迷子のイルカとマッコウクジラの家族たち
カチッ、カチッ、カチカチカチッ。
海の中で、クリック音が響きました。
『これは・・・クジラの声?
クジラなら・・・怖く、ない・・・』
傷つき、疲れ果てていた小さなイルカは、その音を聞きながら、気を失って沈んで行きました。
その近くを、7頭のマッコウクジラが通りかかりました。
「あれまぁ、イルカの子が沈んで行くよぉ」
「まだ生きてるんだべか」
「あたし見てくる!」
比較的体の小さなメスが、イルカの側に近寄りました。
「生きてる!この子生きてるよっ。すっごい傷だらけだけど」
「このまま沈んだら死んでまうわ。ビオラ、背負ってやれるけ?」
一番体の大きなメスが、次に大きなメスに言いました。
ビオラと呼ばれたクジラがイルカの下にスーッと入り込んで、ゆっくりと浮上しました。
器用に、自分の背中にイルカの子を乗せています。
別のメスがビオラの横につきました。
「このまま海面近くを泳いでこ。そのうち目を覚ますさぁ」
「んだね〜」
ビオラはイルカの子を背中に乗せたまま、静かに泳ぎます。
ビオラの横についているのは、アイリスという名の、ビオラの妹です。
7頭のクジラはゆっくりのんびりと海面近くを泳ぎました。
ゆら〜り、ゆら〜り。
『なんか気持ちいいな〜。あれ?私は今どこにいるんだろう?』
イルカの子が目を覚ましました。
「あっ、目を開けたよ!起きたっ?きみ、海の底に沈みかけてたんだよ!大丈夫?もしかして、シャチに襲われたの?」
ビオラの近くを泳いでいた小さなオスのクジラが矢継ぎ早に話しかけました。
「これ!ヴァイン!そんな大きな声でいきなり話しかけたら、この子がびっくりしちゃうべさ」
ビオラが息子を窘めました。
「え〜、そんなおっきな声なんて出してねっさぁ」
「出してたっぺよ」
一番体の大きなメスも言いました。このクジラはビオラとアイリスのお母さんであり、ヴァインのお祖母さんでもあります。
「それより、あんた、大丈夫かい?」
アイリスが静かに話しかけました。
イルカの子は慌てて答えました。
「はい!大丈夫です!あの、私、クジラさんの背中に乗せてもらってたんですね。すみません!」
そう言いながら降りようとしたイルカの子を、アイリスが止めました。
「無理することないさぁ。そんなに傷だらけじゃあ、痛みもあるだろうし、なによりそうとう疲れてるっしょ。ゆっくりしたらいいよ」
「あ、ありがとうごさいます」
「ずいぶん痩せちゃってるみたいだし、お腹空いてるでしょ。あたし魚とってくる!」
若いメスが群れから離れて行きました。
チェリーという名のこのメスは、ビオラとアイリスの従姉妹です。
「あ、ママ!」
メスの赤ちゃんが不安そうにチェリーの後を追いかけようとしました。
「ポピー、心配ないさぁ。ママはすぐに戻ってくるだよ。ばぁばと一緒にここで待ってるべ」
お祖母さんクジラがなだめるように言いました。
チェリーはすぐに魚をたくさん咥えて戻ってきました。
「はい、とうぞ」
「ありがとうごさいます」
「た〜んと呼ばれてな」
お祖母さんクジラが明るく言いました。
「?」
「たくさん食べてね、ってことよ」
アイリスが説明します。
「はい、いただきます」
ようやくイルカの子は落ち着きを取り戻しました。
「いろいろありがとうございました。私の名前はレイナです。群れがシャチの集団に襲われて、はぐれてしまいました。一生懸命みんなを探しているうちに、今度はサメに襲われてしまって、必死で逃げていたら、もう自分がどこにいるのかさっぱり分からなくなってしまって」
「それは大変だったねぇ。こぉんな小さな体で、ひとりで怖い思いをして、ひとりでさまよって。ウッ、ヒック」
アイリスが泣きながら言いました。
もし自分の息子のリーフが同じ状況になったら、と考えたら、泣かずにはいられなかったのです。
リーフもまだ幼いクジラです。
「あんたの家族を探すのは難しいけど、運が良ければそのうち会えるさぁ。それまでわだしらと一緒にいたらいいっぺよ。リイナちゃん、可愛らしい名前だっぺ」
