌なので、私は細心の注意を払って彼の鈴のような声に耳を傾け、慎重にお湯を注ぐ。紅茶パックに小さな滝が直撃すると、赤い染みがお湯に広がっていった。
「一人だけ__友が、おりました。勝手を申してよいのなら、彼女は僕と同じでした。しかし、彼女は尽く不運に見舞われているのです。僕はそれが悲しかった。それはつまり、彼女を人間として見れていないというところでした……」
『……彼女は、一体何だったのでしょうか?』
一瞬、彼の瞳が狼のように黄色く見えた。しかし左目だけ、湖畔のように水面を通して見る緑の色をしていた。
オッドアイ?
「彼女は幽霊でしたよ。そういう、半端な存在としては僕と大差なかった……ええ、そうとしかもう見えないのです。僕は他人との認識の差を感じ始め、余計に対話が苦手になりました。期待を放棄したからとも言えますね。こんな戯言、真に受けたとして……本質まで、誰が真剣に理解できるというのでしょう?」
『私は可能です』
紅茶を差し出せば、彼は目を瞬かせる。そして、私は信じられない気持ちに思わず恐怖を感じた。
彼が笑ったのだ。嘘偽りなく、しかしそれでも尚悲しそうに。本当に幸せそうな目をしているのに、微笑みにはもう悲劇の傷跡がへばり付いていたのだ。
「そうでしょうね!ええ、知っていますとも。……あぁ、いい香りだ。紅茶をありがとうございます。初めてにしては何だか、カフェと同じ香りで……貴方、死神よりも此方が向いているかもしれませんよ」
『そうでしょうか……いえ、気に入っていただけて何よりです。こんな性分ですし、ヒトから褒められるというのは不思議な感覚ですね』
「……そうですか」
私は自分で淹れた紅茶を一口飲んでみる。温かさがじんわりと広がり、草花の香りが苦みとなって味覚に残る。立ち上る湯気がまた温かく、自然と口が微笑んだ。
彼もまた同じだったようで、随分と柔和な笑みを湛えている。よかった、本当に上手くできたみたいだ。
「先程の……神の御話を、憶えておられますか」
彼は空を眺めていた。その瞳はなんだか、とても悲しそうで……いや?
まただ。わからない、わからない。彼は何を思っているのだ?どんな名前のついた感情なのだ?
『……はい。世界を愛し、疲れ果て、全てを終わらせようとし……我が子に殺されたと』
「……死神さん。貴方は、死を齎す存在です」
__我が子よ。
カップが落ち、砕け、赤い飛沫が散る。目の前の彼は半身がひしゃげ、血肉の間には蝶の羽が詰め込まれていた。あり得ない方向に関節が捻じ曲がり、肌と赤と蝶のコントラストが酷く美しい。
青く、赤く、黒く、腐敗している。
白い世界に、生きた彼の残骸が放り出されている。割れた二つのカップから溢れた紅茶が混ざり合った瞬間、朔は何も見えていない瞳を開けたまま、傷も無いのに苦しむ私に言った。掠れた声で、オルゴールみたいな声音で、眠る直前みたいに。
「……死神さん。僕は貴方を完成させてあげられなかった。ごめんね、傍にいることを、僕は望んでしまった。貴方に私欲を混ぜてしまったんだ」
『あ……貴方は、つまり……此処の創造主?でも、どうして!』
鼓動が痛い。心臓から血が溢れだす度、私は泣きそうなほどの痛みを鳩尾と胸の奥に感じた。
あぁ、これは……?
愛しくて堪らない。悲しい。その愛しさが脆く見え、怖くて、悲しくて、
……私は、朔を殺さなければならない。
そうか、初めから。
彼を理解しなければならないなんて、そんなのは勘違いだったのだ。
……この為に。
「……おいで、死神さん。僕は、自分の世界が大好きだよ。貴方も勿論」
優しい声だった。いつか数多の死人の記憶で見た、慈愛の顔と全く同じだ。
私は、愛されている?愛のもとに生を受けられたのか?
何故だか、私は形容しがたい幸福感に満たされた。愛を知り、偽りのないそれを受容し、そして私は鎌を引き摺った。2メートルはある自分よりも大きな、血と錆に塗れた鎌を片手に、彼の横に跪いた。
『……朔様。それでは、最期に願いを聞き届けてはくれませんか?』
「……いいよ。何がいい?何でも言って、もう……そうだね、最期だから」
ローブの袖から、真っ白な私の手が覗く。指先から第二関節までが真っ黒に染まっていたが、乾ききった血のように少し暖色を帯びていた。彼に与えてもらった手で、蝶の羽を一つ摘まみ取る。陽光に透かされて、ビロード生地に見えるほど美しい。
『……名前をください。私だけの、愛すべき名前を。貴方が授けられる、形見が欲しいのです』
そうして、私は名乗れる名前を貰ったのだ。
そう話すと、対話のときのように椅子に座った”朔様”ではない朔様が、歪に笑う。
「ほんなら、おれもお前のことそう呼ぶわ。クリーヴンさんよ」
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
もし「ええやん」と思っていただけたら、評価や感想を残してもらえると嬉しいです。
続きを書く力になりますので、よければお付き合いください。
(また自論が確立されるまで少々時間を要しますので、更新は不定期となります)
また、このシリーズはなろうで連載している【Fake and Liar】本編の派生作品となります。
物語がリンクしておりますので、興味がある方は是非~!




