第二天使戦
かつて世界の北端、永久凍土に覆われた地に、「氷の王国」と呼ばれる小国が存在した。そこを治めていたのが、巫女王セレネ・ルミナである。白銀の髪と澄んだ声を持つ彼女は、王であると同時に霊力をもって精霊と対話する巫女であり、厳しい自然の猛威、飢餓、そして周辺諸国の侵略からその小国を護り抜いた。剣や軍略ではなく、精霊との共鳴によって農地に実りをもたらし、風の精霊を以て吹雪を鎮め、火の精霊を癒しの灯として王都の暖炉に灯した。
彼女の統治は、まさに奇跡で彩られていた。
しかしその信仰は、〈神〉の定めた秩序において「異端」であった。精霊は神に仕える存在ではなく、自然の意思として世界に溶け込む野性の力――とされる。ゆえに、それと通じることは“神の声を聞かぬ不敬”と見なされたのだ。
ある日、王国に天より〈神罰〉が下される。夜空が裂け、氷嵐が地を覆い、ただ数時間の間に国土は封じられた。大地は氷塊となり、街路は結晶化し、そして民――彼女が命を賭して護ってきた愛する人々は、一人残らず“生きたまま氷像”となった。泣き叫ぶことすら叶わず、祈りの声も凍りつき、すべての命が無音のまま静止していった。
だが、セレネは生き延びた。自らの精霊術を以て冷気を遮断し、王都の中心に小さな“温もりの神殿”を築いて、ただひとり生き残った。だが彼女は神を恨まなかった。あまつさえ敬愛してさえいた。自らを育ててくれた乳母が、凄腕の内政官であった老大臣が、そして最愛の婚約者が、氷像として城のどこかに佇んでいても。その凍りついた手に触れ、砕けそうな頬を撫で、声をかけ続ける日々の中で、彼女は神への信を捨てなかった。
それは狂信ではなかった。ただただ、純粋な祈りだった。
「どうか、神よ……この民たちを、もう一度、春のもとへとお導きください……」
そう願い続けた彼女は、王の位を捨て、氷像たちの再生にすべてを捧げる旅を始める。
10年の歳月をかけ、全ての凍結された村と街を巡り、民たちの氷像を収集して回った。氷に包まれた国を踏破し、老いた馬と自らの手でそのすべてを王都に運び集めた。そしてさらに25年、王都の地下深くに設けた精霊の神殿にて、氷の呪いの本質と神の審判体系を解析し続けた。昼夜を問わず、疲弊しながらもセレネはひとつずつ解呪術式を組み上げ、精霊との会話記録を編纂し、世界そのものに祈りを向け続けた。
しかし、時間は残酷である。氷像たちの中には、長い年月の中で心臓の鼓動が完全に止まり、生命としての復帰が不可能となった者も多かった。そして、ようやくセレネの努力が報われるひとつの奇跡が訪れる――最も信頼していた弟、王弟セリオンの呪いが奇跡的に解けたのだ。
だがその三日後、セレネの身体は限界を迎えた。
神の裁きを受け生命が存在することが不可能な環境になっていたその場所でセレネが活動し続けるには精霊に祈りを捧げ続けるしかなかったのだ。
たとえそれが自身の命を削る行為であったとしても。
息を引き取りながらも、彼女の顔には微かな微笑が浮かんでいたという。
彼女の魂は、静かに王家の墓所へ祀られた――はずだった。だが〈神〉は、その死を赦さなかった。その穢れなき慈愛と、構造的には異端でありながら“信仰の奇跡”を成した精神を、「沈黙の執行者」として転化することを選んだ。
こうして、セレネ・ルミナは天使として、神央殿の“氷結領域”に蘇る。感情も記憶も剥ぎ取られ、“声なき命令”を遂行するだけの純白なる天使として。彼女の翼は氷でできており、口元は常に閉ざされ、かつての優しき微笑は、もう存在しない。神の律を乱す者を拒絶する“完全なる静寂”の結界を展開し、彼女は今、氷の裁きを与える存在として立ちはだかるのだった。
リュカたちがその領域に足を踏み入れた瞬間、世界が静止したかのような寒気が肌を刺す。空間そのものが凍りついており、時間さえも凍結されているような錯覚を覚える。空気中の水が硬質の氷の粒となり、呼吸すら困難となる極寒の結界。
その中心にある湖の純白の氷上に浮かぶ、蒼銀の衣を纏う天使――セレネは、背中に生える氷晶の翼を広げた。その翼は白く濁った氷で出来ており、セレネの沈黙としての存在を皮肉っているようだった。
