第五話
次の日の俺は例えるなら、抜け殻のような状態だった。
幸いクリスマスイブにバイトは入れていなかったため、俺は昨日の晩からずっと、寧々さんの残り香のするベッドの上で天井のシミを数えていた。
外はすでに暗く、締め切ったカーテンの隙間からは真っ暗な闇が覗いている。
彼女が去り、夜が明けて十二時間以上はこの状態のまま硬直していたと思う。
今考えれば、どうしてあんなことをしてしまったのだろうかと、後悔ばかりが湧いては溢れていく。
ドロドロに溶けた意識が、底なし沼にゆっくりと埋没していく。
時間を巻き戻せるのなら、あの懐かしくも楽しかった食卓に、どうか戻してほしい。
——あの時はきっと、悪魔が俺を操ったのだ。だから……。
いや、違うな……。悪魔なんかじゃない。あれは紛れもなく、俺の……。
そんな無駄な思いを繰り返し、一日を無為に過ごした。
そして今、俺の心の中で大きく支配している感情は『謝りたい』それだけだった。
謝罪文でも、土下座でも、切腹でもいい。俺はもう一度彼女に会って謝りたかった。
言い訳をするつもりは一切ない。ただもう一度、彼女と顔を合わせて話がしたかった。
——いや、話すことも烏滸がましい。
ただもう一度、挨拶を交わすだけでいい。
あの頃の関係を俺は取り戻したかった。
——お願いだ。もう一度だけ……。
その時部屋に、聞き慣れた音がこだました。
ここ最近は毎日聞いていた音だ。
俺はベッドから飛び上がると、玄関へ猛ダッシュを決めた。
そして扉にぶち当たると、ドアスコープを覗き込んだ。
焦茶色の髪に、ウェーブのかかった毛先。俯いているので表情はよく見えないが、首筋から見える肌は白い。タートルネックの上には薄いカーディガンを羽織っている。
俺は急いでドアチェーン……はかかっていないんだった。
ノブを回しドアを押し開けた。
「寧々さん——」
第一声で彼女の名を呼ぶ。
しかし目の前の女性は俯いたまま、身じろぎ一つせず棒立ちしている。
「寧々さん?」
俺はもう一度彼女の名を呼んだ。
すると彼女は勢いよくこちらに駆け寄ってくる——かと思いきや、俺を横へ突き飛ばして室内に乗り込んできた。
「——寧々さん」
あまりの驚きに体勢を崩した俺はすぐに彼女を追いかけ室内に戻った。
リビングの真ん中で直立している彼女。
向こうを向いているため、こちらからでは表情は伺えない。
でもこれはチャンスだと思った。
何をしに来たのかはわからない。でもこれを逃したら、もう二度と手に入らないんじゃないか。
そう思って俺は先ほどからずっと抱いていた気持ちを打ち明けた。
「寧々さん……昨日は本当にすみませんでした。俺、どうかしてたんです。ずっと憧れだった人と会話ができて、その……調子に乗ってたって言うか……。だから、どんな罵倒でも受け入れます。どんな謝罪でもします。だからもう一度、もう一度……俺にチャンスをください」
お願いします——俺はいつの間にか無意識に、膝を折り曲げて頭を床に擦りつけていた。
彼女からの許しが出るまで、頭を上げない。
そんな強い意志の元、俺は土下座を続けるつもりだった。
「秀二……」
——え……。
それは聞き慣れた……いや、久しぶりに聞いた女の子の声だった。
昨夜ここにいた寧々さんのような、あの優しくも柔らかな声ではなく、妙に甲高い、明るい声音。
俺はおもむろに顔を上げた。
寧々さんの許可が降りるまで絶対に上げはしないと、固く誓った掟を破って……。
「結香……」
そこにいたのは寧々さんではなく、非健康的な細い足をむき出しにした——花桐結香だった。