お祖母さんクジラがニコニコしながら言いました。
「ありがとうございます。でも私の名前はレイナです」
「だからリイナちゃんだべ。わだしの名前はローズ。しゃれた名前だべ?」
お祖母さんクジラがニッと笑いました。
アイリスが説明します。
「レイナちゃん、お母さんはこれでもレイナちゃんって言ってるつもりなのよ。訛ってるから分かりにくいけど」
「あ、そうなんですね、すみません。ローズさん、素敵な名前です」
「そうだべ、そうだべ」
ローズは豪快にガッハッハと笑い声をあげました。
それからレイナはローズの家族たちと暮らすようになりました。
マッコウクジラは深海に潜って狩りをすることがあります。子どもたちはまだそこまで深く潜れないので、浅い所で待っています。子どもたちだけだと危険ですから、大人が1頭残って子どもたちの面倒を見ます。
この家族の場合、ローズ、アイリス、チェリーが狩りに行き、ビオラが残って子どもたちの面倒を見ていました。今はそこにレイナも加わっています。
今日も大人たちは狩りに行き、ヴァイン、リーフ、ポピー、レイナがお留守番、ビオラが見守りをしていました。
子どもたちはみんな仲良し。レイナともすぐに打ち解けました。
しかも、レイナはイルカなので、素早く泳げます。泳ぐスピードでは、マッコウクジラはイルカにかないません。
「やっぱイルカは速いな〜。俺ももっと速く泳ぐぞ!」
「僕も僕も!」
幼いリーフはいつもヴァインのマネをします。
ワイワイガヤガヤと子どもたちが遊んでいると、大人たちが戻ってきました。ビオラとアイリスは魚を咥えていましたが、ローズが咥えていたのはダイオウイカでした。
初めて見る巨大なイカに、レイナはびっくり!
しかも、イカの足がローズの口から四方八方に散らばるようにローズの顔に張り付いています。
その光景はなかなかに怖ろしいものでした。
日頃は優しくておっとりしたクジラたちですが、実はとても強いのです。
食事の時間はいつも賑やか。今日はチェリーが、あるオスのクジラについて話していました。
「最近、ルート様を見かけないね〜」
「北の方にでも行ってるんでねぇか?あっちの魚は美味いらしいかんな」
ローズが答えました。
「ルート様って?」
「ああ、レイナちゃんはまだ会ったことなかったねぇ。ルートさんはたまに私たちの所にやってくるから、そのうち会えるよぉ」
アイリスが説明しました。
チェリーが可愛らしい声で続けます。
「と〜っても素敵な方なのよ〜!しかも、すっごく強くて頼りになるの!私たちが困っていると、どこからともなく現れて助けてくれるのよ。私たちのヒーローなの。私、次はルート様の赤ちゃんを産みたいわ〜」
「ポピーがまだ赤ちゃんなのに、気が早すぎるべさ」
ガハハとローズが笑いました。
マッコウクジラの家族との生活は、穏やかで楽しい日々でした。
レイナは自分のお母さんや家族のことが恋しかったけれど、もう会えないかもしれない、と半ば諦めていました。
この広い海で一度はぐれてしまったら、再び会うことはほぼ不可能だからです。
でもレイナはひとりぼっちではありません。
マッコウクジラの家族に出会えて本当に良かった。レイナは毎日そう思っていました。
ちょうどその頃、ローズに異変が起き始めました。
「腹減ったな〜。そろそろ狩りに行くべか」
アイリスが驚いて言いました。
「お母さん、何言ってるの?さっき食べたばかりじゃないの」
「へ?そうか〜?そうだったべか?」
「んだよ〜」
ビオラも答えます。
こんなふうに、食事のあとなのに、ローズがお腹が空いたと言い出すようになりました。
数日経っても治まらないので、いったいどうしたんだろうとみんなで不思議がっていると、ローズがチェリーに話しかけました。
「ポピーや、お母ちゃんはどうした?」
チェリーはびっくり。
「お母さん、私がチェリーじゃないの!ポピーはこっちよ!」
と傍らにいたポピーを見せました。
「ん?あれ?そうだったかやぁ」
ローズは首を傾げていました。