「神の意志に背く者たちよ。神の命により、貴殿らの意志を凍結する」
その一声と同時に、彼女の両腕から氷晶が飛散し、三体の霊獣が召喚された。
〈アージュ〉――大地を這い、接触したものを凍結させる能力を持つ氷蛇の霊獣。冷気を放ち、広範囲の熱を奪い尽くす。
〈ノクス〉――視認できぬ速度で飛翔し、音波を発し精神を麻痺させる能力と狡猾な頭脳を持つ黒き羽根の氷鴉。
〈ミリィ〉――氷の人型精霊であり、セレネのかつての分身体とされる。完全自律型の戦闘霊であり、氷魔法の詠唱を行い、氷弾や氷柱を放つ。
セレネとその霊獣たちの猛攻が、四方から押し寄せる。
足元では〈アージュ〉が蠢くたびに地面が凍りつき、空気中では〈ノクス〉の不可視の音波が意識を鈍らせ、空中には〈ミリィ〉が浮遊しながら詠唱を続け、氷の魔弾を無数に放っていた。
エリシアは後衛で〈ノクス〉の魔力波を遮断しながら、解析魔法を展開しようとする。
だが、その術式が軋んでいた。
「……魔力の流れが、撹乱されてる。氷結領域の干渉が強すぎる……!」
セレネの結界《封想の氷檻》はセレネ以外の生き物に干渉する為に空間そのものが、セレネの魔力で“凍結”されている。
そのため魔力の流れが滞り、解析魔法が対象を正確に捉えられず、座標認識に数秒のラグが生じてしまう。特に〈アージュ〉のような地中変位型の霊獣は、構造データの解析が大きく歪んでいた。
それでもエリシアは諦めない。
氷属性に対する魔力の流速特性を観測し、逆相干渉を用いた術式再構築を試みる。
すでに額には汗が浮かび、呼吸も荒くなっていた。
だがエリシアは少しづつ、確実に解析魔法を展開していく。
「〈アージュ〉の表皮は魔力反射性が高いし単純に硬いし攻撃は通りにくい……けど、関節部の軟鱗層なら……!」
彼女が断片的に導出した構造情報を聞くや否や、前衛のガルドが動いた。
「行くしかねぇな……このままじゃ、ジリ貧だ!」
彼が自身に身体強化をかけ、走り出すと体の熱気と結界内の温度の差で重装鎧の隙間から蒸気が噴き出す。
彼の装備はすでに冷気で結露し、凍結寸前だった。それでも彼は盾を前に掲げ前進する。
〈アージュ〉の尾が横なぎに迫るのを見て、ガルドは正面からそれを受け止めた。
盾と尾が激突し、爆発的な氷結が巻き起こる。盾の縁から冷気が走り、瞬く間に装備が白く染まっていく。
「クッッ……効くな、やっぱり……」
ガルドは歯を食いしばり、凍てつく衝撃に耐える。いくら身体強化がかかっているとはいえ盾の表面温度はすでに氷点下を遥かに下回り、指先の感覚が鈍くなっていた。
だが、彼は視線を逸らさず〈アージュ〉を睨み続ける。
そして〈アージュ〉の動きに、かすかな“癖”を見つけたのだ。
「……なるほど。尾を振るった後、頭部の動きが半拍遅れる。狙うなら……」
ガルドはその鍛え上げられた肉体と身体強化魔法の才能、そして何よりも土壇場での冷静な分析力と判断力を買われて上級聖騎士に任命されたのだ。
彼はこの危機的状況でも思考をやめていなかった。
彼が戦闘展開を頭に描いていたその瞬間、〈アージュ〉が再び尾を振り上げた。瞬時に思考をやめガルドは地を蹴り、相手の右側面へと飛び込む。〈アージュ〉の尾の先から氷の棘が飛び出すも、それを盾で弾き、頭上まで大きく振りかぶった長剣で重い一撃を〈アージュ〉の首元へ叩き込む。
衝撃が霊獣を揺らしたが、手応えは薄い。やはり軟鱗層でさえも、高密度の魔力で強化されていた。
「硬すぎんだろ、お前……!」
それでも、ガルドは諦めなかった。
一方で後方では、フィオナが結界術式を次々と展開していた。彼女は炎属性の術式をもとにした拡張結界で、冷気による凍結を防ごうとする。
しかし、氷結領域の魔力の圧は尋常ではなかった。
「魔力干渉が……結界を圧してくる……!」
張り巡らされた薄紅色のバリアが、ミリィの放つ氷弾を受けて軋む。亀裂が走り、そこから氷の針が突き出すように侵入してくる。冷気が肌に刺さり、呼吸が痛む。
「リュカ、長く持たない……!」
「分かってる!」