気づけば彼女は白いタートルネックの上にカーディガンを着ているが、足元はミニスカートを履いていた。
あの時と同じ、派手なピンク色の……。
彼女はゆっくりと頭に手をやると、髪の毛を鷲掴みにして強引に引っこ抜いた——訳ではなく、するりと落ちた焦茶色の髪の下から黒いセミロングがあらわになった。
「どうして……」
——何で、結香が……。いや、そんなことよりも、そのカツラ……。
「やっぱり隠し事……してたね、秀二」
そうか……そう言うことか……。
おそらく結香は俺に追い出された後も、ここへは何度か訪れていたのだろう。それで俺の部屋を訪ねる寧々さんを目撃して、そうしてここへやってきたのだ。
寧々さんと同じ髪型、同じ格好をして……。
「何で……」
「いいんだよ。秀二」
結香はかぶりを振りながら、優しい眼差しで俺を見下ろす。
——ううん、優しいだなんて……。あの人に比べればそんな表情、足元にも及ばない。
「私、今でも秀二が好きよ……。だから、ね? だから……」
俺はこの時、言いようのない沸々とした感情が心の奥底から湧き上がっているのを感じていた。
それは膨れ上がった火山から、マグマがものすごい勢いで噴き出そうと地上を目指しているかのように……。
「……いい加減にしろよ」
「えっ……」
結香の表情が固まる。
俺はもう自分でも制御できない感情に支配されている気がした。
まるであの時と同じ、悪魔にでも操られているかのように……。
「いい加減にしろよ、結香——。そんなに俺の心を弄んで楽しいのかよ」
「どうしたの秀二。何で?」
立ち上がった俺を、結香はすがるように両腕を掴む。
「どうして……違うよ? 私別に怒ってないよ? 私はただ、秀二に……」
「触んな——」
俺は結香を思いっきり床に投げ飛ばした。
髪を振り乱して倒れた結香を俺は見下ろしながら、
「出てけよ。もう二度とここへ来るな——」
俺は玄関を指差しながら彼女へ怒鳴った。
結香は何も言わなかった。
体もすぐには起こそうとせず、じっと床に這いつくばったまま。
垂れた前髪で、彼女の表情までは見えない。
俺はそれすらもイライラと感じて、
「早く出ないなら警察呼ぶぞ。いきなり人の家に上がり込んできて、それも俺を突き飛ばして、不法侵入だぞ」
それでも彼女は動かない。
俺はもう我慢できないと振り返り、キッチンに置いていたスマホに手を伸ばした。
電話アプリを起動し、数字の文字列を順にタップしていく。
1……1……。最後の0を押そうと指を動かした、次の瞬間——。
ゴンッと——鈍い衝撃が俺の後頭部を揺さぶった。
グラついた視界に耐えきれず、俺は膝から崩れ落ちた。
何が起きたのか瞬時に理解できなかった。
痛みを感じる後頭部に手を添えると、ネチャッとした感触が掌に伝わる。
見ると、赤黒い液体がべっとりと付着していた。
これ……俺の?
焦点の定まらないまま後ろを振り返ると、そこには結香が立っていた。
「結香……」
彼女は無言のまま、直立している。
手には……。
——俺の、灰皿……。
俺がいつも煙草を吸う際に使用しているガラス製の灰皿。
その灰皿にも俺のものと同じ、赤黒い液体がこびり付いていた。
「結香……どうして……」
徐々に薄れゆく意識の中で、俺は彼女に問いかけた。
——いや、問いかけるまでもない……。これは俺が招いたこと、か……。
うつ伏せに倒れた俺の遥か前方には玄関がある。
いつも隣の住人を待ち侘びながら見続けていた、あの扉……。
——鳴るわけない、か……。
俺は暗くなる視界を前にして、最後の望みに期待をかけた。
だが、そんな奇跡が起きるはずもなく、そして最後に——。
先ほどと同じ重い一撃が後頭部にのしかかった。