「お母さん、食事のことだけじゃなくて、私のことも分からなくなっちゃったんだわ!私が本当の娘じゃないからよ!私のことなんてどうでもいいんだわ」
チェリーが泣き出しました。アイリスがそれを宥めます。
「チェリー、落ち着いて。お母さんが娘だの姪だのと区別なんてするわけないっしょ。今まで一度だってそんなことなかったじゃないさぁ」
「でも現に今」
「どうしただぁ?何を揉めてるだ?ビオラ、妹を泣かすんでねぇよ」
とローズがアイリスに声をかけました。
ほらね、と言わんばかりに、アイリスがチェリーに目配せしました。
チェリーもようやく泣き止んで頷きました。
今まで黙っていたビオラが口を開きました。
「なんでお母さんがこんなことになったんか分からんけど、大事なんはお母さんはお母さんだってことさぁ。私たちのことが分からんくなっても、食事のことを忘れても、お母さんであることに変わりはねっしょ。どんなことがあっても、私たちは家族さぁ。お母さんはお母さん、家族は家族、何も変わんないさぁ」
「んだね〜」
「そうよね」
アイリスとチェリーが同時に答えました。
その後も、ローズは食事のことを忘れたり娘や孫を間違えたりしていましたが、みんなは仲良く穏やかに過ごしていました。
今日も大人たちが深海に狩りに行き、ビオラと子どもたちとレイナがお留守番をしていると、1頭のシャチが現れました。
「みんな固まって!」
と言うや否や、ビオラはシャチに体当たりしました。
シャチは大きくよろけましたが、体勢を立て直すと同時にビオラに向かってきました。
ビオラはもう一度体当たりしました。
シャチの体は海中で数メートル飛ばされました。
ビオラが子どもたちを背に仁王立ちしていると、「ちっ」と舌打ちでもするかのように、シャチはビオラをひと睨みして去って行きました。
「ビオラさん、すごい!」
レイナが感嘆の声をあげました。
自分たちの群れが襲われたときは、みんな必死で逃げるのみだったからです。
「そりゃあ、こんだけの体格差があればねぇ。さすがに負けはしないっしょ。でも、集団で来られたら危なかったねぇ。アイツらタチわりぃかんねぇ」
ビオラは、ふふふ、と笑いながら答えました。
シャチのことなどちっとも恐れていないようでした。
それもそのはず、シャチの体長が6メートルであるのに対し、ビオラの体長は12メートル。ビオラの方が遥かに大きいのです。
しかし、そのビオラでも、シャチが群れで現れたら危ないと言ったのでした。
シャチの群れが現れませんように、とレイナは心の中で祈りましたが、その祈りは儚く散りました。
数日後、7頭のクジラたちとレイナが食後の散歩を楽しんでいると、シャチの群れが現れたのでした。
「みんな固まって!」
とアイリスが言い終わらないうちに、子どもたちとレイナが集まりました。
その周りを大人たちが囲みます。
さらにその周りをシャチたちが囲みました。
シャチたちは一斉に襲いかかりました。しかし、本気で大人たちに襲いかかっているわけではありません。シャチがそのまま襲いかかっても、クジラにはかないません。シャチたちは、大人に襲いかかるフリをして、大人たちと子どもたちを引き離そうとしているのでした。
シャチたちの狙いは、体が小さくて動きの遅いポピーとリーフでした。
チェリーとアイリスが必死に守ろうとしますが、シャチの数が多過ぎて間に合いません。
とうとう、チェリーとアイリスの間に大きな隙間ができてしまいました。
すかさず1頭のシャチがそこに突っ込もうとしたその瞬間、ザバーッと海面が盛り上がり、そのシャチが空高く飛んでいきました。
体長6メートルのシャチが、まるで木の葉のようにクルクルヒラヒラと舞いながら、遠くの方に落ちて行きました。
『え?島?』
レイナには何が起きたのか分かりません。
目の前にいきなり島が現れたのです。
と同時に、チェリーの歓喜の声が上がりました。
「ルート様!」
島に見えていたのは、オスのマッコウクジラでした。
ルートと呼ばれたクジラは次々とシャチをはじき飛ばしました。
