第四話
「それでは、今回もよろしくお願いします」
寧々さんはいつものように、俺に大きいタッパを差し出してくる。
風呂上がりなのか、彼女の肌は妙に艶っぽく、髪も少し湿らせている。
「はい。ありがたく頂戴します」
俺は笑顔でそれを受け取る。
そうしてこんな関係が始まってから、もう一週間以上が経ち、今日は二十三日——クリスマスイブの前日である。
時間はいつも通り午後七時から午後八時頃。彼女を玄関で出迎え、そこでタッパを受け取る。そして昨夜の料理の感想を述べて、お別れ——それがここ最近のルーティーンとなっていた。
しかしそんな幸福な時間は当然だが、そう長くは続かなかった。
「実は出張に行っていたマサカズさんが、明日の夕方に帰ってくることが決まったんです」
「え……」
そう唐突に打ち明けた彼女に対して、俺は即座に反応を示すことができなかった。
「なので……その、料理のお裾分けもこれが最後になると思います」
彼女は最後に「今までありがとうございました」と深々とお辞儀をした。
その報告は思考が——いや、世界が停止するほどの衝撃だった。
——いや、そうか……そうだよな……。
いつかは終わるって、わかってたじゃないか……。
俺は自分でも下手くそだなと思うほどの精一杯の笑顔を彼女へ向ける。
「よ、よかったじゃないですか。これでようやく彼氏さんと一緒の生活に戻れるんですから」
だが、予想にも彼女の表情は固かった。体もいくぶん強張っているように見える。
「寧々さん?」
不審に思い彼女の顔を覗き込む。
眉を八の字に曲げ、表情はひどく不安げだった。
「——大丈夫でしょうか」
「大丈夫って、何がですか?」
「私の料理です」
ああ、と俺は全てを納得した。
彼女は料理があまり得意ではない。この関係も元々は彼女の料理上達の手助けで始まったものだ。
以前彼女は自分の料理の腕前でマサカズさんに怒られたことがあると言っていた。
彼女はそれが不安なのだろう。
俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめながら言う。
いつにも増して真剣さを醸し出す。
「大丈夫ですよ。寧々さんの料理、だいぶ上手くなっていると思います。それに大事なのは結果じゃないと思うんです。上達するために何をしてきたか、それが伝わればマサカズさんも喜んでくれるんじゃないでしょうか」
俺は自分でも驚くほどにいいことを言ったんじゃないかと、心の中で自画自賛した。
どうやら彼女もそれを真剣に受け取ったくれたのか、笑顔を浮かべて「そうですね」と肩の力を抜いた。
「本当に、何から何までありがとうございました。秀二さんにはいくつお礼を言っても足りないくらいです」
彼女はまた深く頭を下げる。
俺はそれに安堵を覚えると、少し寂しい気持ちがぶり返してきた。
——本当に、これが最後か……。
そして別れ際、彼女は振り向きざまに、
「秀二さんも、何か私にできることがあればいつでも言ってくださいね。私、何でも協力しますから」
「何でも、ですか……」
「はい。何でも」
正直迷った……。でも、彼女の『何でも』という言葉に背中を押され、俺は今まで抱いていた願望を口にした。
「それじゃあ、今日……一緒に夕飯を食べませんか?」
「えっ……ご夕飯、ですか?」
動きを止める彼女。
——やはり、失敗だったか……。
俺はこれ以上ないほどの後悔の念が胸の奥から込み上げているのを感じた。
しかし自分の思いとは裏腹に、現実は予想よりも甘い展開を用意していた。
「わかりました。今日だけですけど、一緒に食べましょうか」
彼女はいつもの眩しい笑顔でそう言った。
そして彼女との夕飯は俺の部屋で行われることとなった。
どうやら寧々さんにはどうしても家に上げられない事情があるらしく、「秀二さんの家でなら」と言う条件を立てた。