リュカは《黒翼》を広げ上空から戦場を見渡す。
〈ミリィ〉は詠唱の合間を縫って氷弾を連射し、狙い澄ました軌道で仲間たちを追い詰めている。〈アージュ〉の相手をしているガルドも限界が近づいていた。
フィオナの結界が持ち堪えているうちに、決着をつける必要がある。
そう結論づけたリュカは行動に出る。
「あれをやるしかねえな……解け、〈吸魔の羽〉!」
両翼が闇の粒子を纏い、空気中の氷属性魔素を吸収し始める。翼の先端から微細な黒い糸が霊獣たちへと伸び、氷の構造を“吸魔”するように侵食していく。
〈吸魔の羽〉ーーーそれは《黒翼》の持つ闇の魔力で属性魔素を反位相で崩壊・吸収する能力であり、神聖・精霊系の魔法構造に対して特効を持つ。だが一度に吸収できる魔素には限界があり、過剰吸収時は魔力暴走や逆流が発生し、使用者の魔力構造に深刻な負荷を与える危険を孕んでいる技だった。
だが、〈ミリィ〉が即座に反応した。詠唱と同時に複数の氷魔法を一斉発動。
氷柱が空中に生成され、まるで降り注ぐ矢のようにリュカへ向かって投下される。
「チッ、これじゃ攻めらんねぇ……!」
リュカは翼で自身を覆い氷柱を防ぎ、更にそこから翼を大きく広げ、その風圧で残りの氷柱をはじき落として地上へ急降下する。
直後、〈アージュ〉の尾が再び飛来した。エリシアの防御魔法がギリギリでそれを受け止めるが、衝撃で結界の表面が剥がれ、冷気が仲間たちの周囲を覆う。
「もう一枚、重ね張りする……っ、でも……っ!」
魔力が限界に近づき、フィオナの膝が震える。
「お前ら、何があっても下がるな! 絶対に俺が道を切り拓く!」
ガルドが吠えるように叫ぶ。その体からは蒸気と冷気が混ざり、まるで体温が氷点下と沸点の間を行き来しているかのようだった。彼は剣で火属性の魔力を帯びた魔石を叩き割り自身の剣での攻撃に火属性を上乗せし、氷結した地面ごと〈アージュ〉の下腹部に突き刺す。爆裂と共に、〈アージュ〉がよろめいた。
その隙に、エリシアが解析を完了させる。
「分かった……!〈アージュ〉の魔力流路、脊椎近くの核が制御中枢になってる!」
「ナイス、エリシア! そこを叩く!」
リュカが跳躍し、黒翼の一閃で氷蛇の背中を切り裂く。刃が深々と突き刺さり、内部の魔力核へと達した瞬間、〈アージュ〉が高く唸り、爆ぜるように崩れ落ちた。
「まずは一体目……このまま次も!」
そう言ってリュカが《黒翼》を剣に変え、両手に構える。彼の背から伸びたもう片翼が呼応するように膨張し羽ばたくと、闇の粒子が風の逆流に乗って空間に渦を描きながら拡散していく。だが《黒翼》の羽ばたきと同時に、氷結領域の天頂に“裂け目”が生じた。重く曇った氷の天蓋が軋み、甲高い金属音のような異音が辺りに響き渡る。次の瞬間、雷鳴にも似た轟音が空を引き裂き、凍てついた空間の頂がひび割れ、音速を超えた破砕音が氷晶の雨を降らせた。
――〈ノクス〉。その名を冠する氷鴉が、まさに氷の断層から音もなく出現する。その身は漆黒の羽根に覆われているが、内側からは青白い冷気の波動が脈動し、周囲の熱を瞬時に奪い取っていく。空を滑るように飛翔するその動きは、視線を置いた次の瞬間には既に背後にいる――そんな錯覚を与えるほどの超高速。氷結領域の冷気と音波により、感覚そのものが鈍らされるこの空間において、〈ノクス〉の速度はまさに致命的な脅威であった。
「来る……!」
リュカは体を半回転させ、背後から迫る気配に反応する。だが、音も影も感じ取れない。代わりに首筋を撫でたのは、吐息のような氷の魔力だった。〈ノクス〉の翼が無音のまま広がり、そのままリュカの背中へ鋭利な嘴が突き刺さらんとする。刹那――彼の手が動いた。
《黒翼》の刃に闇の粒子を収束させ、凶鳥の出現地点を読んで振り下ろされた。その軌道は直線的でありながら、確実に傷を刻まんとするような鋭さを持っていた。刃が届くと同時に、《黒翼》の刀身から黒色の稲妻のような魔力が放たれ、空中に振動を走らせる。
そしてーー
金属と氷が同時に砕けるような破砕音が、空を覆った。〈ノクス〉の胴体中央、核たる氷晶の一点が、的確に捉えられたのだ。視認すら困難だった鴉の輪郭が一瞬にして明確になり、その身体が空中で静止する。