どのシャチも木の葉のように空を舞って遠くに落ちて行きました。
ルートのあまりの大きさに、レイナにはルートの頭がどっちにあるのかも分かりません。
『こんなに大きなクジラがいるなんて』
まさに息を呑むほど巨大なクジラでした。
ビオラとも比べ物にならないほど大きいのです。
そのクジラが暴れたら、さしものシャチたちでも敵わず、残りのシャチたちは群れをなして去って行きました。
「ルート様、ありがとうございます!」
チェリーが真っ先にルートに向かって行きました。
「やぁ、チェリー、久しぶり。みんな怪我は無かったかな」
「ほんに助かったよ、ありがとさんなぁ」
ローズも寄ってきました。
他のクジラたちとレイナも続きます。
「ありがとうございます、ルートさん」
アイリスやビオラ、そして子どもたちが口々にお礼を言いました。
「いやぁ、間に合って良かったよ。ん?君はイルカの子だね」
巨大なルートが、小さな小さなレイナに目を止めました。
すると、ローズもそちらに目を止めて、
「あれ、ホントだ。イルカの子でねぇか。どうしてこんなとこにいるだ?」
とレイナにたずねました。
「お母さん、レイナちゃんはシャチやサメに襲われて群れからはぐれてから、ずっと私たちと一緒にいるんじゃないの」
アイリスがゆっくりと説明しました。
この説明を、すでに何回繰り返したことでしょう。
「そっかぁ。そりは大変だったなぁ。まだこぉんなにちいせぇのに、可哀想に。リイナちゃんていうのかい。かわいい名前だねぇ」
「はい、ありがとうございます」
ちょっと不思議そうにローズを見ていたルートが、ハッとしてレイナに尋ねました。
「君はレイナちゃんというのかい?今朝、群れからはぐれたレイナというイルカを探していた群れとすれ違ったが、君がそのレイナちゃんか」
「えっ、それは本当ですか?」
「たしか、アンジェというイルカが、迷子のイルカを見かけなかったかと声をかけてきた」
「アンジェはお母さんの名前です!」
レイナが叫びました。
「そうか。なら今から一緒に行ってあげよう。あの辺りには私の仲間がたくさんいるから、いくらでも情報が手に入る。すぐに見つけられるだろう」
「ありがとうございます!」
「良かったね!レイナちゃん!」
みんなが一斉にレイナを取り囲みました。
「ルート様と一緒なら、何の心配も無いわよ!」
チェリーが自分のことのようにはしゃいでいます。
「すぐに家族が見つかるわ。ホントに良かったねぇ」
アイリスは嬉し涙をこらえきれなくて、ポロポロと泣いていました。
「次に会ったときは、俺の方が速く泳いでみせるからな!」
「僕も僕も!」
ヴァインとリーフも嬉しそうです。
ちょんちょん、と何かに突かれたと思ったら、ポピーが恥ずかしそうにレイナの体を頭で撫でていました。
最後にビオラが声をかけました。
「もう2度と家族とはぐれないようにね。でもね、もし、万が一、はぐれてしまっても、私たちがいることを忘れないで。私たちだって、もうレイナちゃんの家族なんだから」
「んだなぁ、んだ、んだ」
ローズが何度も深く頷きました。
「リイナちゃん、またいつでもおいでぇ」
「はい、ありがとうございます!みなさん、お世話になりました」
「では、行こう」
ルートとレイナが離れ始めました。
島のように大きなルートの体が見えなくなるには長い時間がかかりましたが、みんなはルートとレイナの姿が見えなくなるまで、そこにジッとしていました。
「さて、わだしらも行こうかねぇ」
ローズが泳ぎ出しました。
その周りをみんなが囲むように泳ぎ出しました。
ローズは自分が守られていることには気付いていませんでしたが、心の中が温かくなるような安心感を覚えていました。
やがて、カチッカチッカチカチッ、カチカチカチッカチッ、カチッカチッカチッといろいろなクリック音が響き始めました。
クリック音は家族の会話の音です。
その音は楽しそうに、嬉しそうに、まるで音符が踊っているかのように、次々と海の中を漂って行きました。