俺はもちろんその条件を二つ返事で呑んだ。
俺としても、彼氏の家に上がり込んで食事をするほど命知らずではない。
彼女が家に上げられない理由も、あの家は本来マサカズさんのもの。当然他人である俺を勝手に上げるわけにもいかないだろう。
それを直接言わないのも、彼女の優しさに俺は思えた。
俺の提案が急だったこともあり、寧々さんは「それじゃあ、鍋ごと持ってきますね」と言ってひとまず家に帰った。
そして大きな鍋を携えて俺の家に上がった。
結香に次いで、俺の家に足を踏み入れた女性は彼女で二人目になる。
寧々さんお手製の最後の夕食は初めてお裾分けを貰った時と同じ、カレーだった。それを前回同様、ライスでいただく。
正直貰ってばかりではさすがに気が引けるなと、俺は以前友達から貰ったお酒を彼女に差し出した。
寧々さんは少し迷う素振りを見せたが、俺が多少強引に勧めると、コクリと頷いた。
彼女との夕食はとても楽しかった。
話の内容は主に、お互いの私生活ばかりで、俺は里桜村と言うど田舎の次男坊であることや、都会を出たい一心で一人暮らしを始めたことなどを語った。
当然、結香のことはおくびにも出さないように気をつけながら——。
寧々さんの実家も割と都会から離れたところにあるらしく、一人っ子なのだと言う。
最近は母方の従兄弟である女性に子供が生まれたらしく、名前は遊羽くん。
経験のためと世話をさせてもらったのはいいものの、全く上手くいかなかったそうで、この先子供を授かって本当に大丈夫なのだろうかと……。お酒も入っていたからなのか、彼女は意外にもそう愚痴をこぼした。
そんな他愛ない会話を繰り広げて一時間。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまです」
俺は両手を合わせて彼女への感謝を伝える。
寧々さんも笑顔でそれを受け取ると、当然のように腰を上げて皿を持ち上げた。
その時——。
「危ない——」
寧々さんはゆらりと体勢を崩すと、床に尻餅をついて倒れた。
見ると彼女の顔は真っ赤で、意識は朦朧としていた。
「寧々さん。お酒弱かったんだな……」
俺は一旦彼女をベッドへ寝転がすと、とりあえず先に皿洗いを済ませた。
時間にして三十分ぐらいだろうか……。
再び彼女の様子を確かめに行くと、彼女はぐっすりと寝息を立てていた。
「寧々さん。寧々さん——起きてください。寧々さん」
大声で呼びかけても、揺すっても彼女は目覚めない。
俺は深いため息をこぼして、ベッドに横たわる彼女を俯瞰した。
サラリと流れる髪に、これでもかときめ細かい肌。閉じたまつ毛は長く、わずかに開いた唇は狂おしいほどに肉厚だった。
それはまるで、おとぎ話に出てくるお姫様さながら……。
お姫様は王子様のキスで目が覚める……。
子供の頃に聞かされた、あるおとぎ話の一文が脳裏を掠めた。
俺は彼女の唇に吸い寄せられるかのように、顔を近づけていく。
そして……。
「——っ」
その唇に生暖かい感触を感じた瞬間、俺は彼女と目が合ってしまった。
「いやっ——」
どこにそれほどの力があったのか——。
次の瞬間には俺は部屋の隅へと突き飛ばされていた。
呆気に取られて固まる俺を、彼女は醜いものでも見つけたかのように睨みつけていた。
眉間には深いシワを刻み、光を取り戻した瞳からは微かに涙が滲んでいる。
酔いからか、それとも怒りからなのか、彼女の顔は真っ赤に燃え上がっていた。
ヘビとカエルの睨み合いのような時間。
そんな時間がおそらく数分……いや、数秒続いたのち、彼女は何も口にしないまま部屋を出て行ってしまった。
一人残された俺はただ呆然としたまま、最後に見た彼女の表情を思い浮かべていた。
——寧々さん……。あんな表情、できたんだな……。