「ーー砕けろ」
リュカの低い呟きと同時に、〈ノクス〉の身体は内側から光を放ち、まるで氷像が太陽光に照らされたかのように脆く砕けた。無数の氷片と羽根の欠片が重力に逆らうように空中で舞い、そこに残されたのは、僅かに残る冷気と黒翼に吸収された氷属性魔力の余波だけだった。
その光景を、セレネは確かに目撃していた。
霊獣〈ノクス〉が一閃にして断たれ、空中で氷晶の霧と化した瞬間。無表情に張りついた仮面のような顔に、かすかな揺らぎが走る。硬質な銀の瞳が、わずかに――ほんのわずかに震えた。
「……このままでは……」
吐息のように零れたその声は、冷たく、悲しみにも似た響きを帯びていた。
セレネの体内で、魔力の流れは既に臨界に達しつつあった。霊獣の召喚、領域の展開、精霊との連動詠唱による魔法の展開ーーすべてが彼女の魔力を削り尽くしていた。だが、それでも彼女は膝を折らない。
蒼銀の衣をはためかせ、彼女は静かに両手を掲げる。すると、その頭上に空間が軋み、無数の氷片が渦を巻くように収束し始めた。魔力を空間に織り込んだその中心に、それは顕現する。
「貫いて……〈氷の聖槍〉」
それは単なる魔法の産物ではない。かつて彼女が守り、そして失った民への想い。精霊たちとの誓約。神への赦しと、自らへの罰――すべてを束ね、魂の深層から編み上げた、最後の“祈りの凶器”であった。
彼女の唇が動く。凍てついた声が、静かに降り立つ。
「……消えなさい。このまま、あなたたちの選択が世界を壊す前に……」
その瞬間、氷結領域に低く唸る風が走る。槍が空を断ち、死の光条となって振り下ろされた。
天地が一つの白に染まるかのような冷たい終焉が迫っていた。
だが――
「それでも俺らは、未来を正すために選択し続ける!それが、俺らのやるべきことだッ!!」
そう叫びながらガルドは〈氷の聖槍〉の軌道上に躍り出た。盾を斜めに構え自身にありったけの身体強化をかけ、氷霧の中で聖槍の直撃を受け止めた。氷の槍が盾を粉砕し、外装が裂け、血飛沫が舞う。
だが、軌道は逸れた。
ガルドの決死の防御が、奇跡的に槍を逸らさせたのだ。
更にフィオナが結界を二重展開する事により亀裂だらけだった防御層を再構築する。そして全ての魔力が尽き、大技の反動で動けないセレネをリュカは見逃さなかった。
大地を蹴り一気に加速した剣先がセレネに肉薄し《黒翼》がセレネの腹部に突き刺さる。
「終わりだ…解け、〈吸魔の羽〉」
《黒翼》が静かに――しかし容赦なく――セレネの命を魔力に変え、その全てを啜っていく。
霊獣たちはセレネの魔力の枯渇と共に、泡のように消えていった。
すると《黒翼》がセレネの中に巣食っていた神の魔力を吸い出したからだろうか、思いがけないものが呼び起こされた。
長き氷の眠りに封じられていた、ひとり人間の心が、ひと筋の光を取り戻す。セレネの目に、初めて明確な心の色が差した。
「私は……誰を、守るために戦っていたの……?」
その呟きは震えていた。いや、震えていたのは彼女の心そのものだった。
「もう……誰もいないというのに……」
《黒翼》の刀身が深く刺さった腹部から、氷が逆流するように広がっていく。セレネ自身の力によって、自身が凍り始めていた。だがそれは、痛みでも死でもなかった。ただ、静かな“還元”だった。
「……もうすぐ……皆に……あの頃に戻れるのね……」
その声は風に溶け、身体は凍りの彫刻のように硬質になり、そしてセレネ・ルミナの肉体は、細かな結晶となって砕け、白い雪と化した。
光に溶け、天へと昇るその粒子が描く軌跡は、まるで彼女の魂がかつて護りたかった民のもとへと還る旅路のようだった。
誰も言葉を発しなかった。氷の残響と共に、そこにはただ、かつての誇り高き王の“安息”があった。
リュカたちは、また一つ、その記憶を胸に刻みながら、次の守護天使との戦いへと足を踏み出していく。
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